3-8
家に着いて部屋の椅子に座り一呼吸着くと、今日の試合で流れた汗が、思い出したように不快感を煽った。再び腰を上げるのはひどく億劫だったが、結局は身体の不快感の方が勝った。
立ち上がって浴室まで向かい、シャワーを浴びる。身体の疲労こそ取れないが、全身にまとわりつく汗を洗い落とすだけで気が晴れた。全身を洗い終えると、浴室を出る。髪を乾かすのもそこそこに、創は自分の部屋へと急いで戻った。
部屋の中に入ると再び椅子に腰をかける。布団の中で横になりたい気持ちもあったが、この濡れた髪では、目が覚めた時どんな髪型になってしまうかも分からない。椅子の背もたれに精一杯もたれて、できる限りの楽な体勢をとった。目を閉じて、そんな姿勢のまま時間を過ごす。けれど、そんな半端な体勢では疲れが取れるわけもなく、飽きはすぐに来た。
落ち着かないし、優花に会いにこう。そう思って立ち上がる。こんな風に半端な時間の潰し方を、優花に会いに行く事以外に、創は知らなかった。
部屋の扉を開けてすぐ、出会いたくない顔があった。母親がすぐ目の前を歩いていた。「あ」と、小さな声を漏らして、創は目をそむけた。今は出会いたくなかった。
そんな創の様子も意に介さず、母は目を細めるようにして微笑んだ。
「今日の試合、とてもカッコよかったですよ」
何か言葉を返すべきなのだろうかと、わずかに口を開く。それでも結局、何も言葉が出てこなくて、目をそらしたまま母親の横をすり抜けて家を出た。その瞬間の母親の顔は見ていない。きっと、寂しげな表情でも浮かべていたのだろう。それでも、それを確かめるだけの勇気は持っていなかった。
半ば逃げるようにして家を出た創を待っていたのは、優花の顔だった。突然現れた顔に、お互いに驚く。さっきからやけに偶然が続くものだ。
「なんだ、優花もうちにきてくれてたのか」
「私も?ひょっとして、創も私に会いに来ようとしてくれてたの?」
「まあな。どうせ家にいたって落ち着かなかったし」
「そうだったんだ。私もおんなじ感じかな。それにしても、家を出る時間まで同じだなんて、すごい偶然だね」
「ああ、そうだな。けどたぶん、偶然というよりは、ただ俺たちの考えてることが同じだったってだけかもな」
「うん、そうだね。確かにそうだ」
優花が笑う。
いつまでもこんな家の前で立ってもいられない。創は話題を切り替える。
「それより、これからどうする?家にいてもしょうがないし、どこか落ち着ける場所にでも行こうか」
「うん、いいよ。私も今は風の当たる場所にいたいし」
優花の言葉を受けて、創は歩き出す。家の外で落ち着ける場所なんて、思いつく場所は一箇所だけだ。
しばらく歩いた後、たどり着いたのはいつも浜辺。その岩場に腰を下ろす。結局、落ち着きたい気分になった時は、いつもこの場所に来てしまう。優花もまた、ここを気に入ってくれていると信じていた。
「さすがに、この時間になると暗いね。隣にいる創の顔も、ちょっと見えづらいかも」
「ああ、そうだな。日が延びたとは言え、この時間じゃあな。この辺りは街灯だってほとんどないし」
この辺りにある灯りといえば、弱々しい光を放つ街灯が二本と、遠くで輝く灯台くらいだ。すぐ隣にいるはずのお互いの表情さえ見えづらい。だが、今はそれが心地よかった。
すぐ目の前で揺らいでいるはずの海の波を見つめて、優花は呟くように言う。
「なんだか不思議な気分だよね。私たちが一四歳になってこの班に入ってから、ほとんどの時間をこのメンバーと過ごしてきて、それが当たり前の時間になってた。でも、それが変わって行くんだよね」
「ああ、そうだな」
「そりゃあ、今までだって環境の変化は何度かあったけど、それほど大した変化じゃなかった。ずっと一緒にいた誰かと会えなくなることなんて、今までになかったと思う。だから、こんな感覚は初めて」
「そっか。あと数時間のことだっていうのに、俺はまだ実感が湧いてないかな。二四時になっても迎えなんて来なくて、明日からも今の五人のまま変わらずに過ごしていけるような、そんな気がしてならないよ」
「うん、本当にね。なんだかすごく、不思議な感覚」
修也がいなくなる。大人になって、この班からいなくなる。五人の班のうちの一人というのが割合として大きいかは分からないが、間違いなく修也の離脱はあまりにも大きな意味を持っている。
変化なんて生ぬるいものではない。終わりそのものが近づいている。
