3-9
「遅いぞ」
開口一番竜司が言った。今朝の焼き増しみたいで、思わず苦笑する。
「別に時間通りだろ?俺がいつも遅刻すると思うなよ」
「まあいいか。西野も一緒だしな」
今回の竜司はやけに聞き分けがいい。今はこんなしょうもないいがみ合いをしている場合ではないと、竜司だって分かっているのだろう。
ひと段落ついたのを察して、修也は一歩前に出た。
「みんな、こんな時間にわざわざありがとうね」
それはとても穏やかな声だった。そして、その声に負けないくらいに穏やかな表情を、その顔には浮かべている。その顔が、最期の時を迎えた“のらうさ”のものと重なって見えた。
心臓が一度、大きく跳ねた。
「何言ってなんだ、当たり前だろ?一年半も一緒にやってきたんだからよ」
焦りを悟られないように、平静を装って創は言った。その言葉を皮切りに、他の三人も思い思いの言葉を口々にした。
「そうだよ、修也君にはいっぱいお世話になったし」
そう言ったのは優花だ。その言葉に、涼子と竜司が続いた。
「修也がいなかったら、たぶんこの班はバラバラだったしね」
「確かにな。入った班が、修也のいるこの班で本当に良かったよ」
次々にそんなことを言われ、修也は困ったように笑う。それは、普段は見ることのない表情だった。
「ありがとう、みんな。本当にありがとう。あまり褒められ慣れてないから、どんな風に反応すればいいのか、よく分からないや」
「いいんだよ、今日くらい。素直に喜んどけ」
創が言う。
「そうだね、うん。そうしようかな」
困ったような、照れたような微笑みを修也は浮かべている。その眼には、涙が浮かび始めているのが見えた。修也はそれを慌てて右手でぬぐうが、きっと誰もがその涙に気づいただろう。それでも、それを指摘する人は一人もいない。
「それより、大人になるにはここで待ってればいいのか?特に準備とかはしてなさそうだけど」
このしんみりとした空気に耐えられなくなって、創はあからさまに話題を変えた。実際のところ、気になっていたことだ。今の修也は完全に手ぶらで、何の準備もしていないように見える。今から遠くへと旅立つものの姿として、それはあまりにも相応しくない。
「うん、そうみたいだね。何も持たずに、手ぶらで玄関の前で待っていればいいって、この前ハガキが来たんだ」
言いながら、修也はポケットから一枚のハガキを取り出した。これこそが、修也が大人になることを証明する証。修也を大人の世界へと旅立たせるチケット。
時計の針が頂点を指し示す二四時、つまりは日付の変わるその瞬間、このハガキを持つものの元へ、大人たちは現れる。そして、二四時を迎えた瞬間に子供ではなくなった彼らのことを、大人たちはどこか遠い世界へと連れ去っていく。
「そうなんだ。何も荷物がいらないって、逆に言えば何も持っていくなってことだよね?それってなんだか、すごく寂しいね」
修也の返答に反応を示したのは優花だった。続いて、竜司が憤慨したような声を出す。
「ちっ、大人のくせに偉そうだな。命令するような真似をしやがって」
「仕方ないよ。連れていかれるその時には、もう修也は大人になっているんだから」
竜司の熱を帯びた声とは対照的に、涼子のその声からは冷めた印象を受けた。その冷静さと冷たさを含んだ反応に、竜司は激怒した。
「なんだよそれ、桐谷は修也が大人になっちまってもいいのかよ!」
竜司が涼子に対して食ってかかる。何度も見た光景だ。けれど、今度のそれは今までのものより、ずっと激しい。
「いいもなにも決定事項でしょ?だったら、仕方ないでしょ」
それに応酬する涼子の声も、いつにも増してずっと冷たい。
「てめえ!」
その反応に、ついに竜司が耐えきれなくなった瞬間、二人の間に修也が割って入った。
「まあまあ。そうやって竜司君が怒ってくれることは嬉しいけど、涼子ちゃんの言う通り、実際にこれはどうしようもないことなんだ」
「修也……」
感情の行き場をなくした竜司は、どうしていいか分からずに握りこぶしを握り締めた。誰もが次の言葉を模索して、静寂が辺りを包み込む。今が昼間であったなら、何でもない生活音が静寂を紛らわしてくれたかもしれないが、こんな夜中ではそれさえもない。そこにあるのは、完全なる静寂。
