第5話 気丈な御台
「夫婦を演じてやる」
帰蝶のその一言から、俺たちの奇妙な暮らしが始まった。
俺たちは契約を交わした。人前では、睦まじい――いや、恐ろしい魔王夫婦を演じる。二人きりのときは、互いの事情には踏み込まず、ただ、生き延びるために手を組む。子作りは求めぬ。心も求めぬ。求めるのは、ただ一つ、共に生き延びることだけ。世間を欺くための、契約だった。
これが、思いのほかうまくいった。帰蝶は芝居が恐ろしく上手かった。
家臣たちの前に出ると、あの女は別人になる。背筋を伸ばし、顎を上げ、氷のような眼差しで一同を見渡す。蝮の娘の名に恥じぬ、凛とした御台の風格。誰一人、その奥に「男嫌いの素顔」が隠れているとは、気づかない。
おかげで、俺は助かった。
宴の席で、俺が恐怖に固まって一言も喋れずにいると、帰蝶がすかさず引き取って、場を収めてくれる。家臣が間合いに近づきすぎると、さりげなく俺との間に立ってくれる。俺の震えを、誰にも悟らせない。
二人きりになると、帰蝶は、深いため息をついて、こう言うのだ。
「殿。また、汗びっしょりではないか。あれしきの宴で、いったい何を怯えておられる」
「……だって、あいつら、何を考えているか分からん。膳を運ぶ手元が、ずっと気になって」
「料理に毒など盛られておらぬわ。わたくしが、先に同じ皿から食うておるでな」
俺はその言葉に、心底ほっとする。
この女の前でだけは、震えていても、いいのだ。うつけを演じる必要も、虚勢を張る必要もない。怖いものを怖いと言える相手が、生まれて初めて、できた。
だが、家中の者たちには、俺たちの真実など、知る由もない。
彼らは、彼らの目に映ったものを、勝手に語り合った。
「御台様は、まことに気丈なお方よ。あの魔王のごとき殿の隣で、眉一つ動かされぬ」
「蝮の娘というだけのことはある。殿が黙して睨まれても、一歩も引かれぬ。あれこそ、織田にふさわしき御台じゃ」
「殿と御台が二人、無言で見つめ合うておられる様は……まこと、底知れぬ。あの夫婦、何を企んでおられるのか」
違う。
帰蝶が一歩も引かないのは、胆力ではない。芝居だ。
俺たちが無言で見つめ合っているときは、たいてい、こうだ。
俺が「もう逃げたい、宴を抜けたい」と目で訴え、帰蝶が「もう少し辛抱なされ、馬鹿」と目で叱っている。それだけのことだ。
底知れぬ企みなど、どこにもない。あるのは、怖がりの夫と、その夫を匿う妻の、ささやかな共犯だけだ。
それでも、家中には、こんな噂が立ちはじめた。
「魔王に嫁いで、一歩も引かぬ気丈な姫がいる」と。
俺はその噂を聞くたびに、こっそり思う。
世間というのは、本当に、よく間違える。
そして、その間違いに、俺は心底、救われている。
人前は冷徹な魔王夫婦、二人きりでは泣き言と庇い合い――その落差にニヤけたら、【笑える】か【にこにこ】を! この夫婦の共犯ぶりを追いたい方はブックマークで。




