第3話 蝮の娘が来る
逃げられぬ相手が来る、という噂は、本当だった。
美濃の蝮、斎藤道三。その娘が俺のもとへ嫁いでくる。帰蝶という。
縁談ならば、いつものように、うつけを全開にして追い払えばいい。瓢箪の水を飲み干し、干し柿を齧り、腰の餅を頬張り、無言で席を立つ。それで大抵の話は、向こうから消えてなくなる。
女は、怖い。何を考えているのか、まるで読めない。にこにこと笑いながら、袂に刃を隠しているかもしれない。だから俺は、女が近づくたびに、うつけを演じて逃げてきた。この城の誰も、それが逃げだとは気づいていない。
だが、これは縁談ではなかった。
織田と斎藤の、同盟だ。
国と国とが、刃を交えぬための約定。その証として、人ひとりが輿に乗せられて運ばれてくる。俺がどんな奇行を見せようと、向こうがどれだけ嫌がろうと、この話は、もう引き返せない。
家中は、浮かれていた。
「美濃の蝮と手を結べば、織田の背は安泰。めでたいことにございます」
「あの道三の姫君が御台にお成りとは。これで尾張も、一安心ですな」
「若殿も、さぞ心待ちにしておられましょう」
家臣の一人が、そう言って俺の顔色をうかがった。俺は黙って干し柿を齧った。何も言わずにいると、彼らは勝手に「泰然たる若殿よ」と頷き合う。
――そうではない。
俺だけが、青ざめていた。手のひらに、汗が滲んでいた。
考えてみてほしい。斎藤道三という男は、主家を乗っ取り、舅を追い、息子とも刃を交えるような、戦国きっての梟雄だ。その男が、可愛い娘をただ仲良くするために寄越すと思うか。
違う。
これは、間者だ。
道三は、娘を俺のもとへ送り込み、織田の内情を探らせるつもりなのだ。婿が頼りないうつけと知れれば、いつでも美濃の兵が攻め込んでくる。帰蝶という姫は、その値踏みのために遣わされた生きた目であり、耳なのだ。
つまり俺は、これから、敵の間者と同じ褥で眠ることになる。
人が怖い。女が怖い。間合いに入られるのが、たまらなく怖い。
その俺が、よりにもよって、寝首をかきに来てもおかしくない相手と、毎晩、枕を並べる。しかも、逃げ場のない、二人きりの奥の間で。
考えただけで、胃が、きりきりと痛んだ。腹の底が、ひやりと冷える。俺の腹は、怖いことがあると、すぐにこうなる。
冗談ではない。
輿入れの日が来た。
長い行列が、しずしずと城へ入ってくる。きらびやかな輿。供の女房たち。荷を担ぐ人足の列。幾竿もの幟が、風にはためいている。それを、家中の者は晴れやかに迎えていたが、俺の目には、敵の軍勢が城門をくぐってくるようにしか、見えなかった。
女房たちの一人一人が、刺客に見える。荷の中には、兵が潜んでいるのではないか。輿の帳の奥から、こちらを狙う目が光っているのではないか。俺は門の脇に立ち、腕を組み、じっと行列を睨みつけていた。恐ろしくて、そうしているだけだった。
だが後で聞けば、供の者たちは震え上がっていたという。「噂に違わぬ、恐ろしい面構えの若殿であった」と。うつけどころか、鬼のようだった、と。
――違う。俺はただ、お前たちが怖かっただけだ。
あの輿の中の女は、どんな顔で俺を見るのだろう。袖の中に、刃を呑んでいないだろうか。夜、二人きりになったとき、寝入った俺の喉へ、それを当てはしないだろうか。
冷や汗が背を伝った。
逃げたい。
だが、逃げ場はもう、どこにもなかった。
その晩、褥の用意された奥の間の襖の前で。
俺は初夜という名の戦場を前にして、立ち尽くしていた。
女が怖い、人が怖い、なのに逃げられない相手が来る――青ざめる殿だけの初夜前夜に笑ったら、【笑える】を! 「面白い殿御」の運命が気になったらブックマークへ。




