第四章 夢の底で、死者たちは嘘をつく
白鳥玲奈は死ななかった。
その知らせが入ったのは、朝の六時を少し過ぎたころだった。
リビングのカーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいた。赤い月は消えている。いつもの朝だった。だが、いつもの朝に見えるものほど、今は信用できなかった。
母は台所で電話を握ったまま、ほとんど動かなかった。
「……はい。はい、わかりました。いえ、息子は家にいます。篠宮さんも、こちらにいます。はい。必要なら学校へは……はい」
電話の相手は学校だった。
白鳥は深夜に自宅で倒れ、救急搬送された。意識は戻っていない。ただし、命に別状はない。医師は極度の睡眠障害による一過性の昏睡状態と説明したらしい。
一過性。
その言葉が、どれほど軽く響くか、言った人間はわかっているのだろうか。
白鳥の声は、まだ耳に残っていた。
――私、夢を見たの。
――赤い月の下で、みんなが順番に名前を呼ばれてた。
そして、何かが倒れる音。
僕はスマートフォンを机に置いたまま、画面を見つめていた。通話履歴には、白鳥玲奈の名前が残っている。午前二時十三分。通話時間は三分二十七秒。数字として表示されると、あの声も、あの恐怖も、妙に小さく見えた。
澪はソファの端に座っていた。
一晩で、彼女はさらに痩せたように見えた。実際に体重が落ちたわけではないだろう。だが、顔の輪郭から、何かが削られていた。眠りは人を回復させるもののはずなのに、僕たちは眠るたびに、少しずつ命の表面を剥がされている。
澪の左手首には、赤い糸のような跡が残っていた。
夢の中では、それは本当に赤い糸だった。現実では母が結んでくれたタオルの跡にすぎない。だが、その境界はもう曖昧だった。夢が現実へ染み出しているのか、現実が夢の中へ吸い込まれているのか、判断できない。
母が電話を切った。
しばらく受話器を見つめていたが、やがて僕たちの方を向いた。
「今日は登校しなくていいって」
「学校は?」
「授業はあるけど、任意登校にするそうよ。市の職員とお医者さんが来て、希望者には睡眠検査を受けさせるって」
「希望者?」
僕は思わず聞き返した。
母は、苦い顔をした。
「表向きは、ね」
その言い方で、母もわかっているのだと思った。
今の町では、希望という言葉にほとんど意味がない。
眠るか、眠らないか。
報告するか、隠すか。
行くか、連れて行かれるか。
選択肢があるように見えても、実際には恐怖が人を押している。
澪が小さく言った。
「私、学校へ行きます」
母が彼女を見る。
「無理しなくていいのよ」
「白鳥さんが倒れた理由を知りたいんです」
「病院に行った方がいいんじゃない?」
「病院には、たぶん入れてもらえません」
澪の声は静かだった。
母は僕を見る。
僕は頷いた。
「僕も行く」
「悠真」
「白鳥が見た夢が、次の手がかりかもしれない」
「手がかりって、あなたたちは何をしようとしてるの」
母の声が少し強くなった。
僕は答えられなかった。
夢を止めようとしている。死を止めようとしている。赤い月の正体を知ろうとしている。
どれも本当だった。
だが、それを口にすると、自分が何か大きなことをできる人間だと思っているようで、ひどく滑稽に感じた。
僕はまだ、自分の見た夢さえ止めきれていない。
「母さん」
僕は言った。
「学校へ行かない方が危ない気がする」
「どうして」
「何かが進んでる。僕たちが知らないところで。白鳥が倒れたのも偶然じゃない。朝霧先生も、たぶん何か隠してる」
「そのお医者さんを疑っているの?」
「信用していないだけ」
「同じことじゃない」
「違う」
僕は母を見た。
「あの人は敵じゃないかもしれない。でも、味方とも限らない」
母はしばらく黙っていた。
そして、諦めたように息を吐いた。
「行くなら、私も一緒に行く」
「それはだめだ」
「どうして」