その時、創はふと懐かしい記憶を思い出した。
◆
それは、昔飼っていた、一羽の野うさぎに関する記憶。
今から三、四年ほど前だろうか。優花や近所の子供たちと山の中で遊んでいた時のこと、茂みの奥で飛び跳ねるように駆ける一羽の野うさぎが目に入った。いつもと変わらない遊びにも飽きていた創に、それはとても興味深く映った。
動物なんてそれほど興味はなかったが、逃げ足の速いそれは、捕まえることにも喜びがあった。山の中の茂みを駆け回り、逃げるうさぎを追いかける。数分間の格闘の末、あらゆる力を駆使して、どうにかそれを捕まえることに成功した。功労して捕まえたその野うさぎはなかなか愛嬌のある顔をしていて、これから育てて行こうと決めたのだった。
腕に抱いて家に連れ帰ったその野うさぎに、さっそく名前をつけた。野良のうさぎだから「のらうさ」。今にして思えばあまりにも安直な名前だが、それでもそれは優花と考えてつけた、大事な名前だった。
その日を境に、創の生活は大きく変わっていった。日々の空いている時間は“のらうさ”のために割かれ、創の生活はそれの世話をすることを中心に回り始めた。山まで餌を取りに行くこともあれば、腕に抱いて触れ合うこともした。
それでも、ほとんどの時間をケージの中で過ごさせてしまい、“のらうさ”にとって創と過ごした時間が幸せであったかは分からない。けれど間違いなく、創にとってはとても充実した時間だった。
学校が終わって家に帰ると“のらうさ”がいて、退屈になった時にはいつでも触れ合うことができた。”のらうさ”と出会うまで、自分はいったいどうやって退屈を潰していたのかさえ思い出せないと、その時は確かにそう思っていた。
そんな特別な時間をありふれたものの様に覚えてしまったのは、”のらうさ”と出会ってから一ヶ月と経たない時のことだった。すぐにその幸せは凡庸なものとなり、それをありがたく思うことをしなくなった。今のこの生活は全て当たり前のことで、明日からも変わることなくずっと続いていく。きっと心の奥底ではそんな風に思っていたのだと思う。“のらうさ”がいなかったころのことなんて、もう思い出すこともしなかった。
山の中で“のらうさ”を拾って来てから、一カ月が経ったある日のことだった。学校から帰宅して、いつも通りケージの中を覗き込んだ。その中にいる“のらうさ“の元気な姿を見たかった。ただそれだけの、何わ気ない行動だった。
だが、覗き込んだ先にあったのは、力なく横たわる”のらうさ“の姿だった。
それを見て、創は名前を叫んだ。かろうじて息はあるようだが、明らかにその目には力がない。そのまましばらく見つめていると、どうにか自力で歩けるだけの元気があることが分かった。
今はちょっと風邪をひいてしまっているだけだ。少し経てば、またすぐに元気になる。どうしようもないことを察して、無理やりそんな風に思い込んだ。
明日、目が覚めたときにはもと通りになっていますように。そう願って、創はその日眠りについた。
だが、そんな願いが叶えられることはない。次の日になっても容体が良くなることはなく、相変わらずその目には力がなかった。そんな弱った姿を目の前にしても、してあげられることなど何もない。弱る姿を見ているだけの時間に耐えられなくなると、気持ちを切り替えるために学校へと顔を出す。そんなことを二、三日繰り返した。
結局最期の時が来るまで、徐々に弱って行く“のらうさ”に対して、してやれたことなんて何一つなかった。衰弱して行く様を眺めて心を痛める、ただそれだけの日々が続いた。
その時にはもう死という概念は知っていたし、それが死に向かっている様子なのだということも理解していた。
死という終わりが近づく足音に怯えながら過ごす。あれはまるで地獄のような日々だった。
そしてついに、その日が来た。その日も学校から帰って来て、いつものようにケージの中を覗いた。そこにいた“のらうさ”の表情は、今までの力ないものとは打って変わって、とても穏やかなものだった。その時が来たのだと、幼いながらにあの時の創は直感した。
いよいよ最期の瞬間にも、出来たことと言えばただ見つめ続けることだけだった。せめて最期の時くらいは見届けよう。そう思って、その日は寝ることをせずに、ずっとその姿を見つめ続けた。
けれど、夜通し眠らずにいることは、当時まだ幼かった創にとって簡単なことではなかった。日付を超えた頃から夢の狭間を行き来し出し、ついには完全に意識が途絶え、眠りの世界に落ちていた。
