第三章 彼女は、僕に殺される夢を見る
朝霧医師の声は、どこまでも穏やかだった。
だからこそ、逃げ道がないように聞こえた。
「君たちが何を見たのか、聞かせてください」
職員室の奥にある応接スペースには、妙な静けさがあった。外では生徒たちの足音や教師の声がしている。廊下を誰かが走る音も聞こえた。けれど、薄いパーテーションで区切られたこの一角だけが、別の部屋のように冷えていた。
机の上には、例の紙が置かれている。
《月代悠真と篠宮澪は、夢を共有している》
乱れた字だった。急いで書いたのか、わざと筆跡を隠そうとしたのかはわからない。ただ、紙の端がわずかに折れていた。誰かが強く握った跡に見えた。
僕はその紙から目を離せなかった。
夢を共有している。
その言葉は、事実に近かった。だが正確ではない。僕たちは共有したかったわけではない。夢の方が、こちらの手首を掴んできたのだ。
朝霧医師は三十代半ばくらいに見えた。白衣の下は濃いグレーのシャツで、ネクタイはしていない。髪は短く整えられているが、目の下には薄い影があった。疲労というより、眠りそのものを信用していない人間の影だった。
「黙っていることもできます」
朝霧は言った。
「ですが、その場合、市の規定では、君たちを要観察者として扱うことになります」
副担任が落ち着かない様子で椅子に座り直した。
「先生、それはまだ――」
「脅しているわけではありません」
朝霧は副担任を見ずに言った。
「手順を説明しているだけです」
手順。
その言葉が嫌だった。
人間が怖がったり、泣いたり、誰かを殺した夢を見たりしていることが、手順という言葉で紙の上に整理されていく。昨夜、旧校舎で僕たちが経験したことも、この人たちにとっては記入欄の一つでしかないのかもしれない。
澪は隣で黙っていた。
膝の上で両手を重ね、左手首を右手で隠している。袖の下には、僕の指の形をした痣がある。さらに、その少し上には、昨夜ビニール紐が食い込んだ跡も残っているはずだった。
朝霧は僕の手首を見た。
「その跡は」
「転びました」
僕は即座に答えた。
「転んで、両手首に同じような跡が残るんですか」
「片方だけです」
「篠宮さんの手首にも似た跡があります」
澪の肩がわずかに動いた。
朝霧は、淡々と続けた。
「旧校舎にいましたね」
僕は顔を上げた。
「何のことですか」
「警備員が、今朝、旧校舎の窓が開いているのを確認しています。床には新しい足跡が二人分。カーテンが一枚外れていた。さらに、廊下には女子生徒のものと思われる髪留めが落ちていました」
澪が息を呑んだ。
彼女は右手で髪に触れた。確かに、昨日はつけていた細い黒い髪留めがなかった。
「責めているわけではありません」
朝霧は言った。
「むしろ、関心があります。昨夜、町内で複数の重篤な睡眠事案が確認されました。しかし、死亡者は出ていません。一昨日までは連続して死者が出ていたにもかかわらず、です」
僕の背中を冷たいものが伝った。
この人は気づいている。
僕たちが、夢の中で何かを変えたことに。
「月代くん」
朝霧は僕に視線を向けた。
「昨夜、君は夢を見ましたか」
僕は答えなかった。
「その夢の中で、誰かを傷つけようとしましたか」
口の中が乾く。
スーツ姿の男。鉄パイプ。澪の声。手首を引かれた痛み。
「そして、篠宮さんはその夢の中にいましたか」
澪が小さく言った。
「先生は、何を知っているんですか」
朝霧は初めて、澪の方をまっすぐ見た。
「まだ、多くは知りません」
「まだ?」
「ええ。だから聞いています」
「私たちを閉じ込めるために?」
澪の声には、かすかな怒りがあった。
朝霧は否定しなかった。
「必要があれば、隔離することもあります」
副担任が顔をこわばらせた。
「隔離という言葉は……」
「別の言い方をしても、意味は変わりません。本人と周囲の安全を確保するため、一時的に行動を制限する。それを隔離と言います」
澪の指が、制服のスカートを握りしめた。