「母さんが来たら、僕たちは普通の生徒として扱われる。保護者に説明して、市の指示に従わせる流れになる。僕たちが聞きたいことは聞けない」
「子どもだけで何ができるの」
母の言葉は正しかった。
でも、正しさだけでは夢から逃げられない。
「子どもだから、夢の中に入れるのかもしれない」
澪が言った。
母は澪を見た。
澪は湯飲みを両手で包んだまま、続けた。
「大人は、すぐに管理しようとします。名前をつけて、表を作って、危ない人を分けようとする。でも、夢の中ではそれが通じない。たぶん、赤い月は、そういうものを笑ってる」
母は何も言えなかった。
僕も何も言えなかった。
澪の言葉は、どこか自分自身に向けられているようだった。管理され、通報され、守られるという名目で家から連れ出されそうになった彼女だからこそ言える言葉だった。
母は長い沈黙のあと、言った。
「夕方までに一度連絡すること」
「うん」
「電話に出なかったら、学校に行く」
「わかった」
「篠宮さん」
母が澪を呼んだ。
「つらくなったら、うちに戻ってきなさい。あなたの家と市には、私から話すから」
澪は目を見開いた。
それから、ゆっくり頭を下げた。
「ありがとうございます」
母は少しだけ困ったように笑った。
「感謝されるほど、私は立派じゃないわ。ただ、怖いだけ」
「怖いのに、置いてくれたんですか」
「怖いからよ」
母は答えた。
「怖いときに、怖い子を外へ出したら、もっと怖くなるもの」
その言葉を聞いたとき、僕は初めて母が少しだけ強い人に見えた。
学校へ向かう道は、昨日よりさらに静かだった。
商店街のシャッターはほとんど閉まっている。薬局の前には相変わらず列ができていたが、昨日と違って怒鳴り声は聞こえなかった。みんな疲れているのだ。怒る体力さえ、眠気に削られている。
電柱には市の貼り紙が増えていた。
《夜間外出を控えてください》
《赤色月光現象に関する虚偽情報の拡散はおやめください》
《夢を見た方は、必ず相談窓口へ》
《睡眠管理バンドを外さないでください》
読むたびに、見えない壁が町の周囲に立っていく気がした。
澪は歩きながら、何度も自分のバンドを見ていた。
黒いバンドのランプは、今は緑に光っている。
「外したい?」
僕が聞くと、澪は首を振った。
「外したら、すぐにわかると思う」
「壊したら?」
「もっとわかると思う」
「だよな」
僕たちは笑わなかった。
校門には、市の職員が立っていた。
昨日より人数が増えている。白い腕章には《睡眠観察支援班》と書かれている。校庭の端には、ワゴン車が三台停まっていた。そのうち一台の後部ドアが開いており、中には折りたたみ式のベッドとモニターのような機械が見えた。
学校が、病院と避難所と警察署を混ぜたような場所になっていた。
昇降口で、白鳥の机に置かれていた花束を思い出した。
今度は白鳥の下駄箱に、誰かが小さなメモを貼っていた。
《早く戻ってきて》
文字は丸く、女子のもののように見えた。
白鳥は死んでいない。
それなのに、そのメモはまるで彼女が遠くへ行ってしまった人のように見えた。
教室に入ると、半分ほどの席しか埋まっていなかった。
欠席者が多い。机の上に突っ伏している者もいる。誰も大きな声で話していない。情報提供箱は教卓の横に置かれていた。昨日より大きい箱に替えられている。
箱の投入口には、紙が何枚も詰まりかけていた。
黒瀬透は自分の席にいた。
僕たちが入ると、彼は顔を上げた。目が合った。だが、彼はすぐに視線を逸らした。
胸が少し痛んだ。
それでも、今は黒瀬に話しかけることができなかった。何を言っても、どこかが嘘になる。友情は、全部を話せないとき、急に薄くなる。
副担任が教室に入ってきた。
顔色は悪かった。手には睡眠報告票の束を持っている。
「今日は通常授業ではなく、自習と健康確認を行います。体調の悪い人、強い眠気がある人、昨夜異常な夢を見た人は、保健室または体育館の検査スペースに行ってください」
