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第3話 文芸部の後輩が垢抜けてイキってくる件


 俺は走った。


 ウサイン・ボルトも裸足で逃げ出す勢いで、教室棟から特別棟へと続く渡り廊下を疾走する。


 心臓が早鐘を打っている。

 運動不足のせいではない。たった今、我が人生の詰み筋が確定したからだ。


 高校中退性犯罪者人生終了。

 高中性罪こうちゅうせいざい 人終じんしゅう

 急増の六文字熟語が、俺の脳内をぐるぐる駆け巡る。


 幼馴染のフユミ。一軍ギャルのコハル。

 この二人に手を出して、記憶がない。ラブコメの主人公なら「やれやれ」で済むかもしれないが、現実は甘くない。刺される。間違いなく刺される。Nice boat.不可避だ。


「はぁ、はぁ……ここなら……」


 辿り着いたのは、特別棟の最奥、古本の匂いが落ち着く文芸部室だ。


 ここは俺の精神的シェルター。ここには幼馴染もギャルも来ない。


 いるのは、俺と同じくスクールカーストの圏外に生息する、地味で根暗な後輩だけだ。


 俺は救いを求めるようにドアを開けた。


「た、助けてくれ冷水しみず! かくま……っ!?」


 言葉は、喉の奥で凍りついた。

 いつもの部室。いつもの茶菓子の匂い。


 だが、部員だけがバグっていた。


「おや。随分と慌ただしい入室ですね、先輩。風の又三郎かと思いましたよ」


 そこにいるのは、俺の後輩・冷水しみず 夏希なつきのはずだった。


 だが、俺の網膜に映るのは、見知らぬ美少女。


 重たく目元を隠していた前髪はバッサリと切り払われ、白磁のような額が露わになっている。


 顔の半分を覆っていた分厚い銀縁メガネは消滅し、涼しげで理知的な瞳が、ダイレクトに俺を射抜いている。


 ボサボサだった黒髪は天使の輪ができるほど艶めくボブカットに整えられ、よれたカーディガンではなく、のりの効いたシャツをパリッと着こなしている。


 誰だオマエ。

 俺の知る冷水夏希は、もっとこう、妖怪 濡れ女みたいな陰湿なオーラを放っていたはずだ。


「……え、だ、誰?」


 俺が震える声で尋ねると、彼女はふっと鼻で笑った。


 その笑みだけは、俺のよく知るシミズそのものだった。


「誰、とは心外ですね。貴方のために『解像度』を上げて差し上げたというのに。これだから三次元の男子は。スペックの低いGPUを搭載しているのでは?」


「そのクソ憎たらしい口調……冷水しみずか!?」


「左様。冷笑の冷水しみずこと、冷水しみず 夏希なつきであります」


 シミズは文庫本をパタンと閉じ、優雅に足を組み替えた。

 その仕草だけ分かる。コイツはもう陰キャじゃない。カースト上位の、女王の風格が漂っている。


「先輩。貴方は『更級日記さらしなにっき』をご存知で?」


「は? あ、ああ。菅原すがわらの孝標女たかすえのむすめの……」


「ええ。作者は物語に憧れ、現実逃避を繰り返したオタクの始祖とも言える存在。しかし彼女は晩年、仏道に入り悟りを開いた」


 シミズはそこで言葉を切り、組んだ足の上で手を合わせ、恍惚とした表情を浮かべた。


「私もまた、悟りを開いたのです。二次元という彼岸ではなく、先輩という此岸しがんにこそ、真の萌え……いえ、ロゴスがあると」


「何言ってんの? 日本語喋ってくれる?」


 俺のツッコミを華麗にスルーし、シミズは立ち上がった。


 一歩。また一歩。

 普段は俺との距離を2メートル開け、ATフィールドを保っていた彼女が、ズズイと詰め寄ってくる。


 近い。

 コハルとは違う種類の圧迫感。

 理論武装したオタクに特有の、自分語りモードの無敵感がある。


「な、なんだその垢抜けぶりは。イメチェンか? 美容院に行ったのか?」


「フッ。これは『イメチェン』などという俗な言葉では表現できませんね。言うなれば、『神アプデ』ですよ」


「自分で神言うな」


