第4話 契約の初夜
襖を開けると、帰蝶は褥の脇に背筋を伸ばして座っていた。
灯火に照らされた横顔は、噂に違わず、美しかった。だが、その美しさ以上に、俺の目を惹いたものがある。
その目だ。
凍りついたように冷たく、こちらを射貫いてくる。歓びも、恥じらいもない。あるのは、警戒と、隠しきれぬ嫌悪だけだった。
俺はその目を見て、かえってすこし落ち着いた。
ああ、こいつも、嫌なのだ。
俺は後ろ手に襖を閉め、できるだけ褥から離れた場所に座った。一間でも、近づきたくなかった。向こうも同じだったのだろう、ほっとした気配が、わずかに伝わってきた。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
灯心が、じじ、と鳴った。
俺は、相手の袖と手元から、目を離さなかった。いつ刃が抜かれるか分からない。心の臓が、肋の内側で、早鐘を打っている。向こうも俺を油断なく見ていた。
──睨み合いだった。
戦場のど真ん中に、二人きりで放り込まれたような、息の詰まる沈黙。
やがて、帰蝶が口を開いた。氷のような声だった。
「殿は」
「……なんだ」
「わたくしが、父の手の者だと、お思いなのでしょう」
ぎくり、とした。
見抜かれている。
俺は咄嗟に何も返せなかった。図星だったからだ。返事のかわりに、冷や汗がこめかみを伝った。
帰蝶はその汗を見ていた。そして、ふっと目を細めた。
「妙な殿御じゃ。わたくしを警戒しているはずが――震えておられる」
しまった、と思った。もう、隠せない。隠したところで、この女は、最初から見抜いている。
俺は、観念した。腹を括る、というのとは違う。ただ、これ以上、虚勢を張り続ける気力が、尽きたのだ。
俺は深く息を吐いて、本音を吐き出した。
「……怖いのだ」
帰蝶の眉が、わずかに動いた。
「儂はな、怖い。お前が怖い。人が怖い。いつ寝首をかかれるか、いつ毒を盛られるか、それを考えると、夜も眠れぬ。お前が父御の間者ならば、儂はいつか、お前に殺される。そう思うと――こうして、震えが止まらん」
我ながら、夫が新妻に言う言葉とは思えなかった。
だが、もう、どうでもよかった。
「だがな。一つだけ、言っておく」
俺は帰蝶の目をまっすぐに見た。
「儂は、天下も、床も、望まぬ。お前を組み敷くつもりも、織田の世継ぎを急かすつもりもない。儂が欲しいものは、ただ一つ――生き延びることだ。明日も、その次の日も、誰にも殺されず、ただ生きていたい。それだけだ」
言い終えて、俺は力なくうなだれた。
これで、帰蝶は美濃へ報せるだろう。織田の婿は、とんだ腰抜けのうつけだと。明日にでも、美濃の兵が攻めてくるかもしれない。
だが、不思議と、後悔はなかった。
ずっと、誰かに、本当のことを言ってみたかったのだ。
長い、沈黙があった。
やがて。
帰蝶が、ふっ、と息を漏らした。
笑った、のだった。
俺が顔を上げると、さっきまで凍りついていたその顔から、嫌悪が消えていた。代わりに浮かんでいたのは――どこか、安堵にも似たやわらかな色だった。
「殿」
帰蝶は言った。
「わたくしも、申し上げます。わたくしは、男が嫌いじゃ。政略の道具にされるのも、心底、嫌じゃ。父の命で嫁いではきたが、本心では、誰の妻にもなりとうなかった」
帰蝶はすっと背を正した。
「ですが――天下も床も望まぬ、ただ生き延びたいだけ、と申される殿御は、初めてじゃ」
そして、こう言った。
俺の、一生を変える言葉を。
「面白い殿御じゃ。よかろう、夫婦を演じてやる」
「儂は天下も床も望まぬ、ただ生き延びたいだけだ」の本音と、それを見抜く帰蝶の粋にやられたら、【にこにこ】か【いいね】を! 最高の相棒の物語、見逃さないようブックマークを。