誰も動かなかった。
動けば、自分が該当者だと認めることになる。
副担任もそれをわかっているようだった。
「また、白鳥さんについては、現在病院で治療を受けています。命に別状はないとのことです。憶測で話を広げないように」
憶測。
その言葉が出た瞬間、数人が情報提供箱を見た。
憶測を広げるなと言いながら、憶測を入れる箱は置かれている。
僕は机の下で手を握った。
そのとき、教室の後ろのドアが開いた。
見慣れない男子生徒が入ってきた。
背は高くない。制服はこの学校のものだが、まだ体に馴染んでいない。髪は少し長く、前髪が目にかかっている。顔立ちは整っているが、表情が薄い。眠っていないのではなく、眠るという行為から少し距離を置いているような目をしていた。
副担任が慌てて紹介した。
「ええと、今日からしばらく二年三組で一緒に学ぶことになった、水無瀬朔くんです」
教室に小さなどよめきが起こった。
こんな状況で転校生。
それ自体が、冗談のようだった。
水無瀬朔は教壇の横に立ち、軽く頭を下げた。
「水無瀬です。よろしくお願いします」
声は低く、感情が少なかった。
誰かが小声で言った。
「今、転校?」
当然の疑問だった。
副担任は説明に困った顔をした。
「ご家庭の事情で、以前から手続きが進んでいたそうです。こんな時期ですが、皆さん――」
「赤い月は、初めてじゃない」
水無瀬が言った。
教室が一瞬で静まり返った。
副担任が目を見開く。
「水無瀬くん」
「すみません」
水無瀬は謝ったが、悪いと思っている顔ではなかった。
「でも、黙っていても意味がないと思うので」
彼は教室の生徒たちを見渡した。
その視線が、僕と澪のところで一瞬止まった気がした。
「僕は、前に住んでいた町で同じものを見ました」
誰も声を出せなかった。
副担任は困惑し、市の職員を呼ぶべきか迷っているようだった。
水無瀬は淡々と続けた。
「赤い月。眠ると誰かが死ぬ夢。夢を見た人の隔離。密告箱。睡眠バンド。だいたい同じです」
「やめなさい」
副担任がようやく言った。
「そういう不確かなことを――」
「不確かじゃありません」
水無瀬は副担任を見た。
「この学校にも、もう死者が出ているんでしょう。意識不明者も。なら、早く知った方がいい」
「水無瀬くん!」
副担任が強く声を上げた。
廊下にいた市の職員が、こちらを覗いた。
水無瀬は口を閉じた。
だが、もう遅かった。
教室の空気は完全に変わっていた。
今の言葉は噂ではない。断言だった。しかも、水無瀬の声には、聞いた話を面白がって話す軽さがなかった。経験した人間の疲れがあった。
水無瀬は、教室の最後列の空いた席に座った。
その席は、間宮の席の隣だった。
誰も、それを指摘しなかった。
午前の自習時間は、ほとんど誰も勉強しなかった。
教室のあちこちで、水無瀬の方を見る視線が動いた。話しかけようとする者はいない。彼の言葉が本当なら、近づきたい。だが本当だからこそ、近づきたくない。そんな空気だった。
僕は澪に小さくメモを書いた。
《昼休み、水無瀬と話す》
澪は少し迷ってから、頷いた。
だが、昼休みになる前に、彼の方から来た。
授業終了のチャイムが鳴ると、水無瀬は立ち上がり、まっすぐ僕たちの席へ歩いてきた。
黒瀬がそれに気づき、こちらを見た。
水無瀬は僕の机の前で止まった。
「月代悠真」
名前を呼ばれ、背中が冷えた。
「誰に聞いた」
「情報提供箱」
彼は教卓の横を見た。
「箱の上に、紙が一枚はみ出していた。君と篠宮澪が夢を共有しているって」
澪の表情が強張る。
「勝手に見たの?」
「見えた」
「同じことじゃない?」
「かもしれない」
水無瀬は悪びれなかった。
僕は彼を見上げた。
「それで、何の用」
「夜まで生きたいなら、あの箱を信用しない方がいい」
僕は眉をひそめた。
「箱?」
「密告箱」
水無瀬は言った。
「あれは赤い月のための餌になる」
その言葉に、澪が息を呑んだ。