僕は言った。
「僕たちは何もしていません」
朝霧は頷いた。
「現実では、そうかもしれません」
「夢でも、したくてしたわけじゃない」
言ってから、自分で息を止めた。
朝霧の目が、ほんの少しだけ細くなった。
澪が僕を見た。
副担任も、明らかに動揺した顔で僕を見ていた。
朝霧だけが、驚かなかった。
「したくてしたわけではない」
彼は僕の言葉を繰り返した。
「つまり、何かをした記憶はあるんですね」
罠だったのかもしれない。
だが、もう遅かった。
僕は机の下で拳を握った。
「間宮を、屋上から突き落とす夢を見ました」
副担任が息を呑んだ。
澪は目を伏せた。
朝霧は表情を変えなかった。
「その夢は、間宮くんが亡くなる前ですか」
「同じ夜です」
「発見時刻との前後関係は」
「わかりません。でも、たぶん……」
喉が震えた。
「夢で落としたあとに、現実でも見つかったんだと思います」
副担任が口元を押さえた。
信じたくないという顔だった。
僕だって信じたくなかった。
朝霧はメモを取っていた。
そのペン先の動きが、妙に冷たかった。
「ほかには」
「貯水施設の女子生徒」
僕は言った。
「水の中に沈める夢を見ました。でも、本当は篠宮さんだった」
澪が自分の手首を押さえた。
「私はその夢で、殺されました」
澪は静かに言った。
「でも、朝起きたら生きていました。手首に痣だけが残っていて、ニュースでは別の女の子が死んだと出ていました」
副担任はもう何も言わなかった。
朝霧はメモを取り終えると、ペンを置いた。
「興味深いですね」
その言葉に、僕の中で何かがざらついた。
「人が死んでるんです」
「わかっています」
「興味深いって言い方はないでしょう」
朝霧は僕を見た。
その目には、怒りも冷笑もなかった。ただ、疲れた静けさがあった。
「月代くん。私はこの町で起きていることを、医師として確認しています。感情で言葉を選ぶと、判断を誤る。ですが、君の言う通りです。適切な表現ではありませんでした」
謝罪の形をしていたが、それ以上踏み込んではこなかった。
この人は、優しいのか冷たいのか判断しにくい。
もしかすると、そのどちらでもないのかもしれない。
朝霧は、机の上に三枚のカードを並べた。
市の健康調査票よりも厚みのある紙で、それぞれに簡単な図が描かれている。
一枚目には、黒い人影が赤い線を持っている。
二枚目には、倒れた人影。
三枚目には、二人の人影を遠くから見ている目。
「現在、赤色月光現象に伴う夢は、大きく三種類に分類できると考えています」
「分類?」
澪が聞き返した。
「便宜上のものです。まず、誰かを傷つける、あるいは殺害する夢を見る者」
朝霧は一枚目を指差した。
「殺す夢を見る者」
指が二枚目へ移る。
「誰かに殺される夢を見る者」
三枚目。
「そして、誰かの死を見届ける夢を見る者」
僕はその三枚のカードを見た。
殺す夢。
殺される夢。
見届ける夢。
そんなふうに分けられてしまうと、自分たちが人間ではなく、何かの実験記録のように思えた。
「月代くんは、一つ目に該当する可能性が高い。篠宮さんは、二つ目に該当する可能性がある」
「可能性?」
僕は聞いた。
「まだ確定ではありません」
「確定したらどうなるんですか」
「保護観察の対象になります」
「また保護ですか」
僕の声には棘が混じった。
朝霧はそれを受け流した。
「言葉の印象が悪いことは理解しています。ですが、夢の中の行動が現実の死に結びつく可能性がある以上、放置はできません」
「僕を閉じ込めれば、死者は出ないんですか」
「わかりません」
「篠宮さんを閉じ込めれば?」
「それも、わかりません」
「わからないのに閉じ込めるんですか」
「わからないからです」
朝霧は静かに言った。
「未知の感染症であれば、まず隔離する。未知の毒物であれば、まず接触を断つ。未知の睡眠現象であっても同じです。対応が遅れれば、被害は広がる」
「僕たちは病原体じゃない」
「ええ」
「なら」