「バグだらけのβ(ベータ)版だった私を、先輩が正式リリースへと導いてくださったのですから」


 シミズは俺の目の前、鼻先が触れそうな距離で立ち止まった。


 メガネがない素顔の破壊力は凄まじい。美少女四天王の一角、『隠れ美少女』という噂は本当だったのか。


 今や全く隠れてない。完全に顕現している。


「導いた? 俺が?」


「とぼけないでください。……あの夜、白熱しましたねぇ」


 シミズがうっとりと頬を染める。


「三島由紀夫の文体模写から始まり、最終的には『愛とは何か』という形而上学的な問いについて、朝まで語り明かしたではありませんか。私の論理的防壁を、先輩はいともたやすく突破ハッキングし……あまつさえ、私の深層領域カーネルにまで侵入して」


 そこまで言うと、シミズは俺の胸にトン、と人差し指を突きつけた。


「私で童貞捨てたくせに、来るのが遅いですよ」


 ――ッドガァァン!!(効果音:俺の理性が爆発する音)


 三人目ェェェエエエ!!!

 俺は膝から崩れ落ちそうになった。


 嘘だろ! 嘘だと言ってくれ!!

 フユミ、コハルと来てシミズだと!?


 童貞喪失のバーゲンセールかよ! 俺の貞操観念はどうなってるんだ! ガバガバか! セキュリティホールだらけのWindows 95か!


「ちょ、ま、待てシミズ。言葉の綾だよな? 童貞っていうのは、こう、精神的な、知的な意味での……」


「あら? 『肉体は魂の牢獄』とプラトンも言っています。私たちの魂の交合まぐわいは、肉体的な結合よりも遥かに高尚で、濃厚な事実ファクトですよ?」


「ややこしい言い回しをやめろ! つまりヤッてないんだな!?」


「野暮ですねぇ。シュレーディンガーの猫ですよ、先輩。箱を開けるまでは、事実は重なり合っているのです」


 シミズはニヤニヤ笑った。

 その笑顔は、完全に「調子に乗ったオタク」のそれだった。

 今まで「私なんて」と卑下していた陰キャが、一度成功体験(勘違い含む)を得た瞬間に全能感に目覚めてしまった、一番タチの悪いパターンだ!


 俺もよくそうなるから、よくわかる。


「先輩のおかげで、私は自分に自信が持てました。なので、これからは部室だけでなく、教室でも、廊下でも、あるいは先輩の家でも……ずっとお傍で、高濃度のオタクトークを垂れ流して差し上げます」


「拷問かよ!」


「ご褒美ですよ? 私の推しは貴方になったんですから。同担拒否です。リアコのガチ恋です。無限回収です」


 シミズの瞳がギラギラと輝いている。

 怖い。愛が重いフユミとも、距離感バグってるコハルとも違う。


 これは「信仰」だ。

 俺というポンコツ邪神を崇める狂信者がここに爆誕してしまったのだ。


 まずい。

 ここにいては、俺の脳が彼女の長広舌ちょうこうぜつによってハッキングされてしまう。


 それに、もしフユミやコハルがここに来て、この『覚醒シミズ』と鉢合わせたら?


 第三次世界大戦ハルマゲドンだ。


 俺を中心に、世界が滅びる。


「あ、あー! 思い出した! 俺、生徒会に呼び出されてたんだった!」


 俺は苦し紛れの嘘を叫んだ。

 生徒会。そう、あそこは規則に厳しい。この不道徳なハーレム展開を断罪してくれる唯一の司法機関かもしれない。


「おや、残念。では、続きはWebで。……じゃなくて、LINEで送りますね。長文クソデカ感情を」


 シミズがスマホを取り出すのを見て、俺は部室を飛び出した。


 背後から「既読スルーは万死に値しますよ~!」という楽しげな声が聞こえる。


 俺は廊下を走る。

 もう体力は限界だ。精神も限界。

 だが、止まるわけにはいかない。

 校内最強の権力者にして、最後の四天王。

 彼女の元へ行けば、あるいはこの異常事態を解決してくれるかもしれない。


 ――そんな淡い期待が、最大の絶望へのフラグだとも気づかずに。

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