僕は立ち上がった。
「外で話そう」
校舎裏の渡り廊下は、人が少なかった。
旧校舎へ続く道でもある。今は立入禁止のテープが貼られているが、誰も見張ってはいない。市の職員は体育館と保健室に集中していた。
僕と澪、水無瀬の三人は、渡り廊下の端に立った。
空は曇っている。
赤い月は見えない。
だが、見えないだけで、どこかにいる気がした。
「話せ」
僕が言うと、水無瀬はすぐに口を開いた。
「赤い月は、孤立した人間を深い夢へ引きずり込む」
「孤立?」
「誰にも言えないことが増えるほど、夢が深くなる。誰かを疑うほど、月が大きくなる。前の町でもそうだった。最初は事故みたいな死が起きる。次に、夢を見た人を探し始める。管理、調査、密告、隔離。その全部が、赤い月を強くする」
澪が小さく言った。
「恐怖を集めているってこと?」
「近い」
水無瀬は頷いた。
「恐怖と孤独。あと、罪悪感」
罪悪感。
その言葉が、胸に刺さった。
僕は夢の中で間宮を突き落とした。貯水施設の少女を水に沈めた。昨夜は、スーツ姿の男を鉄パイプで殴ろうとした。現実の僕が望んだわけではない。それでも、感触は残っている。
僕の中には、赤い月の燃料になるものが十分すぎるほどあった。
「前の町では、どうなった」
僕が聞いた。
水無瀬は少しだけ視線を逸らした。
「町の名前は、今は地図に残っていない」
澪が口元に手を当てた。
「消えたの?」
「行政上は合併。実際には、人が住まなくなった」
「全員死んだのか」
「全員じゃない。でも、残った人間はまともに眠れなくなった。昼でも夢を見るようになって、最後は誰が起きていて誰が眠っているのかわからなくなった」
渡り廊下の向こうで、風が吹いた。
立入禁止のテープがかすかに揺れる。
「赤い月は何なんだ」
僕は聞いた。
「自然現象じゃないのはわかる」
「僕にも全部はわからない」
「経験したんだろ」
「経験したから、わからないんだよ」
水無瀬は初めて、少しだけ声を荒げた。
すぐに表情を戻したが、その一瞬で彼の内側にあるものが見えた気がした。
怒りではない。
疲れと、恐怖と、諦め。
「わかっているのは、赤い月が出た町では、人が役割を割り振られるということ」
「朝霧先生も同じことを言ってた」
「殺す役、殺される役、見届ける役?」
「知ってるのか」
「前の町でも、その呼び方をしていた医者がいた」
「朝霧先生?」
水無瀬は首を振った。
「別の人。でも、関係はあるかもしれない」
澪が聞いた。
「役割は変えられる?」
「変えられることもある」
「どうやって」
「夢の中で、役割を拒否する」
水無瀬は僕を見た。
「君たちは一度やったんだろ。昨夜、誰かを死なせなかった」
僕は答えなかった。
だが、水無瀬はそれを肯定と受け取ったようだった。
「なら、まだ間に合う」
「何に」
「夢の底に落ちきる前に、死の直前の光景を見る」
澪が眉を寄せた。
「夢の底?」
「死者がいる場所」
水無瀬は言った。
「赤い月で死んだ人間、死にかけた人間、深い夢に沈んだ人間は、夢の底に残る。そこへ行けば、死の理由がわかることがある。ただし――」
「ただし?」
「死者は嘘をつく」
間宮の顔が脳裏に浮かんだ。
夢の廊下に立ち、いつもの調子で笑っていた間宮。
お前が殺したわけじゃない。
殺す役を見せられただけだ。
あれは嘘だったのか。
「全部が嘘なのか」
僕が聞くと、水無瀬は首を振った。
「言葉は嘘をつく。表情も、記憶も、都合よく変わる。でも、死の直前の光景だけは嘘をつけない」
「どうして」
「たぶん、そこだけは赤い月の餌だから」
意味がすぐには理解できなかった。
水無瀬は続けた。
「恐怖が一番濃い瞬間。死ぬ直前、殺す直前、見捨てる直前。赤い月はそこを保存する。だから変えられない。そこを見れば、誰が、どこで、どう死にかけたかがわかる」
澪が小さく言った。
「白鳥さんの夢も?」
「意識が戻らないなら、まだ夢の底にいるかもしれない」
