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第35話 ☆木南秋葉という人間

「アキハお嬢様、本日のパーティについてですが」


 タカの声に、


「ええ、わかってる」


 私は窓の外を眺めたまま、短く答えた。


 車は夕暮れの街をゆく。スモークガラス越しに見える外の世界は、紅茶の色に染まっていた。


 街路樹の影は規則正しく、車体を横切っていく。


 七曜祭は大成功だった。


 在校生と保護者だけでなく、地元の名士も多数来場した。

 我が木南家のネームバリューと、学園長たる土屋ツユリのコネクションが合わさっているのだから、当然の結果だ。


 おかげで今年の七曜祭は、例年以上の盛況だった。


 この木南秋葉の名の格が、また一つ高まった。


 私はふぅっと息を吐く。


 さて、今夜のパーティについて考えよう。


 何を着ようか?

 頭の中で、手持ちのドレスを順番に引っ張り出していく。


 ヴァレンティノの白いロングドレスは?

 少し華やかすぎるかも。今夜のパーティー小規模な親睦会だから、それほど目立たないものの方が良い。


 ではシャネルのネイビーは?

 コンパクトなシルエットで、品がある。悪くない。でも、もともとは明朝のパーティーで着ようと思っていたものだ。被らせるのは避けたい。


 だとすれば、アルマーニの深緑のドレスはどうだろう。

 年始の地中海旅行中に、ローマのブティックで見立ててもらったものだ。私の黒髪によく映える、と仕立て屋さんは言っていた。


 これにしよう。今夜はアルマーニを着る。


 そこまで考えてから、ふと思った。


 トーマさんやったら、『何を着ても似合う』って言うんやろな。


 絶対にそうや。

 深緑でも、ネイビーでも、白でも。あの人は『似合う』って言う。屈託なく、嘘偽りなく、当たり前みたいに私を褒める。


 あの人、女たらしやから。


「嬉しそうどすな、お嬢様」


 タカの声で我に返る。

 窓ガラスに映る私の顔は、だらしなく緩んでいる。慌てて表情を引き締める。よし、いつも通り。


 ルームミラー越しにタカの様子をうかがう。巌から切り出したような、ホリの深い顔つき。いつも通りの金属的な無表情。


 猛禽めいた瞳の奥底に、穏やかな光が宿っていた。


「……お綺麗にならはりましたな」


 タカの言葉に、私は少し驚いてしまった。タカは淡々と続ける。


「近頃のアキハお嬢様は、いつにも増してお美しいですよ」


「……そうやろか」


「ええ。以前のお嬢様は、完璧でいらっしゃいました。持てる全てを兼ね備えてはる。超人的です。今のお嬢様には、それに加えて──」


 一拍。


「人間性があります」


 私は口をつぐんでしまった。


 人間性──。


「……トーマさんのおかげやろね」


「ええ」


 タカは頷いた。


「若様が、ほんまのお嬢様の、ありのままを見つけ出してくれはった。そう思うております」


 ありのまま。


 私はその言葉を、口の中で転がした。


 ありのままの木南秋葉とは、何だろうか。


 私は最初から完璧やった。誰よりも先を読んで、いつも先回りして、どこへ行っても一番で。


 そういう生き方に慣れていた。

 それが木南秋葉だと思っていた。


 窓の外、街灯が一つ灯った。夕暮れの中で頼りなく揺れる光。


 私はそれをぼんやり眺めながら、もう少しだけ、考え続けた。






 人は泣きながら生まれてくるという。

 ならば私は最初から、人でなかったのだろう。


 私は、泣かずに生まれた。


 私は産声を上げなかった。ただ静かに呼吸を始めた。

 健康上の問題は何もなかった、と母は言っていた。出生時体重は、平均よりわずかに重かったという。


 初めて喋った言葉を、覚えている。


 『なんで泣くの?』だった。


 周囲の赤子は、何かあるたびに泣く。お腹が空けば泣くし、かゆいところがあれば泣くし、何もなくても泣く。


 泣かなくても自分でやればいいし、自分で出来ないことは人に頼めばいい。


 なんで人が泣くのか、私にはわからなかった。


 年を重ねるにつれ、私は何でも出来るようになっていった。


 本当に、何でも出来た。

 学業は教科書を読めば十分。運動は手本を見ればコーチ以上に出来る。音楽は、楽譜の通りに手を動かすだけで良い。


 必要な知識を入力して、最適な形で出力するだけ。一切合切は単純作業に思えた。


 皆が何に悩んでいるのか、私には全く分からなかった。


 その無理解が引き起こす孤立を、私は予想できていなかった。


 六歳のとき、バイオリンのコンクールで一位を取った。七歳でも一位だった。八歳のとき、同じクラスの子たちが全員辞めた。九歳のとき、先生が『この仕事を辞める』と言った。