「ですが、現象の媒介になっている可能性はあります」
その言葉は、刃物のように正確だった。
僕は反論できなかった。
自分でも、そう思っていたからだ。
僕が眠ると、人が死ぬ。
なら、僕は何なのか。
加害者でないなら、原因なのか。原因でないなら、道具なのか。赤い月に選ばれただけの被害者なのか。
どれも違う気がしたし、どれも当たっている気がした。
澪が口を開いた。
「昨夜、死者は出ませんでした」
朝霧が彼女を見る。
「月代くんが夢の中で誰かを殺そうとした。でも、私はそれを止めました。完全には止められなかったかもしれない。でも、その人は死ななかった」
「その根拠は」
「ニュースです」
「夢の相手と、ニュースの男性が同一人物だと確認できますか」
「できません」
「では、偶然かもしれない」
澪は唇を噛んだ。
僕は思わず言った。
「偶然じゃない」
朝霧は僕を見た。
「なぜそう思いますか」
「手首を引かれたんです」
僕は右手首を見せた。
赤い跡が残っている。
「夢の中で、篠宮さんが僕を止めた。その瞬間、現実の手首が痛んだ。だから少しだけ体を取り戻せた」
朝霧は身を乗り出すでもなく、淡々と僕の手首を見た。
「共鳴している」
「何ですか、それ」
「仮の呼び方です。複数人が同時に夢を見て、夢の中の行動や感覚が互いに干渉する状態。報告はまだ少ないですが、完全に否定はできません」
報告はまだ少ない。
その言い方が引っかかった。
「他にもいるんですか」
僕が聞くと、朝霧は少しだけ沈黙した。
答えるかどうかを考えている顔だった。
「似た事例はあります」
「この町に?」
「今は言えません」
「なぜ」
「確認中だからです」
「便利ですね、その言葉」
副担任が慌てて僕を制した。
「月代くん」
だが朝霧は気にしていないようだった。
「君の苛立ちは理解できます。ただ、私にも言えることと言えないことがあります」
「僕たちは言えって言われてるのに」
「だからこそ、君たちに一つ提案があります」
朝霧はカードを片づけた。
「今夜、君たちを臨時睡眠検査室で観察したい」
澪の顔が強張った。
「検査室?」
「市民センターに臨時で設置されています。医療スタッフの監視下で睡眠を取り、夢の内容や身体反応を記録する。君たちが本当に夢を共有できるのなら、それは危険であると同時に、現象を解く鍵になるかもしれません」
現象を解く鍵。
その言葉は、少しだけ甘く聞こえた。
でも、僕はすぐに首を振った。
「嫌です」
「理由を聞いても?」
「一度入ったら、出してもらえる気がしない」
澪も頷いた。
朝霧は否定しなかった。
「絶対に出られるとは、私の立場では約束できません」
「なら行きません」
僕が言うと、副担任が困ったように口を開いた。
「月代くん、これは君たちのためでも――」
「みんなのためですか」
僕は遮った。
副担任は言葉を失った。
「その言葉、今日何回も聞きました。みんなのためだから書け。みんなのためだから報告しろ。みんなのためだから隠すな。じゃあ、僕たちのためは誰が考えるんですか」
職員室のざわめきが遠く聞こえた。
朝霧はしばらく僕を見ていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「今日は帰って構いません」
副担任が驚いた顔をした。
「先生、しかし」
「無理に連れて行けば、彼らは逃げます」
朝霧ははっきりと言った。
「逃げれば、観察どころではなくなる」
僕は黙っていた。
この人は、こちらの恐怖を理解している。
理解した上で、利用しようとしている。
「ただし、条件があります」
朝霧は僕たちを見た。
「睡眠管理バンドは外さないこと。異常な夢を見たら報告すること。身体に変化が出た場合、すぐ保健室か市の窓口に連絡すること」
「報告しなかったら?」
「君たちの周囲の人が、代わりに報告するでしょう」
それは脅しではなかった。
予測だった。
実際、教室にはすでに密告箱がある。僕たちが黙っていても、誰かが書く。誰かが見ている。誰かが不安を紙にして箱へ入れる。