僕は息を吸った。
白鳥は死んでいない。
だが、目覚めていない。
夢の底にいる。
そこへ行けば、白鳥が何を見たのかわかるかもしれない。
みんなが順番に名前を呼ばれていた、という言葉の意味も。
「どうやって行く」
僕が聞くと、水無瀬は僕と澪の手首を見た。
「二人で眠る。できれば、白鳥玲奈に関係する物を持って」
「物?」
「本人が触ったもの。長く使っていたもの。髪留め、ハンカチ、ペン。何でもいい」
澪が言った。
「教室に、白鳥さんの筆箱があるかもしれない」
「持ち出せる?」
「たぶん」
僕は教室の方向を見た。
密告箱。
市の職員。
黒瀬の視線。
朝霧医師。
僕たちはすでに見られている。白鳥のものを持ち出すところを誰かに見られれば、さらに疑われる。
でも、迷っている時間はない。
「今夜、旧校舎でやる」
僕は言った。
澪が僕を見る。
「また?」
「家だと母さんを巻き込む。学校なら白鳥のものも使える」
「市の人がいる」
「だから旧校舎に隠れる」
水無瀬が言った。
「僕も行く」
「なぜ」
「前の町で、僕は逃げた」
水無瀬は短く答えた。
「今度は、逃げない」
その言葉は、それ以上説明を求めにくい重さを持っていた。
午後の間、僕たちはほとんど話さなかった。
澪は白鳥の席の近くを通ったとき、机の横にかかった布袋を確認した。中には筆箱と、委員会用のノートが入っていたらしい。白鳥らしい。たとえ救急搬送されても、机の中はきちんと整理されている。
黒瀬は、僕が水無瀬と話したことに気づいていた。
何度かこちらを見た。
けれど話しかけてこなかった。
代わりに、放課後前の自習時間、彼は情報提供箱の前に立っていた。
僕は息を止めた。
黒瀬は紙を一枚持っていた。
何を書いたのかは見えない。
彼はしばらく箱の前で動かなかった。紙を握りしめ、迷っているようだった。
僕は立ち上がりかけた。
そのとき、白衣姿の朝霧医師が教室に入ってきた。
黒瀬は反射的に紙をポケットへしまった。
僕は席に座り直した。
朝霧は教室全体を見渡したあと、僕たちの方へ歩いてきた。
「月代くん。篠宮さん。少し話せますか」
水無瀬もこちらを見た。
僕は席を立った。
「何ですか」
「昨夜の通話記録について確認したいことがあります」
「白鳥さんの?」
「ええ。彼女が倒れる直前、君の端末と通話状態にあった」
「勝手につながったんです」
「その可能性も含めて確認します」
朝霧の声は相変わらず落ち着いていた。
「白鳥さんは、夢の中で何を見たと言っていましたか」
僕は答えるべきか迷った。
隠せば疑われる。話せば利用される。
澪が先に言った。
「赤い月の下で、みんなが順番に名前を呼ばれていた、と」
朝霧の目がわずかに動いた。
ほんのわずかだったが、僕は見逃さなかった。
朝霧はその言葉を知っている。
「何か心当たりがあるんですか」
僕が聞くと、朝霧は少し黙った。
「似た表現の報告があります」
「誰から」
「言えません」
「またですか」
「個人情報です」
「人が死にかけてるんです」
「だからこそ、慎重に扱う必要があります」
僕は思わず一歩近づいた。
「先生は、本当に助ける気があるんですか」
副担任が教卓の方からこちらを見た。
教室の生徒たちも気づき始めている。
朝霧は表情を変えなかった。
「あります」
「なら、隠さないでください」
「隠しているのは君たちも同じでしょう」
言葉に詰まった。
朝霧は静かに続けた。
「月代くん。君たちは昨夜、何をしましたか」
「寝ました」
「どこで」
「家で」
「その前の夜は」
僕は黙った。
朝霧は僕の沈黙を見て、何かを確信したようだった。
「旧校舎には入らないでください」
心臓が跳ねた。
澪もわずかに顔を上げた。
朝霧は言った。
「あそこは安全ではありません」
「建物が古いからですか」
「それもあります」
「他にも?」
「赤い月の夢は、場所に残ります。強い恐怖や死が近づいた場所ほど、夢へ入りやすい。旧校舎は、今の君たちには危険です」
