第7話 演じる二人
その夜は、月がよく出ていた。
俺は縁側に座って、ぼんやりと庭を眺めていた。眠れなかったのだ。眠れない夜は、いつものことだ。背後の闇に、刃が潜んでいる気がして、目を閉じるのが怖い。
すると、足音もなく、隣に人の気配が座った。
帰蝶だった。
「殿は、また、眠れぬのか」
「……ああ」
「困った殿御じゃ」
帰蝶は呆れたように言って、けれど、立ち去りはしなかった。二人で、並んで月を見た。
不思議なものだ。
人が怖くて、間合いに入られるのが死ぬほど嫌な俺が、この女が隣にいると、なぜか、息がしやすい。背後の闇も、いつもより怖くない。
「なあ、帰蝶」
俺はぽつりと言った。
「俺の本当の願いを、聞いてくれるか」
「申してみよ」
「天下なんぞ、要らん。城も、武勲も、要らん。俺はただ……誰にも怯えず、誰にも怖がられず、お前と田舎の畑でも耕して、飯を食って、眠りたい。それだけだ」
言ってしまってから、俺は後悔した。
天下を取れと送り込まれた婿が、新妻に向かって、田舎で畑を耕したいなどと。あまりに情けない。蝮の娘に、笑われるに決まっている。
だが、帰蝶は笑わなかった。
ずっと、笑わなかった。
しばらく月を見上げてから、静かに、こう言った。
「……よい願いじゃ」
俺は息を呑んだ。
「天下を望む男など、掃いて捨てるほどおる。じゃが、田舎で畑を耕したいと願う殿御は、お前ひとりじゃ。――わたくしは、その願い、嫌いではない」
胸の奥が、じん、と熱くなった。俺の、ばかみたいに小さな願いを。笑わずに、聞いてくれる人が、とうとう、現れたのだ。
いつぞや、田を耕す百姓を遠目に見ながら、いつかたった一人でいいから、この願いを笑わずに聞いてくれる人が現れてくれたなら、と思った。その人は、いま、俺の隣で、同じ月を見ている。
俺は生まれて初めて、誰かと並んで夜を過ごすことが怖くなかった。
――そんな俺たちの様子を、遠くから、宿直の供の者が、そっと窺っていたらしい。
翌朝、城内には、こんな噂が流れていた。
「殿と御台は、夜半まで月を仰ぎ、密やかに語らっておられた。さだめし、天下の大事を談じておられたのであろう。あの夫婦、底が知れぬ」
天下の、大事。
俺たちが、夜更けに語り合っていたのは、田舎で畑を耕したい、という、ただそれだけの夢だったのだが。
世間は、本当に、よく間違える。
そして、その間違いの裏側で、俺は、確かに、救われていた。
数日後、三河から、文が一通、届いた。不格好だが、力のこもった筆跡で、こう記してあった。
『織田殿。約束のとおり、俺は強くなっています。いつか必ず、また会いに参ります』
竹千代だ。
あの、怖がりの人質の子が、覚えていてくれた。
俺はその文を、何度も読み返した。
帰蝶。竹千代。――俺には、いつの間にか、虚勢を張らずに向き合える相手が二人も、できていた。
人が怖い俺の人生に、こんな日が来るとは、思わなかった。
だが、穏やかな日々というものは、長くは続かない。それを、俺はまだ知らなかった。
間もなく、俺の父が逝く。
そして俺は、生まれて初めて、「自分のせいで人が死ぬ」という本物の重さを知ることになる。
「この女の前でだけ、俺は震えていてもいい」――誤解されたまま得た小さな救いにじんときたら、【にこにこ】か【いいね】を! 穏やかな日々の続きを見届けにブックマークを。




