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第1話 父が、逝く

俺は、後ろ盾を失うのが何より怖かった。


父が病に伏せったと聞いたとき、まっさきに胸に浮かんだのは、悲しみではなかった。恐怖だった。この人が死んだら、俺を守る者がいなくなる。


そう思った瞬間の自分の薄情さが、たまらなく嫌だった。


父の名は織田信秀(おだ のぶひで)という。尾張に名を轟かせた戦巧者だ。家中の誰もが、この人を恐れ、敬っていた。その息子が、俺だ。「大うつけ」と呼ばれる、出来損ないの嫡男。異装で野を駆け、餅を立ち食いし、相撲ばかり取っている、家の恥。


父は、そんな俺を最後まで見限らなかった。叱りはしたが、廃嫡はしなかった。なぜだったのか、俺には分からない。だが、一つだけ確かなことがある。


父が生きている間は、誰もおおっぴらに俺を害せなかった。織田信秀の嫡男という看板が、俺の身を守るただ一枚の盾だったのだ。


その盾が、いま、消えようとしている。


***


枕元に呼ばれたとき、父は、もうほとんど口がきけなかった。痩せ細った手が、俺の手を弱々しく握った。


俺は、何か言わねば、と思った。父上、長らくのご恩を、とか、後はお任せを、とか。立派な嫡男なら、言うべき言葉があるはずだった。だが、喉が詰まって、何も出てこなかった。


俺の頭の中を占めていたのは、もっとみっともないことだった。


――父上が死んだら、俺は、誰に守ってもらえばいいんだ。


そんな、子供じみた怯えだった。


情けない。死にゆく父を前にして、案じているのが自分の身の安全だなんて。


俺は、握り返すことしかできなかった。震える手で、父の冷たい手を、ただ握り返した。


***


ほどなく、父は逝った。家中は、たちまちざわついた。表向きは、皆、神妙に喪に服している。だが、その裏で、何かがぞわぞわと蠢きはじめたのを、俺は肌で感じていた。


跡目は、誰が継ぐのか。


うつけの兄か。それとも、聡明と評判の、弟か。


廊下の角を曲がるたび、家臣たちが声を潜めて何かを話し、俺を見ると、ぴたりと黙る。あの目だ。値踏みする目。「この大うつけに、織田を任せられるのか」と。背中に、いくつもの視線が刺さる。


そのどれもが、刃に見えた。


俺は、自分の部屋に逃げ込んで、戸を立てて膝を抱えた。


帰蝶が、そっと、入ってきた。


「殿」


「……来るな。いや、来てくれ。すまん、どっちだ、俺にも分からん」


帰蝶は、何も言わず、俺の隣に座った。


「父上が、死んだ」


俺は、ようやく、それだけ言った。


「俺を守ってくれる、たった一枚の盾がなくなった。これからは、俺が織田の盾にならなきゃいけない。……できるわけがない。俺は、こんなに怖がりなのに」


帰蝶は、俺の背に、そっと手を置いた。


その手の温もりだけが、暗い部屋で、唯一、刃でないものだった。


***


そして、葬儀の日が決まった。


万松寺(ばんしょうじ)に、尾張じゅうの者が集まるという。父の威光を慕う、数えきれぬ弔問の客が。


俺は、その報せを聞いて、血の気が引いた。


人が、来る。途方もない数の人が、一つ所に集まる。そして、その真ん中に、喪主として、この俺が立たされる。


俺の人生で最も多くの人間に囲まれる日が、よりにもよって、最も心細いこのときにやってくるのだった。


慕う情より「守る者がいなくなる」恐怖が先に立ってしまう――その自己嫌悪の切実さに胸が痛んだら、【いいね】か【泣ける】を! 喪失の物語の始まり、ブックマークで見守ってください。

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