「なぜそれを知ってるんですか」
朝霧は答えなかった。
やはり、この人は知っている。
僕たちよりもずっと前から。
「今夜は市民センターに来てください」
朝霧は言った。
「管理された環境で眠るべきです」
「管理された環境で、夢は止まるんですか」
「少なくとも、現実の身体は守れます」
「夢の中で死んだら?」
「その場合も対応できます」
「できなかったから、間宮は死んだ」
教室の空気が凍った。
朝霧の表情が初めて少しだけ変わった。
怒りではない。
痛みのようなものだった。
「間宮くんの件については、申し訳なく思っています」
「先生のせいじゃない」
「そう言えるほど、私は無関係ではありません」
その言葉の意味を聞く前に、朝霧は背を向けた。
「今夜、外出は控えてください。旧校舎には近づかない。これは忠告です」
朝霧は教室を出ていった。
僕はその背中を見送った。
忠告。
命令ではない。
だが、命令より重かった。
放課後、僕たちは予定通り動いた。
澪が白鳥の布袋から委員会用のノートを取り出した。表紙には《生活委員会記録》と書かれている。白鳥の字だった。几帳面で、整っている。
僕はそれを自分の鞄に入れた。
その瞬間、背後で声がした。
「何してる」
黒瀬だった。
澪が振り返る。
僕は鞄のファスナーを閉めた。
「何でもない」
「またそれか」
黒瀬の声は低かった。
「白鳥のもの、盗ったのか」
「借りるだけだ」
「本人が倒れてるのに?」
「必要なんだ」
「何に」
答えられなかった。
黒瀬は僕の鞄を見た。
それから、澪を見た。
「お前ら、本当に何してるんだよ」
「黒瀬には関係ない」
同じ言葉を繰り返してしまった。
黒瀬の顔が歪んだ。
「関係ないわけないだろ。間宮が死んだんだぞ。白鳥も倒れた。次は誰かわからない。なのに、お前らだけで何かしてる。俺には何も言わない。篠宮と水無瀬には話して、俺には言えないのか」
水無瀬の名前が出て、僕は周囲を見た。
彼は教室の後方に立っていた。こちらの会話を聞いている。
「黒瀬」
僕は言った。
「今は言えない」
「いつなら言える」
「わからない」
「それ、言わないのと同じだろ」
黒瀬はポケットに手を入れた。
そこには、昼間に持っていた紙が入っているはずだった。
「俺、書こうと思った」
彼は言った。
「お前らが危ないことしてるって。保護してもらった方がいいって。でも、書けなかった。友達を売るみたいで」
僕は何も言えなかった。
黒瀬は笑った。
また、笑いになっていない笑いだった。
「でもさ、売られる方がましなこともあるんじゃないか」
「どういう意味だ」
「死ぬよりはましだろ」
黒瀬はそれだけ言って、教室を出ていった。
僕は追いかけなかった。
追いかける資格がないような気がした。
夜を待つまでの時間は、ひどく長かった。
僕は一度家に戻り、母に学校で自習してくると嘘をついた。母は信じていなかった。だが、何も言わずに水筒と軽食を持たせてくれた。
「夕方までに連絡って言ったでしょう」
「ごめん」
「謝るなら、連絡しなさい」
「うん」
母は僕の手首のバンドを見た。
「それ、外しちゃだめよ」
「わかってる」
「悠真」
玄関を出ようとした僕を、母が呼び止めた。
「無理に誰かを守ろうとしないで」
僕は振り返った。
「守れないかもしれないから?」
「違うわ」
母は首を振った。
「守れなかったとき、自分を殺さないでほしいから」
胸の奥が締めつけられた。
僕は短く頷き、家を出た。
旧校舎には、午後九時前に集まった。
澪と水無瀬はすでに来ていた。澪は制服の上に薄いパーカーを羽織っている。水無瀬は小さなリュックを背負っていた。
「遅い」
水無瀬が言った。
「見張りが増えてた」
実際、学校周辺には市の職員が何人かいた。だが旧校舎裏までは警戒が薄い。朝霧の忠告にもかかわらず、ここを本気で封鎖する余裕はまだないのだろう。
僕たちは歪んだフェンスを抜けた。
