第一章:獣の檻、人の温もり
言葉を覚えるよりも前に、爪の研ぎ方を知った。
母も、父も、巨大なヒグマだった。毛皮は濡れた黒土の匂いがし、息を吐けば冬の森の樹氷が揺れた。俺は彼らの懐で暖を取り、彼らが引き裂いた鹿の肉を食らい、血の味で渇きを癒やした。
親熊たちが猟師の銃弾に倒れたあの日から、俺の真の武者修行が始まった。
孤独。その二文字すら、当時の俺には高尚すぎた。ただ生きること、強くなることだけが、幼い俺の胸を焦がす唯一の炎だった。
「俺に人の温もりなんて、分からねぇし……必要もねぇ」
吹雪が吹き荒れる断崖絶壁。返り血を雪で洗い流しながら、俺はひとりごちた。
手の甲には、先ほど倒した大蛇の毒牙が掠めた痕が残っている。皮膚が黒ずみ、猛烈な熱を帯びていた。
だが、痛みに耐える俺の耳に、雪をかき分ける小さな足音が届く。
「……誰だ」
腰の刀に手をかけ、殺気を跳ね上げる。
吹雪の向こうから現れたのは、巨大な薪の束を背負った、小さな村の少女だった。俺の殺気と、そこら中に飛び散った獣の血痕を見ても、少女は逃げ出そうとしない。ただ、吐く息を白く弾ませながら、じっと俺の手元を見つめていた。
「すごい傷……。痛いでしょう、それ」
少女は背中の薪をどさりと雪の上に降ろすと、躊躇いもなく俺に歩み寄ってきた。
懐から小さな手ぬぐいと、薬草の匂いがする小壺を取り出す。
「寄るな。噛みちぎるぞ」
俺は低く唸った。熊の親に育てられた俺の威嚇は、並の野犬どころか猛獣すら足すくませるはずだった。
けれど、少女はくすっと笑っただけだった。
「熊さんみたいな顔して脅かしてもダメだよ。ほら、手を出して」
強引に掴まれた俺の手首。
その瞬間、全身の毛穴が逆立つような衝撃が走った。
(なんだ……これは……?)
熱い。けれど、毒の熱さじゃない。
柔らかく、小さく、じんわりと皮膚の奥まで染み込んでくるような――これまで一度も味わったことのない感覚。
「冷たい手……ずっと一人で、寒かったんだね」
少女の手が、俺の傷口に薬を塗り、手ぬぐいを優しく巻きつけていく。
俺は刀を抜くことも、その手を振り払うこともできず、ただ茫然と己の手元を見つめていた。
母熊の剛毛に包まれていた時とも、獲物の生温かい血を浴びた時とも違う。
これが――人が「温もり」と呼ぶものなのか。
爪を研ぎ澄ませ、孤独を鎧にして生きてきた俺の胸の奥で、何かがパキリと音を立てて亀裂を生ませていた。