これが終わりの光景か。
いつだって終わりは悲しみにあふれている。その光景を見ていられなくなって、思わず創は目を伏せた。
終わりの時が修也のことをさらうその時まで、こんな時間が続くのだろう。そんな風にさえ思っていた時、不意に声が聞こえた。それは、真っ暗な部屋の中で、唐突に開かれたカーテンの奥から差し込む光にも似ていた。明るさを取り繕ったような声で、優花が言った。
「ほら、明日まではまだ二〇分以上あるんだから、こんな風に沈んでたらもったいないよ!せっかく早めに集まったんだから」
誰もがこの空気を変えることを諦めていた中で、優花だけは違っていた。無理をしていることはありありと伝わってきたが、きっとそれが逆に四人の心を揺さぶった。少なくとも、創はその一人だ。
「そうだな。優花の言う通りだ。第一、このまま後二〇分過ごすのなんてバカバカしいし」
「ごめん」
「悪かった。空気を悪くしちまったな……」
涼子と竜司が揃って優花に向かって謝罪する。こんなにもしおらしく謝罪の言葉を口にする竜司は、あまりにも珍しい。
「ありがとう、優花ちゃん。気を遣わせちゃったね」
「ううん、大丈夫。これは半分、私のわがままみたいなものだし」
そう言う優花は、ほんの少し満足そうに笑った。普段通りの空気とはいかないが、もうすっかり張り詰めたような緊張感はなくなった。
「とは言え、ここでじっと時間が来るのを待つってのも、なかなかきついものがあるな。なんでも、待ってる時間が一番落ち着かない」
冗談としての含みをもたせながら、創は言った。ここに来る前は三〇分なんてあっという間に過ぎていくだろうと思っていたが、いざこうして三〇分近くの時間を与えられても、どう過ごしていいか分からなくなる。
同意の声を修也があげた。
「そうだね、あと二〇分と少し、どうしてようか」
そう言って修也は、自身の腕時計をのぞき込む。それにつられて創も自分の時計を見た。カチカチと、秒針は一定のペースを守りながら進んでいる。
「なんだか、本当に変な感覚。三〇分なんかじゃあ、きっと話し足りないって思ってたのに、いざこの時が来てみると、何を話せばいいのか分からなくなっちゃった」
優花は困ったような顔をしてそう言った。その隣で、涼子が小さく頷く。
「うん、私も。時間もないし、何か言っておきたいことを言わなくちゃっては思うんだけど、なかなか言うべき言葉が思いつかないの」
今度もまた、修也は穏やかにうなずいた。その表情はまるで、二人のことをあやしているような、そんな表情にも見えた。修也本人が、一番辛い思いをしているはずなのに。
「別に今生の分かれってわけじゃないんだから、そんなに意識しなくてもいいのに。大人になってからだってきっとまた会えるさ」
「う、うん。そうだよね」
大人になった後、いったいどのような生活を送ることになるのか、詳しいことは何一つ分からない。いつかまた会えるのかなんて分からないし、ましてや、またすぐに会える保証なんてどこにもない。
修也の言葉は、自分に聞かせる強がりか、それとも他の四人を安心させるための楽観か。おそらくきっと、後者だろう。
そんな修也の顔を見ていたら、思わず質問が口を出た。
「なあ修也。今どんな気分だ?あともう少しで大人にならなくちゃいけないって、いったいどんな気持ちになるんだ?」
「ちょっと創、その質問はーー」
それはきっと心無い質問だったのだと思う。とっさに優花が言葉をさえぎろうとした。けれど、すぐにそれを修也が制する。
「いいよ。創君の聞きたいことは分かるから。それに僕としても、今の気持ちをみんなにも知っていておいて欲しいと思うし」
「悪い。ありがとう」
創が感謝の言葉を告げ終えると、誰もが修也の次の言葉を待った。大人になると言うことがどういうことなのか、たぶん、本当はみんな気になっているのだろう。
そして、それを知るのが怖くて目をそらしている。
修也が口を開いた。
