第二章:獣の痕跡と、少女のスープ
「よし、これで大丈夫。薬が効くまで無理しちゃダメだよ」
少女――名はナギというらしい――は、手ぬぐいをきつく結び終えると、満足そうにほほ笑んだ。
俺は言葉を失ったまま、自分の右手を見つめていた。
包帯代わりに巻きつけられた手ぬぐいは、甘い野草の匂いがする。少女の指先が触れていた場所だけ、まるで焚き火の爆ぜる火の粉が宿ったかのように、いつまでも仄かな熱が残っていた。
「……ふん。余計なお世話だ。こんな傷、放っておけば治る」
毒の熱が引いていくのを隠すように、俺はそっぽを向いて鼻を鳴らした。
熊の威嚇を真似た横柄な口調。だが、声の震えまでは隠しきれなかったかもしれない。
ナギは気に留める風もなく、背負い籠から小さな木製の小鍋と火打石を取り出した。
「強がり言わないの。ほら、寒いでしょ? 薪を拾いに来たついでに、温かいスープでも作ってあげる。座って待ってて」
手際よく枯れ枝を集め、火を起こすナギ。
火の粉が夜の闇に舞い上がり、彼女の小さな顔を赤く照らす。
俺は少し離れた岩に腰を下ろし、警戒を解かないままその手元を監視していた。
修行の旅で出会ってきた人間たちは、みな俺を異形として恐れるか、刃を向けてくるかのどちらかだった。熊の血を引くかのような怪力と荒々しい立ち振る舞い。誰も俺を「人間」として扱おうとはしなかった。
だが、この少女は違う。俺が獣の匂いを纏っていようと、返り血で汚れていようと、ただの「寒がっている人間」として接してくる。
「はい、召し上がれ。干し肉と山菜のスープ」
差し出された木椀から、湯気が立ち上る。
受け取った指先から、器を通してじんわりと熱が伝わってきた。
一口、口に含む。
――塩気と、野菜の甘みと、肉の旨味。
これまで喰らってきた生肉の血生臭さとはまるで違う、どこまでも優しく、胃の腑に染み渡る味だった。
「……美味いか?」
「……別に。腹が減ってただけだ」
嘘をついた。本当は、胸の奥が締め付けられるほど美味かった。
あまりの温かさに、目頭が熱くなるのを必死で耐える。俺は人前で泣いたことなど一度もない。母熊が死んだ時ですら、血を吐くような咆哮を上げただけだったのだから。
「ふふ、素直じゃないなぁ」
ナギは楽しそうに笑うと、膝を抱えて夜空を見上げた。
「ねえ、あなた……名前はなんていうの? どこから来たの?」
名前。
そんなもの、俺にはない。母熊は俺をただ咆哮で呼んだし、立ち塞がる敵は俺を「化け物」と呼んだ。
「……名などない。ただの武芸者だ」
「そっか。じゃあ、私が勝手に呼んでもいい?」
ナギは首をかしげ、いたずらっぽく微笑んだ。
「熊さんみたいに強くて、でもちょっと寒がりなあなた……『クマ』って呼ぶね」
「適当すぎるだろ……」
呆れ果てて吐き捨てたが、心の中ではその安易な名前が妙にしっくりきている自分に気がついていた。
その時だった。
風の音が止んだ。
吹雪の合間を縫って、森の奥から鋭い「金属の擦れる音」が響く。
――カチャ、カチャ。
それは野性の獣の足音ではない。鍛え上げられた鉄の鎧を纏う、血に飢えた人間たちの足音だった。
俺は瞬時に木椀を置き、刀の柄に手をかけた。
「……ナギ、俺の後ろに隠れろ」
「え……? クマさん、どうしたの……?」
「刺客だ」
闇の向こうから、何十もの赤い目が浮かび上がる。
俺の首に懸けられた賞金目当てか、あるいはこの領域を荒らす山賊か。
俺は立ち上がり、ナギをかばうように庇い立った。
先ほどまで感じていた胸の温もりが、静かな怒りへと変わっていく。
(俺の……この温もりを……邪魔する奴は……)
手ぬぐいの巻かれた右手で、深く刃を握り締めた。