僕たちは職員室を出た。
廊下に出た瞬間、澪が小さく息を吐いた。
「怖かった」
「うん」
「でも、あの人、全部敵って感じでもない」
「だから怖いんだと思う」
澪は僕を見た。
「どういう意味?」
「敵なら逃げればいい。でも、半分正しい人間からは逃げにくい」
澪はしばらく考えて、頷いた。
教室へ戻ると、空気が変わっていた。
僕たちが入った瞬間、いくつもの視線が向けられた。話していた生徒たちが声を落とす。白鳥は席に座っていたが、こちらを見ている。黒瀬は立ち上がろうとして、やはり座ったままだった。
机に戻ると、黒瀬が近づいてきた。
「何言われた」
「大したことじゃない」
「そんな顔で戻ってきて、大したことじゃないは無理がある」
僕は答えなかった。
黒瀬は澪を見た。
「篠宮、昨日の夜、家にいなかったって本当か」
澪の表情が少し固くなった。
「誰に聞いたの」
「噂になってる。市の車が来る前にいなくなったって」
「だったら?」
「いや、だから……」
黒瀬は言葉を探した。
「危ないだろ。今、町がこんなことになってるのに、夜に出歩くなんて」
「家にいる方が危なかった」
澪は静かに言った。
黒瀬は困惑した顔をした。
「どういうことだよ」
「黒瀬くんには関係ない」
澪の声は冷たくはなかった。
ただ、扉を閉める声だった。
黒瀬は傷ついたような顔をした。それから僕を見た。
「悠真、お前は関係あるのか」
教室の空気が、さらに薄くなった。
僕は答えに詰まった。
関係がある。
ありすぎるほどある。
だが、それを認めれば、黒瀬はさらに踏み込んでくる。心配して。友人として。正しいことをしようとして。
そして、その正しさが、僕たちをどこかへ連れて行くかもしれない。
「ない」
僕は言った。
黒瀬の目が、少しだけ変わった。
「嘘つくなよ」
「嘘じゃない」
「お前、昨日からずっと嘘ついてるだろ」
黒瀬の声が大きくなった。
周囲の生徒たちがこちらを見る。
「間宮が死んだときも、貯水施設のニュースのときも、今も。何か知ってる顔してる。なのに何も言わない。俺には言えないのか」
「言えない」
答えた瞬間、黒瀬の表情が固まった。
言ってはいけない言葉だった。
でも、言ってしまった。
「黒瀬には関係ない」
僕の声は、自分でも嫌になるくらい冷たかった。
黒瀬はしばらく黙っていた。
それから、笑った。
笑いになっていない笑いだった。
「そうかよ」
黒瀬は自分の席へ戻った。
その背中を見て、僕は追いかけたくなった。
でも、動けなかった。
澪が小さく言った。
「ごめん」
「篠宮さんのせいじゃない」
「でも」
「違う」
僕は机の上の睡眠管理バンドを見た。
緑のランプが、規則的に点滅している。
この小さな光は、僕の心拍を測っているのだろうか。眠気を測っているのだろうか。それとも、僕がどこまで普通の人間から外れたかを、どこかへ送り続けているのだろうか。
その日の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
午後になると、体育館で睡眠講習が行われた。朝霧医師と市の職員が、赤色月光現象について説明した。彼らは「夢と現実の関連性は科学的に確認中」と繰り返した。だが、その一方で「夢を見た場合は必ず報告」「他者の異常にも注意」と言った。
確認中なのに、報告は義務。
まだ何もわかっていないのに、もう疑い合う仕組みだけは整えられている。
体育館の後方には、保護者も数人来ていた。
その中に、澪の母親らしき女性の姿があった。澪はそれを見た瞬間、顔を伏せた。母親は澪を見つけると、近づこうとしたが、市の職員に止められていた。
澪の肩が小さく震えている。
僕は何もできなかった。
手を伸ばすことも、声をかけることもできない。
この体育館では、誰もが誰かを見ている。
授業後、白鳥が教室の前に立った。
「みんな、聞いて」
白鳥の声はよく通った。