「気分だけど、きっと創君が想像しているよりも悪くはないよ。僕が変人なだけだろうけど、もともと大人への嫌悪感はそんなになかったし。だけど一つだけ、この班を離れなければいけないっていうことだけは、どうしても悲しいかな」
語られたその言葉は、どこまでも修也らしかった。
「やっぱり修也は修也だな。最後の最後までぶれない」
思ったままを創は口にした。その言葉に修也は苦笑する。
「それは褒めているのかい?」
「最大限に褒めてるつもりだよ。何せうちの班は変人ばかりだからな」
からかうような口調で、創は言った。本当にこの班はおかしな連中の集まりだと思う。
「確かにその通りだね。さしずめ僕は、その変人集団の親玉だ」
変人という言葉の響きを、修也はやけに気に入ったようで、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、うなずいている。
けれど、そんな修也に対して、涼子は迷惑そうな反応を示す。
「ちょっと、私まで仲間に入れないでくれる?」
「いいじゃないか、変人だって。僕はこの班がすごく楽しかったよ?」
そんな抗議の言葉にも動じずに、修也はあっけらかんと返す。その反応に、涼子は諦めたようにため息をついた。
「はあ、まあいいけどさ。一人だけ仲間はずれっていうのも微妙だし」
変人扱いをされた残りの二人はと言うと、優花は気にしたそぶりも見せずに笑い、竜司は複雑そうな表情をしている。
「結局、その変人っていうのには俺も入ってるんだよな?」
「うーん、竜司君も確かに変わってるんだけど、ほかの三人とは違うんだよなあ。竜司君の場合はちょっとずれているというか……」
「なんだそれ」
なんとなく、修也の言おうとしていることは分かる。確かに竜司は、変わり者だらけのこの班の中では異彩を放っている。だが、大多数の一般的な子供と同じかと言えば、それは違う。修也はそれを、ずれていると形容したのだろう。
そこからは、そんな話題がしばらくの間続いた。からかって、笑って、そしてたまに真面目になる。そんな微妙なバランスを保ちながら、この五人での最後の会話を続けていった。
けれど、そんなバランスも、修也の不意の一言によって崩れ去った。
「なんて、そんな話をしていたら、もうそろそろ時間だね」
その言葉に、創は慌てて時計を覗き込む。短い針と長い針、そのどちらもがほとんど頂点を指している。この時計を信用するならば、二四時まではあと一分と少しだろうか。
いよいよ、確実に歩を進める秒針が憎らしい。今すぐこの針をむしり取ってしまいたい衝動が胸の奥に湧き上がる。それを出来るだけの力が、子供である創にはある。
けれど、この時計の針を壊したところで実際に時が止まるわけではない。時を止める力なんて、神の使いである子供でさえ持っていない。そんなことは、分かっている。
それでも無意識のうちに頭の奥底でイメージをしてしまったのか、秒針はわずかに震えながらその場で停止した。
無意識のうちにそんなことをしてしまった自分が恥ずかしくなって、目を閉じる。そうすれば現実とイメージの繋がりはなくなって、再び時計は動き出す。秒針が最後の一周、二四時へのカウントダウンを始めた。
誰もが息を飲んでそれぞれの時計を睨みつけている。誰も何も言わずに、最後の一周をただ見守る。聞こえるはずのない秒針の音が、カチカチと聞こえてきてしまいそうな感覚が襲う。
五〇秒、四〇秒、三〇秒……
息が止まりそうだ。
二〇秒、一〇秒、そして最後のカウントダウンが始まる。
九,八,七,…三,二,一……
最後の瞬間、思わず目を閉じた。
「お誕生日おめでとう」
そんな声が、二四時の町に響いた。
それは聞きなれない男の声だった。その場にいた誰もが、声の方を振り向いた。立っていたのは二人の大人の男だった。
「岸修也さん、あなたを迎えに来ました」
それは、ずっと恐れていた、最も聞きたくない言葉だった。ついにこの時がやってきてしまったのかと、諦めのような感情が溢れていた。
二四時ちょうどに迎えに来るなんて、あまりにも機械的だ。きっとそこに、感情の入り込む余地はない。
「どうぞ、こちらへ」