再び目を覚ましたのは、意識が閉じてから一時間ほど後のことだった。眠ってしまっていたことに気づいて取り乱す。慌ててケージの中に視線を向けると、そこにあったのは眠ってしまっている“のらうさ”姿だった。
そしてすぐに気づく。穏やかに目を閉じているそれの心臓部、そこが明らかに上下していない。だから気づく、気づいてしまった。
ああ、もう動かないんだ。
それに気づいてしまった瞬間、不意に涙が溢れ出た。嗚咽を漏らして、みっともないくらいに涙を流す。
どうして自分がこれほどまでに取り乱しているのか、その時はまるで分からなかった。けれど、それでも涙はとめどなく溢れ出る。まるで瞳だけ自分自身の制御から離れ、どこか別の遠い場所から操作されているみたいだった。
胸が痛い。何かに押しつぶされるような、圧迫する痛み。この痛みを−−感情を、どんな名前で呼べばいいいのか、この時の創には分からなかった。
しばらくの間涙を流し続け、ひとしきり泣きじゃくった後、感情を吐き出す事に疲れた創は、やがて眠りに落ちた。
今度はしっかりとした、深い眠りだった。
創はその日、生まれて初めて終わりというものを知った。
◆
そして今、あの時創のことを傷つけた終わりというヤツが、再び目の前まで迫り来ている。今度はきっと、あの時よりももっと深いところまで、創の心を抉って傷つけるだろう。
あの日の“のらうさ”の顔を思い出して、創は言った。
「やっぱり、嫌だな。終わりなんて永遠に来なければいいのに」
「そうだね、本当に」
隣に座る優花の肩に、甘えるようにして頭を預ける。それに合わせて、優花も創の方へ頭を預けた。
こんな遅い時間の浜辺に来る者なんているはずもなく、この空間には間違いなく創と優花の二人だった。聞こえて来るのは波の音ばかりで、それ以外には何もない。少しは暗闇にも目が慣れて、揺れる水面がわずかに見える。
塩気を孕んだ海風が凪いで、二人の身体を包む。初夏に吹く夜の風は、やっぱりまだ肌冷たい。
「ちょっと冷えるね」
「だな。場所を変えようか。あんまり身体を冷やしたらいけないし」
立ち上がろうした創の腕を優花が掴んだ。
「ねえ、もう少しここにいたい。ダメ?」
「いや、もとは俺がここに連れてきたわけだし、ダメじゃないけどさ。風邪ひくぞ?」
「うん、わかってる。だからもう少しだけ」
「わかったよ。じゃあ、本当にあと少しだけな」
この場に留まることの許可をもらった優花は、満足そうに笑った。この笑顔があるからこそ、創はつい優花の願いを聞いてしまう。
「ありがとう、創。大好きだよ」
「ああ、俺も大好きだよ」
敵わないなと、創は思う。掴まれた右腕から、優花の心細さが痛いほどに伝わってくる。創の右半分の身体に触れる優花の身体の左半分。その半分の身体が、ひどく頼りないものに思えた。
そうやって過ごして五分くらい経った時のこと、優花の遠慮がちなくしゃみの音が聞こえて、それが移動の合図になった。こんな時間になって今さら別れる気にもなれず、二人揃って優花の家まで移動した。
家に着くと、そこから先はまた二人で何をすることもなく時間が来るのを待つ。夕食だけは優花の母親が作ったものを二人で食べた。
時計の針がゆっくりと進んで行くのを見守りながら、じれったさと終わりの時間が迫ることへの焦燥感と、二つの感情がうずまいた。
そして、そんな感情とは無縁の場所で時計の針は進んでいく。どれだけ動きを止めてくれと願っても、どれだけいっそ早く進んでくれと願っても、それの進む速度は限りなく一定だ。
速度が一定であるということはつまり、必ず終わりは訪れるということ。
やがて、その時は訪れた。
二三時二〇分。優花の家から修也の家まではおよそ五分ほどで着くことを考えれば、もうそろそろ家を出なければいけない時間だった。
家を出ると、外はもう完全なる闇の世界だった。近くにある民家の灯りは消えているところも多く、頼りになる灯りと言えば、月明かりと本数の少ない街灯くらいなものだった。
こんな時間に外を歩くのは初めてだろうか。なんだか特別な感じがして、胸がざわざわとする。
夜の町を二人並んで歩く。この瞬間を噛みしめるように、一歩一歩ゆっくりと歩いていく。やがて、修也の家まで着いたとこには、ちょうど約束の時間だった。
家の前ではすでにほかの三人が待っていた。