「情報提供箱のことだけど、いたずらや悪口を書くのはやめてください。これは誰かを責めるためじゃなくて、危ない人を守るためのものです」
誰かが小声で言った。
「危ない人って誰だよ」
白鳥はその声を聞いたが、無視した。
「夢を見た人が悪いわけじゃない。でも、隠されたら周りが危ない。だから、気づいたことがあれば書いてください。名前は書かなくていいです」
その言葉に、教室のあちこちで小さな頷きが起こった。
僕は気づいた。
白鳥は悪意で言っているわけではない。
彼女は本気で、これが正しいと思っている。自分が秩序を守っていると思っている。恐怖に形を与え、教室を崩壊から救おうとしている。
だからこそ、危険だった。
正しさに支えられた密告は、悪意よりずっと速く広がる。
放課後、僕は澪と一緒に帰ることにした。
黒瀬は誘わなかった。
誘えなかった。
教室を出るとき、黒瀬がこちらを見ているのがわかった。だが彼は何も言わなかった。僕も何も言わなかった。
廊下を歩きながら、澪が言った。
「黒瀬くん、大丈夫かな」
「大丈夫じゃないと思う」
「追いかけなくていいの」
「今、話しても余計こじれる」
「でも、あの人は月代くんの友達でしょ」
僕は答えに詰まった。
友達。
その言葉が、今は遠いものに感じた。
校門を出ると、市のワゴン車が一台停まっていた。睡眠観察支援班。職員が数人、保護者と話している。腕にバンドをつけた小学生が、母親にしがみついて泣いていた。
澪は足を止めた。
「私、家に帰りたくない」
「でも、ずっと逃げるわけにもいかない」
「わかってる」
澪は俯いた。
「でも、母はきっとまた電話する。私を守るために。そう思ってるから、たぶん止められない」
「今日は、うちに来る?」
言ってから、僕は自分で驚いた。
澪も驚いた顔をした。
「でも、お母さんが」
「昨日、もう出ていったのは知られてる。隠しきれない。だったら、下手に外で寝るよりましだ」
「月代くんの家族に迷惑がかかる」
「もうかかってる」
澪は困ったように僕を見た。
僕は視線を逸らした。
「それに、一人で寝るよりはいい」
その言葉で、澪は黙った。
僕たちは僕の家へ向かった。
母は玄関で僕たちを待っていた。
僕が連絡したわけではない。だが、母はわかっていたようだった。僕と澪を見ても、大きく驚かなかった。ただ、澪の制服の乱れと疲れた顔を見て、目を伏せた。
「篠宮さん?」
「はい」
澪は小さく頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして、すみません」
母はしばらく澪を見ていた。
それから、玄関を開けた。
「入りなさい」
僕は母を見た。
「いいの」
「外に立たせておくわけにいかないでしょう」
母の声は硬かった。
だが、拒絶ではなかった。
リビングに入ると、母は温かいお茶を出した。澪は両手で湯飲みを包むように持った。その指がわずかに震えている。
母は向かいに座り、僕たちを見た。
「何があったのか、話して」
僕は黙った。
澪も黙っていた。
母はため息をついた。
「市から電話があったわ。あなたが昨夜、家を出たこと。篠宮さんが家に戻っていないこと。学校でも何か聞かれたんでしょう」
「母さん」
「怒ってるんじゃない」
母は僕の言葉を遮った。
「怖いの」
その一言で、リビングの空気が変わった。
母は続けた。
「何が起きているのかわからない。テレビは曖昧なことしか言わない。学校からは調査票を出せと言われる。市からはバンドを外すなと言われる。あなたは何か隠している。怖くないわけないでしょう」
僕は何も言えなかった。
母の恐怖は正当だった。
だから、余計に苦しかった。
「全部は話せない」
僕は言った。
「でも、篠宮さんを市に連れて行かないでほしい」
「理由は」
「危ないから」
「市の方が安全かもしれない」
「そうかもしれない。でも、わからない」
母は僕をじっと見た。
「悠真。あなたは、その子を守ろうとしているの?」