無機質な声で男は修也を招く。そんな大人の声とは反対に、竜司が感情に任せて声を荒げた。
「待てよ修也!そんな大人になんかついて行く必要ない!」
だが、そんな竜司の必死の叫びも、修也の気持ちを変えるには届かない。修也は困ったように眉を下げる。
「やめよう、これは仕方のないことなんだ」
諦めたようなその顔に、これ以上の説得は無駄と悟ったのだろう。竜司は言葉の矛先を、目の前の二人の大人へと切り替える。
「んでだよてめえら、大人のくせにふざけたマネしやがって。不敬罪の存在も知れないのか!?こんなことが許されるとでも、本気で思ってんのか!」
「申し訳ありません。ですが、この七月一○日の午前零時を迎えた瞬間から、この方はもう大人なのです。もはや子供に対するありとあらゆる決まり事は通用しません。つまり、いかなる手段を用いてでもこの方を連れていくことが可能なのです」
その言葉は脅しでも何でもなく本気なのだと、言葉の節々から伝わって来る。普段大人が子供と話しをする時の、遠慮やへりくだりの様なものが一切ない。
目の前の二人の大人が放つ威圧感に、創は少したじろいだ。それでも、竜司はただ一人争うことをやめなかった。
「それなら、俺が許さない。たとえ修也が大人だろうと、俺はまだ子供だ。なんなら、おまえらを今ここでーー」
その時、今にも二人の大人に襲いかかろうとする竜司を、修也は手で制した。
「やめるんだ。これ以上は僕としても容認できない」
「修也……!」
厳しい口調の修也に、竜司はたじろぐ。まさか自分が責められると思っていなかったのだろう。悩むそぶりを見せたあと、やがて悔しそうに顔を歪めながら引き下がった。
「すみません。僕なら大丈夫です。ちゃんと大人になる覚悟ならできています」
修也の口調は誰に対しも変わらない。大人に対してもこれだけ丁寧な口調で話すのは、何も自分が大人になったからではない。
そんな修也に対して、目の前の男はニヤリと笑って見せた。
「さすがですね。本当に噂通りだ」
「噂?」
「ああ、気にしないでください。さあ岸修也さん、行きましょうか。これが、大人への第一歩です」
その言葉を受けて、修也は足を踏み出した。一歩足を進めるたびに、その背中が離れていく。竜司は微かに身体を震わせて、溢れ出る感情を必死に押しとどめているように見えた。それは何も竜司だけじゃない。優花や涼子も、創だって今すぐその背中を追いかけたい衝動を抑えている。
やがて、修也は足を止めてこちらをふりむいた。
「本当に、今までありがとう。またいつか会おう」
言い残して、再び前を向いて歩き出す。その背中に叫んだ。
「絶対に、また会うからな!」
約束なのか願望なのか、自分でも不思議な言葉を叫んでしまったと思う。けれど、腹の奥底に溜まっていた膿は吐き出せた。
すぐ隣からは、三つの叫び声が聞こえた。またな、とか。元気でね、とか。会いに来てねとか。どれが誰の言葉かは知らないが、思い思いの言葉が夜の通りに響いた。
そんな言葉に応えるかのように、修也はこちらを振り向いて、小さく手を振った。
修也の目元が一瞬だけ光ったような気がしたが、こんな暗闇の中では表情すら分からない。もしも今修也の顔がはっきりと見えてしまったら、きっと涙を堪え切れない。憎らしいくらいに弱々しい光しか放てない街灯も、今ばかりはありがたく思えた。
遠くなる。少しずつ、けれど確実にその姿は遠くなっていく。その背中を、創たちはただ黙って見送ることしかできない。
月明かりとわずかな街灯の明かりだけが周囲を照らす夜の街で、確実にその姿はぼやけていく。修也が一歩足を踏み出すたびに、闇が身体を包み込む。二四時の暗闇がこんなに残酷だなんて、知らなかった。
そしてついに、その姿は完全に闇に包まれて指の一本さえ見えなくなった。
ついさっきまで修也がいたはずの暗闇を見つめて、ただ立ち尽くす。
「帰ろうか」
終わったのだ。修也を中心に回っていた五人で過ごす日常は、たった今終わったのだ。
他の三人の動きも気にせずに、創は自宅へと歩き出す。二四時の空の下では、自らの足元すら、まともに見えはしなかった。




