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冷たい廊下の上を、ペタペタと音を立てながら創は歩く。ほとんどの子供たちはどこか空き教室に籠るか、校庭に出ているため、廊下はいつも静まり返っている。聞こてくるのは、自らの足音だけ。
光の差し込まない廊下はどこか無機質な印象を漂わせる。ここまでは校庭の外で遊ぶ子供たちの声は届かない。風化したコンクリートの壁のヒビを見つめながら、わざとらしく足音を立てて歩いた。
その廊下に、突然大きな物音が響いた。それは複数の人間が走っている足音にも聞こえたが、それにしてはやけに騒々しい。音の方角へ目を向けと、続いて叫び声が響いた。
「ごめん、ごめん!」
それは悲鳴のような謝罪の声。見れば、廊下の先では一人の少年が四人の子供に追いかけられている。少年の身体の周りにはいくつものチョークが浮かぶ。宙に浮かぶチョークは執拗に少年のことを追いかけまわし、顔や体にぶつかっては、彼をいたぶっている。打ち付けるチョークの威力こそ強くはなさそうだが、少年の身体を打ち付ける一撃一撃には、見え透いたほどの悪意が込められている。
考えるまでもない。あの少年は、班の中でいじめの対象となっていた。可哀想にと、心の中でつぶやいた。
たった四、五人だけの班という狭い集団の中では、こういう事案はそう珍しいことではない。班の中でとりわけおとなしい者が、嫌がらせ行為の受け皿となってしまう。
四人の子供たちは、その一人の少年を攻めることをやめない。少年は力を使うこともせず、ただひたすら繰り返される痛みに耐えている。全身はチョークの粉で汚れ、頬には血が滲んでいる。それでも彼は、抵抗することをしない。
その時、たまたまこちらを向いた少年と目が合った。こんな状況だ、きっと少年は目で助けを求めてくるだろうと思った。面倒臭いことになったかもしれない。
だが意外にも、その少年はそれをすることをしなかった。何を訴えようとすることもなく、恥ずかしいところを見られたとでも言うように、すぐに目を逸らした。そして、少年はそのまま逃げるように、廊下の奥へと走り去って行った。他の四人もその後を追って走り出す。彼らの姿はすぐに見えなくなった。
いじめられていたあの少年の顔には見覚えがあった。記憶が正しければ、おそらく年齢は創の一つ下で、今の班に入ってからの日もまだ浅いはずだ。
班単位での行動が義務付けられた暮らしの中で、同じ班の班員全員からいじめられていると言うことが、どれほどつらいことなのか、同じ境遇を経験したことないものには、想像することさえ難しい。
だからと言って別に、同情するわけでもない。正義感に燃えるわけでもない。ただ、目があった直後に少年が見せた、あの表情が気がかりだった。
助けを求めることもせず、それどころか自分の惨めな姿を第三者に見せたくないと、あれは間違いなく、そういう表情だった。その時彼が何を思いながらそんな顔を見せたのか、そんなことばかりが気になった。
考えたところで、話をしたこともない誰かの気持ちなんて分かるわけもない。今の光景は忘れてしまおうと気持ちを切り替える。
さっきまで少年のいた廊下の先から視線を外し、優花のいる教室へと歩き出す。
少し歩くと、一つの古びた教室までたどり着く。ここでは今、生物学についての講義が行われているはずだ。毎週この時間には、この講義に顔を出していると優花から話を聞いたことがあった。
その教室のドアを開けて中を覗く。ざっと二〇組ほどの机と椅子が並べられたその教室にいたのは、たった二人の子供と黒板の前の壇上に立つ一人の大人。おとなしく椅子に座る二人の子供の、そのうちの一人が優花だった。創の存在に気づくと、講師の男は深々と頭を下げた。それを気にすることもなく、優花の隣の机へと向かう。
「珍しいね、創が講義に顔を出すなんて。何かあったの?」
「別に、何もないよ。空き教室でただ退屈するのにも飽きてきたからさ」
「そうなんだ。だったらせっかくだし、たまにはちゃんと聞いていってよ。この講義、すごく面白いから」
そう言うと、それきり優花は前を向いて、再び講義に集中しだした。身振り手振りを交えながら壇上で講義を続ける講師の姿をじっと見つめる横顔は真剣そのものだ。珍しく顔を見せたと言うのに、面白くない。けれど、こうも真剣な顔をされると話しかけるのも気が引けて、手持ち無沙汰になる。
優花と話せないのであれば、こんな狭い教室でほかにすることもない。大人の話を聞くと言うのも癪ではあったが、仕方なくこの講義を聞いてみることにした。
机に片肘をついて、単なる暇つぶしと斜に構えて話を聞く。大人の語る言葉に、なんら価値はない。
講義の内容は、簡単な生物学だった。身近な生物の身体の組織について、壇上の男は語り続ける。身振り手振りを交え、黒板には丁寧な図を書き込み、時には質問を交えて受講者の理解を確かめる。
その力強い語り口に始めは圧倒されたが、内容に引き込まれるまで、そう多くの時間は要さなかった。
講師である男の説明は理解しやすく、壇上すべての空間を使った話し方のおかげで退屈させられることもない。大人の話を面白いと思ってしまう自分に悔しさを覚えもしたが、講義が終わる頃には、そんな無意味なプライドはなくなっていた。
この講義は、確かに面白かった。
五〇分の抗議のうち、おそらく半分の時間もいなかったと思うが、それでも惹きつけられるには十分な時間だった。
創自身、何も講義というものに出るが初めてというわけでもない。今までも何度か暇が高じて他の講義に顔を出したことはあったが、特に何か感銘を受けた記憶もない。この講義だけが、この講師の男の話だけが特別面白いのだろう。優花が毎週欠かさずにこの講義に顔を出す理由が分かったような気がした。
