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第4話 生徒会長が壁ドンで迫ってくる件

 走る。走る。走る。


 俺は文芸部室からの脱出に成功したものの、新たな危機に直面していた。


 ――腹が、痛い。

 フユミが朝食の味噌汁に投入した大量の黒胡椒。そして、登校してから立て続けに発生した童貞喪失疑惑による極限状態の連続。


 俺の胃はすでに限界を迎えていた。

 ピペリンとストレスのダブルパンチが腸内フローラを殲滅し、胃袋を蜂の巣にした。


 ヤバい、決壊する。

 俺の尊厳が、社会的な死とは別の意味で死ぬ!


 高中性罪こうちゅうせいざい 人終じんしゅうに加えて、『うんこマン』の称号まで加わったら、俺はもう来世に期待するしかない。


 目指すは生徒会室……ではなく、その手前にある男子トイレだ。


 特別棟の3階。生徒会長執務室があるこのフロアは、生徒も教員もほとんど寄り付かない。つまり、トイレも空いている可能性が高い。


 まさに聖域だ。


 俺は脂汗を滝のように流しながら、三階の廊下を進む。競歩のような不自然なフォームで突き進む。


 あと少し。

 あと五メートルでトイレの個室だ。

 だが安心するな。気を緩めるな。どことは言わんが緩めるな。


 勝利が見えたときこそ、兜の緒と肛門括約筋を引き締めなければならない。


 そのとき、


「あら、日村さん」


 涼やかで上品な声が、俺の耳朶じだを打った。

 ピタッと俺の足が止まる。いや、正確には肛門括約筋を全力で引き締めるために、全身の筋肉を硬直させたのだ。


 ゆっくりと首を回すと、生徒会室のドアが開き、一人の女子生徒が立っていた。


 木南きなみ秋葉あきは先輩。


 特進コースの三年生だ。


 第78代生徒会長にして、京都の旧家出身という正真正銘のお嬢様。

 腰まで届くつややかな黒髪ロング、校則通りに着こなした制服にはシワ一つない。

 そして何より、姿勢が良い。スーパーモデルのように、背筋がピンと伸びている。茶道や華道のたしなみがあると噂で聞いた。


 彼女もまた、美少女四天王の一角である。


 だが、今の俺にとって彼女は、トイレへの道を阻むガーディアンでしかない。


「あ、き、木南先輩……おはようございます……」


「おはようございます。体調が優れないようですが……いかがなさいました?」


 木南先輩は心配そうに眉を寄せ、俺の方へと歩み寄ってくる。


 白魚のような手が俺の額に伸びてきた。


「お熱は……なさそうですね。ですが、冷や汗をかいてらっしゃいます」


「い、いえ、あの大丈夫です! ちょっと、あの、腹痛が……」


 俺がトイレを指差すと、秋葉先輩は「まあ」と口元を押さえた。


「それは大変。……ですが、日村さん。腹痛よりも先に、解決すべき問題があるのではなくて?」


「はい?」


 木南先輩の瞳が、スッと細められた。

 穏やかだった空気が一変し、ネットリまとわりつくような湿度を帯びる。


 気付けば廊下には誰もいない。何か嫌な予感がする。


 木南先輩は俺の耳元に顔を寄せた。お茶とお菓子のいい匂いがする。


「今朝は、ずいぶんとハシャいでおられますね。月澄さんや火伏さん、そして冷水しみずさんからも、何やら秋波しゅうはを送られているとか……」


 秋波とは色目のことだ。木南先輩は古風な言い回しを使う癖がある。


 ってそれどころじゃねえ!!


「な、なぜそれをご存知で……?」


「わたくし、生徒会長ですもの。学内の情報は全て私の耳に入りますよ」


 木南先輩はたおやかに、ふふっと笑った。


 嘘だろオイ情報官か何かかこの人。


 先輩は俺の制服のえりを直すように、指先を首筋に這わせる。


 官能的な指遣い!