答えはすぐに出なかった。
守る。
そんな綺麗な言葉で言えるのかはわからない。僕は澪を夢の中で殺した。現実で死ななかったとしても、その手首に痣を残した。彼女を守る資格などあるのか。
でも。
「一人にしたくない」
僕は言った。
母は長い沈黙のあと、立ち上がった。
「篠宮さんの家には、私から連絡します」
澪が顔を上げた。
「でも」
「ここにいることは伝える。ただし、今日は帰れない状態だと話します。市にも、私が責任を持って見ていると言う」
「いいんですか」
「よくはないわ」
母は正直に言った。
「でも、今この子を追い出したら、私はきっと一生後悔する」
澪の目に、涙が浮かんだ。
彼女はそれをこぼさないように、湯飲みを見つめた。
その夜、僕と澪はリビングで眠ることになった。
母は最初、別々の部屋で寝るように言った。だが僕たちが同時に首を振ると、何かを察したのか、それ以上は追及しなかった。ただし、リビングのソファと床に布団を敷き、母自身も隣の和室で眠らずに起きていると言った。
午後十時、赤い月が出た。
カーテンは閉めていた。だが、部屋の空気が赤くなる。テレビは消しているのに、画面の黒がかすかに明滅した。睡眠管理バンドのランプが、緑から黄色に変わった。
澪は僕を見た。
僕は頷いた。
今夜も、手首をつなぐ。
母には見せられない。だが、隠すことも難しかった。結局、僕は「寝ている間にどちらかが苦しくなったらわかるように」と説明した。母はそれが普通ではないとわかっていたはずだが、黙って細いタオルを持ってきた。
ビニール紐より、ずっと柔らかかった。
僕の右手首と、澪の左手首を、タオルでゆるく結ぶ。
母はそれを見て、何か言いかけた。
しかし言わなかった。
「何かあったら、すぐ起こして」
それだけ言って、和室へ下がった。
僕たちは並んで横になった。
床の布団は旧校舎のカーテンよりずっと柔らかい。家の中の匂いがする。味噌汁、洗剤、古い木材、母の使うハンドクリーム。普通の生活の匂い。
それなのに、僕は処刑台に横たわっているような気分だった。
「月代くん」
澪が小声で言った。
「何」
「もし、今日も私が夢に出てきたら」
「止める」
「うん」
「絶対に」
澪は少しだけ笑った。
「絶対って、言い切るんだ」
「言い切らないと怖い」
「正直だね」
「篠宮さんほどじゃない」
澪は天井を見たまま、しばらく黙った。
それから、言った。
「私、実は同じ夢を何度も見てる」
体が強張った。
「同じ夢?」
「赤い月の下で、月代くんに殺される夢」
息が止まった。
「昨日だけじゃないのか」
「うん」
澪の声は、壊れないようにそっと置かれたガラスのようだった。
「最初は、暗い水の夢だった。でもそのあと、何度も違う場所で殺される夢を見る。屋上だったり、教室だったり、知らない部屋だったり。でも最後は同じ」
「同じって」
澪はこちらを見なかった。
「月代くんが、私の首を絞める」
僕は声を出せなかった。
手首のタオルが、急に重くなった。
「何度も?」
「何度も」
「どうして今まで言わなかった」
「言ったら、月代くんが私から離れると思った」
当然だ。
離れるべきだ。
そう思った。
僕が近くにいることで、澪が死に近づくのなら、離れるのが正しい。僕が殺す夢を見る相手が澪なら、一緒に眠るなど狂っている。
でも、澪は続けた。
「でも、夢の中の月代くんは、私を憎んでなかった」
「何を言ってるんだ」
「泣いてた」
澪はようやく僕を見た。
「私を殺しながら、月代くんは泣いてた。やめたいって顔をしてた。だから、たぶんあれは、月代くんが私を殺したい夢じゃない」
「でも、殺すんだろ」
「うん」
「だったら」
「でも、助けようとしている顔だった」
澪の目は、赤い月の光を受けて暗く揺れていた。
「だから私は、夢の意味を知りたい」
僕は目を閉じた。
逃げたいと思った。
澪からも、赤い月からも、夢からも、母の心配からも、黒瀬の視線からも、白鳥の正しさからも、朝霧医師の静かな声からも。