 先生に聞いた。


「バイオリンが、お嫌いになったのですか?」


 先生は少し困った顔をして、


「バイオリンは好き。自分が嫌いになったの」


 と答えた。

 私が首を傾げると、先生は


「……アキハちゃんが、上手すぎるから」


 と呟いた。


 それからハッとして、怯えたような顔で私に謝った。そのときの、見開かれた目や、震えるまつ毛、引き結ばれた唇を、鮮明に思い出せる。


 私と深く関わった人の反応は、いつだってそうだった。

 

 でも、みんなが追いついてくれれば解決する話だ。


 私はそう思って、練習を楽しんでいた。

 でも、誰も追いついてくれなかった。私は一人になった。





 父の不倫を目撃したのは、小学五年生のときだった。


 私は特に何も感じなかった。

 母は悲しむだろう、と思った。母は、父から贔屓されることをアイデンティティにしていたから。


 父の不倫を知れば、母はショックを受けるはずだ。

 母がショックを受けると、家族仲が悪化する。家族仲が悪化すると、私の生活の質も下がる。


 父の不倫を隠す必要があった。


 だから私は、即興でアリバイを作った。証拠を隠す方法と、辻褄の合う作り話を父に提供した。


 完璧なアリバイだった。

 けれど、父はそれを受け容れなかった。


 父は私に謝った。そして、母と連絡を取った。

 両親が言い争うことはなかった。いつも通りの日々が続いた。


 ただ、それ以来、両親が私を見る目は変わった。娘を見る目ではなくなった、と思う。




 高校二年生の春。

 私が抜けた後のバイオリン教室で、私より良い成績を取った子がいる、と知った。


 その子の名前は、月澄(つきずみ)・フユミ・エインズワース。七曜学園に入学してきた彼女に、私はチョッカイを出すようになった。


 フユミさんは生真面目で純真無垢で、からかい甲斐のある子だった。


 そんなフユミさんが、幼馴染の男の子と複雑な関係である、と知った。


 彼の名前は日村(ひむら) 斗真(トーマ)


 どこにでもいそうな、ごく普通の人だった。

 こんな平凡な男の子が、フユミさんの心を掻き乱している。


 その事実が面白かったから、私は彼に興味を持った。


 私が彼と仲良くなったら、フユミさんはきっと嫉妬するだろう。


 それでフユミさんとトーマさんがくっつけば良し。

 トーマさんが私を好きになってしまったら、それはそれで面白い。


 そんな悪趣味なイタズラ心で、私はトーマさんと逢瀬を重ねた。お昼休みに一緒にランチして、放課後に美術館や水族館を訪れて、小説を貸し借りして、他愛のない世間話をして……