講師の男が今日の講義の内容のまとめを伝え、そこで講義は終わりを告げた。優花の他にいたもう一人の子供は、終わりの合図と同時に荷物を片付け、教室を後にした。
教室には、両腕を真上に伸ばして伸びをする優花と、資料の片づけをする講師、そして創だけが残された。
「ね、どうだった?面白かったでしょ?」
熱心に講義を聞く創の様子に気づいていたのだろう。まるで自分のことのように、優花は得意げに訊く。
「ああ、面白かった。正直、退屈なだけだろうと思ってバカにしてたよ」
「よかった。この講義は私のオススメだったんだ。他の講師の人には悪いけど、この講師の人は、他の人よりも、話すのが飛び切りの上手いから」
「へえ。やっぱりそうなのか」
いくつもの講義に顔を出している優花が言うのだから、きっと本当にそうなのだろう。自分の感想は間違っていなかったのだと確信する。
その時、近くで足音がして、音のする方へと顔を向ける。見ると、さっきまで講義をしていた講師の男がすぐ隣まで歩いてきていた。
年齢はだいたい五〇ほどだろうか。大人の年齢なんて見た目だけでは分からないが、距離が近づいたことによって見えた顔のシワから、それほど若くないことは伺えた。
「今回が初めてでしたよね?お越しいただいてありがとうございます。少しは楽しんでいただけたでしょうか」
講義の時に聞いた声よりも、ずっと穏やかな声で講師は尋ねた。その表情も講義の時に見せた、どこか熱のあるものとは違い、とても穏やかな顔をしていた。
「ああ、初めてだったけど、すごく面白かったよ。内容も興味深かったし、全然退屈せずに聞けた」
「そうでしたか。それでしたら、私としても気合を入れて講義をした甲斐がありました。もし気が向かれましたら、またいらしてください」
そう言って講師は会釈をし、この場を去ろうとする。なんとなく興味がわいて、それを呼び止めた。
「なあ、この講義っていつも違うことを話してるの?」
「ええ、そうですね。一応、一年間は同じ話をしないように気を付けていますよ。そうでないと、皆様に飽きられてしまいますから」
あれだけの講義内容を毎週準備することが、相当の手間のかかることであろうことくらい、何かの講義をしたことのない創でさえ容易に想像がつく。
「ふうん。やっぱり大人ってのは分からねえや。よくもそんなに毎週毎週しゃべれるもんだ。どうせほとんど誰も聞いてないのに」
今日の観衆はたったの三人。もしも創が気まぐれで顔を出さなければ、たったの二人きりだった。きっと毎週、こんなにも少ない人数を相手に、あれだけの熱弁をふるっているのだろう。
「それでも今日のように二、三人は聞いてくださいますから。一人でも聞いてくださる子供がいるのなら、私は毎日でも講義をしますよ」
まるでそれが当たり前のことのように、男は語る。きっとそこには、義務感だとかそんな感情はなく、ただ当たり前のこととしてそれをやっていることが伝わって来た。
「よくもそんな熱意が湧いてくるもんだ」
呆れにも似た、感嘆の言葉が口を出た。
「そうですね、きっと私はそう言う生き方しかできないのでしょう」
「ふうん。俺には分からないな」
「分からなくてもいいのです。分かろうとして下さること、それが何よりも重要なのです」
「そんなもんなのかな……いや、確かにそうかもしれないな」
ふと隣に座る優花のことを見る。きっと優花は、誰よりも誰かのことを分かろうとしている。この講師が言おうとしていることは、たぶんそういうことなのだろう。
「では、すみませんが私はここで失礼いたします」
「ああ、引き留めて悪かったな」
「いえ、あなたのような人とお話ができてよかったです」
そう言うと講師はもう一度深々と会釈をして、この場を去っていった。去っていく、その後ろ姿すら穏やかで落ち着きがある。あの人はきっと大人である前に、一人の講師なのだと思った。
「なあ、あの人名前はなんて言うんだ?」
「名前?確か木下だったかな」
「木下、か。ありがとう」
ずっと、どこか心の奥では疑問に思っていた。いったい自分たちの何が大人よりも優れていて、いったいどうして大人たちは、自分たち子供に対してへりくだる態度をとるのか。そんな幼少の頃からの疑問が、確かな形を持って頭の中に浮かび上がる。
子供など、少し不思議な力が使えるだけの、大人の劣化品でしかない。木下のような大人を見て、それをありありと突きつけられた。
ふんぞり返って道のど真ん中を歩く子供たちが、なんだか急にバカみたいに見えて仕方がなかった。
「なんで大人は俺たち子供を崇めるんだろうな。間違いなく、大人の方が俺たち子供よりもずっと頭がいい。木下と話をして、痛感させられたよ……なんて、こんな話をしたら他の奴らは怒るだろうけど」
「そうだね。きっと、竜司君とかは特に怒るだろうね。でも、わかるよ。創の言いたいこと」
「ああ、優花ならわかってくれると思ってた」
「そりゃあね。もちろん分かるよ。私も、ずっと疑問に思って来たことだから」
言って、優花は椅子から立ち上がる。そして、じっと創の顔を見つめた。
「それで、創はどうしたいの?」
自分はこれからどうしたいのだろう。自分自身に投げかけたその問いの答えを出すのに、そう時間は必要なかった。
いつだって、これからの自分の行動を決めるための尺度は一つ。好奇心を満たせるかどうか、ただそれだけ。
答えは、単純だった。
「やっぱり俺は知りたい。大人のことも、この世界のことも」
その驚くほど単純な答えに、優花は優しく微笑んで応えた。
「付き合うよ。創の納得がいくまで」