 ゾクッと背筋が震える。腹痛とは別の種類の悪寒だ。


「日村さん……いえ、トーマさんとお呼びしましょうか」


「はぇ!?」


「貴方は少々、ワキが甘すぎます。あのような『お子様』たちにうつつを抜かすなんて」


「お、お子様……?」


「ええ。月澄さんも火伏さんも、冷水さんも。所詮は戯れ、遊びの関係。……ですが、私との時間は、もっと『重み』のあるものでしたでしょう?」


 まさか……4人目?

 来るか? 来てしまうのか?


 木南先輩は俺の腕を取り、強引に引き寄せた。

 おしとやかな見た目に反して、力が強い。そういえば柔道の有段者だったか……。


 俺は壁際に追い詰められる。いわゆる壁ドンだ。黒髪ロングのお嬢様からの。


「あの日、貴方は私に、教えてくださいましたね」


 木南先輩は俺の耳元に、熱っぽい吐息を吹きかけた。


「誰もいない部屋で……私、何も知らなかったものですから……子どもだった私を、優しく、時に激しく……大人にしてくださいましたでしょう?」


「お、おとな……!?」


「ええ。あんな声を出したのは、生まれて初めてでしたわ……」


 おとな!? あんな声!?

 一体何をしたんだ俺は! 柔道で一本背負いでもしたのか!? いや、文脈的にそれは違う! もっとこう、R指定ギリギリのアレか!?


「先輩、それ本気ですか!?」


「あら、つれないですわね。あんなに熱く、昼も夜もなく触れ合ったのに……」


 木南先輩は一度言葉を切り、艶然と微笑んだ。

 淑女然とした瞳の奥には、獲物を逃さぬ捕食者の光があった。


 彼女は、俺の耳元で、トドメの一撃を囁いた。


「私で童貞を捨てたくせに、ウチに来ないとはどういうことですか?」


 心臓が止まった。

 止まったままでいてほしかった。


 四人目。

 四人目!


 四人目だ!!


 コンプリートだ。美少女四天王、完全制覇だ。トロフィー獲得音が脳内で鳴り響いている。


 幼なじみの月澄・フユミ・エインズワース

 一軍ギャルの火伏 琥春

 文芸部の後輩、冷水 夏希

 そして、生徒会長の木南 秋葉


 四股だ。完全に四股だ。

 俺の失われた一週間は、火の七日間ならぬ性の七日間と化していたらしい。


 だが、今現在の俺にとって、それ以上に重大な問題がある。


 限界だ。

 俺の括約筋が、決壊しようとしている。


「せ、先輩! その話は、非常に重要で、かつ興味深いですが、今は生理的欲求が優先度Sランクなんです!」


「あら。逃げるおつもり?」


「逃げません! 漏れそうなんです!」


 俺は必死の形相で訴えた。

 木南先輩は一瞬きょとんとした後、くすくすと上品に笑った。


「ふふ、面白い方。……よろしい。行ってらっしゃいませ」


 彼女が体を引いた瞬間、俺はトイレの個室へと飛び込んだ。


 ――バタン! ガチャン!

 鍵をかけ、便座に座り込む。


 いらぬ描写なので割愛。


 間に合った。尊厳は守られた。


 「はぁ……はぁ……」


 俺は深く息を吐き、天井を見上げた。

 トイレの個室。ここだけが、今の俺に残された唯一の安息の地だ。


 だが、冷静になって考えてみると、状況は何も解決していない。

 

 フユミ。コハル。シミズ。木南先輩。


 空白の一週間。俺は一体、どんなプレイボーイとして振る舞っていたんだ?


 その時、個室の外から、コンコンとノックの音がした。


 そして、木南先輩の声が響く。


「日村さん。出られたら、生徒会室へいらしてくださいね……。お話したいことがございますので……」


 ――ヒェッ。


 トイレの中まで追い詰められている。

 俺は悟った。


 この「記憶喪失」と「四天王からの求愛(&脅迫)」というミステリーは、俺がトイレから出た瞬間、本格的に幕を開けるのだと。


 俺は震える手でスマホを取り出し、「記憶喪失 四股 法的責任」とAIに相談した。


 誰か、この一週間の真相を教えてくれ……!


 AIは答えた。


『その質問はガイドラインに違反しています』


「クソァ!!!」


 俺の悲痛な叫びは、改めてトイレの水を流す音と共にかき消された。






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