3-1
−−アラームの音が鳴った。
その音が示す意味を理解して、創は慌てて上体を起こす。大会の日の朝が来た。
普段は決して、決めた時間に起きることをしない創だが、今日ばかりは起きると決めていた午前八時に目を覚ました。運命の日の朝と言うことで、もう少し興奮しているものかと思っていたが、不思議と心は落ち着いている。
起き上がり、身支度をする。いつもよりも時間が早いと言うこと以外、そう何も変わらない朝だった。
支度を終えて居間行くと、家族が待っていた。両親と、そして二組の祖父母。いったい何がうれしいのか、彼らはずいぶんと機嫌の良さそうな笑みを浮かべている。祖父母は普段大人エリアで暮らしているはずだが、こんな朝早い時間にわざわざこの家まで来たのだろうか。
「おはようございます」
創の顔を見るなり、彼らは口々に挨拶をする。それがうっとうしくて、「ああ」と返事にもならない言葉で適当にあしらった。
食卓の椅子に座り、テーブルの上に用意された朝食を食べ始める。この朝食も普段よりも量が多く、手が混んでいるように見えるのは、きっと気のせいじゃない。
「今日はいよいよ大会の日なのですね」
食事を続ける創に、母は語りかけた。
「ああ」
「あの。もしも迷惑でなければ、私たちも観戦に行ってもよいでしょうか」
おずおずと、母は尋ねた。この問いかけを受けるのは、去年に続き二度目のことだ。その問いに対し去年は、邪魔だから来るなと拒絶をした記憶がある。どうにも今年は、そんな風に拒絶をする気分ではない。別に観に来られたところで、何か困ることがあるわけでもない。何か理由をつけて断るのも面倒で、「好きにすれば?」と言い放った。
それはあまりにも素っ気ない、冷たい一言のはずだった。だが、母をはじめ家族一同は、その言葉に大仰なほどに喜んでみせた。
「ありがとうございます」
「用が済んだならどっか行けよ。そこにいられたら落ち着かない」
「すみません、どうぞゆっくり召し上がってください」
母は謝ると他の家族を連れて奥の部屋と下がっていった。家族全員がいなくなると、急に部屋が静かになる。誰もいなくなった部屋で一人食事を続けていると、咀嚼音が耳に響いて、やけに静けさが誇張された。
口の中の米を飲み込んで、次の一口へと箸を伸ばしたその瞬間、ふいに胸が締め付けられる感覚に陥る。緊張をしていた。
望む望まないに関わらず、母をはじめとする家族の言動は、今日が特別な日であると言う実感を与えた。普段よりも少しだけ食事の喉の通りが悪ことに気づきつつも、気づかないふりをしてかきこんだ。
やがてテーブルに置かれた全ての皿を空にすると、胃のあたりをさすりながら居間を出た。最後に洗面所で鏡を見て、身なりを確認する。問題がないことを確認できると、荷物を背負って玄関の扉を手にかけた。その背中にいくつもの視線を受け止める。
「いってらっしゃいませ」、そんな言葉を聞きながら、創は玄関のドアを開けた。
ドアを開けて家を出るとすぐに、驚いたような優花の顔が出迎えた。ちょうど家まで迎えに来たところを鉢合わせたのだろう。お互いに状況を飲み込むと、驚きの表情は崩れ、自然と顔がほころんでいく。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
「そろそろ起こさなきゃいけない時間かと思って呼びに来たんだけど、そんな必要はなかったみたいだね」
そう言うと優花は、創だけが知っている笑顔で笑う。いつもと変わらない、自然な笑顔に見えた。
「そりゃあ、今日くらいはちゃんと起きるさ」
「うん、安心した。それじゃあ行こっか」
そう言うと、優花は軽やかな足取りで歩き出し、創はそれを慌てて追った。
歩くのは、普段学校に行く時も通る、あまりにも歩き慣れた道だ。けれど、何もかもがいつもとは違う。目的地も、太陽の角度も、心情さえもまるで違う。変わらないのは、隣を歩くのが優花であることだけ。
少し歩くうち、優花の様子がおかしいことに気づき、その横顔を覗き込む。そこにはさっき見せた笑顔はなく、固い表情が顔に張り付いていた。この顔は、言葉を発するタイミングを見計らっている顔だ。先回りして、創は言う。
「いよいよだな」
「うん、いよいよだね」
優花はおうむ返しをした。
「ちゃんと寝れたか?まさか、緊張で眠れなかったなんて言わないだろうな」
「まさか。状態はバッチリ。気合十分だよ」
優花は笑顔でそう言った。その言葉は、普段優花が好んで使う言葉よりも、明るさの色合いが強いようにも感じた。それはきっと緊張を隠すための取り繕った言葉。
創もそれに合わせるように、冗談めいた口調で返す。
「期待してるぞ。俺は優花ほど力を使うのが上手くないからさ」
そんな創の言葉に優花は、「やめてよ」と笑う。
「私なんて、生成だけは人よりも若干だけ得意かもしれないけど、戦い方は下手くそだから……」
“下手くそ“と、そう口にする瞬間だけ、その口調には重いものがあった。その言葉にハッとする。きっと優花は、前に周吾の班と喧嘩をした時、相手の班員の一人を傷つけてしまったことを、今でも後悔しているのだ。
あの場でどれだけ創たちが慰めたところで、誰かを傷つけたと言う事実を、優花自身は決して許すことをしない。優花は、そういうやつだ。それは彼女の欠点でもあり、そして、彼女の最大の魅力でもある。
期待している。なんて冗談を言った自分が恥ずかしくなる。そんな彼女の世界を守るのは、いつだって創の役割だった。
「優花は下手くそなんかじゃないよ。いつだって俺たちのために全力で戦って、俺たちのことを助けてくれる」
「でも、 やっぱり少し怖いよ。もしもまた相手の誰かを傷つけるようなことになったら……」
消え入るように弱まっていく言葉に比例するように、優花の足取りは遅くなり、やがて止まった。視線は足元へと向けられて、肩は力なく垂れ下がっている。
「優花」
彼女の名前を呼んだ。
「そんなに気を張るなよ。優花一人の負担になんて絶対にさせない。今日くらいは、俺が優花のことを助けられるように頑張るからさ」
こんな恥ずかしい言葉、たったこれっきりのサービスだ。それに、優花以外のだれかこの場にいたのなら、きっと口にできなかった。
この言葉があまりにも意外だったのだろう。優花は目を丸くする。そして、一瞬の間を置いて、とびきりの笑顔で口にした。
「ありがとう」
それだけで、こんな恥ずかしい言葉を口にした甲斐があった。
「さ、この話はもう終わりだ。こんな恥ずかしい言葉、あいつらのいる前じゃあ、口が裂けても言えやしない」
「うん、そうだね。今の創の言葉は、私の胸にだけ留めておくことにするね」
そう言って、優花はいたずらっぽく笑う。その笑顔のためならば、どんな無茶だってやってのけられる気がした。