だが、逃げられる場所はもうない。
「わかった」
僕は言った。
「もし夢の中で、僕が君を殺そうとしたら」
澪が息を止める。
「君は僕を止めてくれ」
「うん」
「僕も止まる。何があっても」
澪は頷いた。
「信じる」
その言葉が重かった。
信じられる資格などない。
だが、澪は僕を信じると言った。
だから僕は、眠るしかなかった。
赤い月の光が、カーテンの向こうから部屋に滲んでくる。
母のいる和室からは、紙をめくる音がした。眠らずに何かを読んでいるのだろう。遠くでサイレンが鳴った。町のどこかで、また誰かが眠りに落ちたのかもしれない。
澪の呼吸が、少しずつ深くなっていく。
僕の意識も沈み始めた。
最後に感じたのは、手首のタオルの柔らかさだった。
夢の中で、僕たちは学校の廊下にいた。
夜の廊下だった。
窓の外には赤い月がある。廊下の床は水に濡れていた。蛍光灯はついていない。だが、月の光だけで、教室の扉や掲示板の紙が赤く浮かび上がっている。
澪は僕の隣にいた。
手首にはタオルではなく、赤い糸が結ばれている。
「ここ、学校?」
澪が聞いた。
「たぶん」
僕たちは歩いた。
廊下の先に、人影があった。
間宮だった。
彼は屋上から落ちたはずなのに、制服姿で立っていた。体に傷はない。顔も普通だった。だが、足元にだけ赤い水たまりが広がっていた。
「間宮」
僕は名前を呼んだ。
間宮は笑った。
いつものように、冗談を言う前の顔だった。
「遅かったな、月代」
その声を聞いた瞬間、胸が詰まった。
「ごめん」
「謝るなよ」
間宮は軽く肩をすくめた。
「お前が殺したわけじゃない」
僕は息を止めた。
澪も隣で身じろぎした。
「どういう意味だ」
「そのまんまだよ」
間宮は廊下の窓へ目を向けた。
赤い月が、こちらを見ている。
「お前は、殺す役を見せられただけだ」
「役?」
「そう。俺は落ちる役。お前は落とす役。誰かが見届ける役。配られた台本みたいなもんだ」
「誰が配ってる」
間宮は笑った。
その笑みが、ほんの少し歪んだ。
「知りたいなら、もっと奥まで来いよ」
廊下の奥に、階段が見えた。
下へ続く階段だった。
学校にそんな階段はない。少なくとも、僕の知っている校舎には。階段の下からは、赤い光ではなく、黒い水の匂いがした。
澪が僕の手首を引いた。
「行っちゃだめ」
間宮は澪を見た。
「篠宮さんも来ればいい。君はどうせ、もっと奥にいる」
澪の顔色が変わった。
「私を知ってるの?」
「知ってるよ」
間宮は首を傾げた。
「みんな知ってる。君だけが忘れてる」
その瞬間、廊下の窓ガラスが一斉に割れた。
赤い風が吹き込んでくる。
僕は澪を庇おうとした。
だが、視界が白く弾けた。
目が覚めた。
リビングの天井が見えた。
すぐ隣で澪が激しく咳き込んでいる。母が和室から飛び出してきた。
「悠真! 篠宮さん!」
僕は起き上がろうとして、右手首が引っ張られた。タオルがほどけかけている。澪の左手首には、赤い糸のような跡が残っていた。
スマホが鳴っていた。
通知ではない。
クラスのグループ通話が、勝手に接続されている。
画面には、白鳥玲奈の名前が表示されていた。
僕は震える指で通話を開いた。
音声が流れた。
最初は雑音だった。
それから、白鳥の声が聞こえた。
《私、夢を見たの》
泣いているようだった。
《赤い月の下で、みんなが順番に名前を呼ばれてた》
背後で、誰かが「白鳥さん?」と呼んでいる。
《次は、誰?》
白鳥の声が途切れた。
その直後、通話の向こうで、何かが倒れる音がした。
僕はスマホを握りしめた。
澪が青ざめた顔でこちらを見ている。
母が救急車を呼ぼうとしている。
通話は切れなかった。
雑音の奥で、赤い月の下から聞こえるような声がした。
名前を呼ぶ声だった。
誰の名前かは、聞き取れなかった。
けれど僕は、その声がまだ終わっていないことだけを理解した。
夢は、僕たちを離す気がない。
そして赤い月は、次に誰を殺すか、もう決めている。