 そこまでしたのに、トーマさんは私に恋することは無かった。


 そうなると、意地でも振り向かせたくなる。私が負けたみたいで気が済まないから、絶対に自分のものにしたくなった。


 気づけば私は、朝な夕なにトーマさんのことを考えていた。


 自分で自分が不思議だったから、分析した。


 答えはすぐに出た。

 希少性の原理だ。私になびかない人間は珍しい。レアドロップは欲しくなる。単純な話だ。


 そう結論して、納得した。

 納得したはずなのに、考えるのが止まらなかった。


 胸のあたりが妙な具合だった。

 痛いような、熱いような。まだ知らないもの。


 その正体を考えあぐねていた、ある日のこと。


 かかりつけの医師から、連絡が入った。




 医師は、いつも通りの診察室で、いつも通りの声で告げた。


「アキハお嬢様、実は折り入ってお話が」


 私は無言で先を促した。


日村(ひむら) 斗真(トーマ)さんという方を、ご存知ですね」


 私の心臓が、不可解に跳ねた。


「……ええ」


「健診の再診で、脳動静脈奇形が見つかりました」


 私は静かに呼吸してから、その言葉を咀嚼した。


 脳動静脈奇形。

 放置すれば脳内出血のリスクがあり、命にかかわる。


 ただし、治療法はある。

 手首からカテーテルを通す血管内治療で、頭を切り開かずとも対処できる。手術としては、さほど難易度が高くない部類だ。


 驚くに値しない。


「なぜ、それを私に伝えたのですか?」


 私は出来るだけ穏やかな声で、問いを続ける。


「プライバシーに関わる情報ですね。患者本人でも患者の家族でもない私に、なぜ、それを伝えたのですか?」


 医師は少し、間を置いた。


「……お嬢様の恋人ではないのですか?」


 私はおし黙った。


 沈黙の帳が下りた。


 医師は見る見るうちに血相を変え、勢いよく頭を下げた。


「も、申し訳ありません、でしゃばったことを! 私の邪推で、早とちりを、何とお詫びしたら良いものか……!」


 脂汗を滝のように流す医師を見て、私は思った。


 私は、どんな顔をしてしまったのだろう。


 鏡がないから確認できない。ただ、医師がここまで慌てるということは、余程の表情をしていたのだろう。


「気にしないで」


 私は微笑を作る。横目で窓ガラスを一瞥し、反射する自分の表情を確認する。


 大丈夫、ちゃんと笑えている。


 私は医師に視線を戻した。


「教えてくださってありがとう。助かりました」



 血液カテーテルは簡単な手術である。

 トーマさんは、まず間違いなく助かる。


 だと言うのに私は何日も眠れぬ夜を過ごした。


 そんなある夜、車で社交会へ向かっていたとき。


 医師から電話が来た。


『お嬢様、先日は大変なご無礼を……いえ、あの、実は続報がありまして』


 続報。

 私は無言で続きを待つ。


『日村さんが、手術の同意書へのサインを、拒否されています』


 自分の小さく息を呑む音が、どこか他人事のように聞こえた。


「彼は、記憶に関わるリスクを、極端に恐れていらっしゃるようで。『大切な人との思い出を失うくらいなら、このままの方がいい』、と……説得が難航しております」


「……そうですか。わかりました」


 その後、二言三言(ふたことみこと)やりとりをして、私は電話を切った。


 窓の外で、街並みは平穏に流れていく。街灯が瞬く薄闇の中、春風にネモフィラが揺れる。野良猫が悠然と道路を横切る。スーツ姿の青年と、同年代の妊婦が、幼い子どもと手をつないで歩いている。


 ゴールデンウィークだ。

 なんの変哲もない祝日の風景。


 たった今、通り過ぎた映画館は、トーマさんと一緒に行ったことがある。


 彼が濡れ場を見てモジモジする様は、それはそれはいじらしかった。


 続編が出たら、また一緒に見よう、と約束した。


 彼が手術を受けないのなら、その約束は叶わないかもしれない。


「……バカな(ひと)


 口の中で小さく呟いた。

 記憶を失うリスクより、命を落とすリスクの方がずっと高い。その程度のこと、少し考えればわかるはずだ。なぜそんな判断ができないのか。トーマさんはやっぱり愚かだ。私との約束があるのに、私との未来が、私との、私との──


「お嬢様?」


 タカの声で我に返った。


「顔色が優れないようですが」


 言われて、窓ガラスに映る自分を見る。

 見開かれた目や、震えるまつ毛、引き結ばれた唇。思わず顔を覆おうとした手は、小刻みに震えている。


 私は恐れている。トーマさんを喪うことを。


 窓ガラスに反射する私の顔が、歪む。



 私は泣きそうになっている。

 惨めったらしく震えながら。

 この私が、こんな顔をするなんて。


 こんなの木南秋葉じゃない──!!


「タカ。予定は全部キャンセル。病院へ向かって」


「はい」


 タカは即答して、ハンドルを切る。車は来た道を引き返していく。


 私は深呼吸して、自分に言い聞かせるように話す。


「トーマさんに手術を強制します。各種書類の捏造を使用人に指示してください」


「はい」


 タカは再び即答し、アクセルを踏み込んだ。

 加速に伴う慣性で体が重くなる。窓に映る私の顔は、もういつも通りだった。


 窓の外はすでに夜だった。街中に人影は無い。月も星も見えない。インクで塗りつぶしたような夜空の下、黒いセンチュリーは私を乗せて走る。


 外には走行音が響いているのだろうが、車内は静かなものだった。


「私は」


 不意に口をついて出た一言は、車内によく響いた。


「私は、トーマさんが好き」


 初めて自覚した恋心の自白。

 それは不思議なほど腑に落ちた。


 タカは、何も言わなかった。

 


 そして今。

 七月四日、文化祭の最終日を終えた黄昏時。


「私、やっぱりトーマさんが好き」


 私は改めて、自分の想いを口にした。

 トーマさんの命懸けの覚悟を無下にして、強引に延命して、無理に籠絡して、フユミさんとコハルさんとナツキさんを巻き込んで。


 全員の人生をメチャクチャにした。

 どう償っても償いきれないほどの罪を犯した。


 それでも、やっぱり、トーマさんが好き。


「タカ。明朝の予定を全てキャンセルして。明日はトーマさんに会いに行くから」


「承知しました」


 タカは当然のように頷いた。




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