旧校舎の中は、前より冷えていた。
同じ場所なのに、空気が違う。廊下の奥が暗すぎる。スマホのライトを向けても、光が吸い込まれるようだった。
水無瀬が言った。
「ここ、もう近いね」
「何に」
「夢の底に」
澪が不安そうに僕を見た。
僕は鞄から白鳥のノートを取り出した。
生活委員会記録。
表紙を開くと、白鳥の字が整然と並んでいた。校内美化、遅刻者数、廊下の掲示物の管理。普通の学校生活が、そこにはまだ残っていた。数日前まで、白鳥は赤い月ではなく、ゴミ箱の分別や昼休みの騒音を気にしていたのだ。
それが、なぜ今、病院で眠っているのか。
僕たちは空き教室に入った。
前回と同じ教室だった。
床には、かすかにカーテンを敷いた跡が残っている。窓には再びカーテンがかけられていた。誰かが直したのだろう。あるいは、夢が元に戻したのかもしれない。
水無瀬はリュックから細い紐を出した。
「三人で繋ぐ」
「三人?」
僕が聞くと、水無瀬は頷いた。
「君と篠宮だけだと、深く沈みすぎるかもしれない。僕は見届ける役に近い。引き戻せる可能性がある」
「危なくないのか」
「危ない」
水無瀬は即答した。
「でも、何もしない方がもっと危ない」
その言い方は、澪に似ていた。
僕たちは手首を繋いだ。
僕の右手首と澪の左手首。僕の左手首と水無瀬の右手首。三人が輪になるように、紐をゆるく結ぶ。
中央には白鳥のノートを置いた。
水無瀬は言った。
「夢の底に入ったら、死者の言葉を信じないこと」
「白鳥は死んでない」
「死者じゃなくても同じ。深い夢にいる人間は、赤い月の言葉を混ぜてくる」
「何を信じればいい」
「光景だけ」
水無瀬は僕を見た。
「誰が何を言っても、言葉に引っ張られるな。見るんだ。死ぬ直前、何があったか。それだけを持って帰る」
澪が深く息を吸った。
「戻れなかったら?」
「誰かが紐を引く」
「それでも?」
水無瀬は少しだけ黙った。
「そのときは、誰かが置いていく」
澪の顔が強張った。
僕も同じだった。
水無瀬は淡々と言った。
「全員で沈むより、一人を置いて戻る方がいい。前の町で、僕はそれができなかった」
その声には、深い後悔があった。
僕は聞きたくなった。
誰を置いてこられなかったのか。
だが、今聞くべきではないと思った。
赤い月が出た。
カーテンの向こうから、赤い光がじわじわと染み込んでくる。睡眠管理バンドのランプが黄色く点滅し、やがて赤に変わった。
スマートフォンが一斉に圏外になる。
廊下の奥で、何かが水に落ちる音がした。
僕たちは目を閉じた。
眠りは、今夜もすぐに来た。
まるで、向こう側で誰かが僕たちを待っていたかのように。
夢の中で、僕たちは教室にいた。
だが、そこは二年三組の教室ではなかった。
机が円形に並べられている。中央には黒い箱が置かれている。箱の投入口から、赤い紙が何枚も溢れていた。壁には無数の睡眠報告票が貼られている。すべてに同じ文字が書かれていた。
《夢を見た者を報告せよ》
窓の外には、赤い月。
教室の一番前に、白鳥玲奈が立っていた。
制服姿で、手には生活委員会のノートを持っている。
「遅かったね」
白鳥は言った。
その声は、通話で聞いた震える声ではなかった。いつもの白鳥に近い。委員長として教室を仕切るときの、しっかりした声だった。
澪が一歩前へ出る。
「白鳥さん、戻ろう」
白鳥は首を傾げた。
「どこへ?」
「現実へ」
「ここも現実だよ」
水無瀬が小さく言った。
「言葉を信じるな」
白鳥は水無瀬を見た。
「また逃げた人だ」
水無瀬の表情が一瞬で変わった。
白鳥は微笑んだ。
「今度も逃げるの?」
「黙れ」
水無瀬の声が低くなる。
僕は彼の紐を引いた。
「乗るな」
水無瀬は歯を食いしばった。
白鳥はノートを開いた。
「みんな、名前を呼ばれるのを待ってる」
その瞬間、円形に並べられた机に、生徒たちの影が現れた。
クラスメイトたちだった。
黒瀬。白鳥。澪。僕。欠席している生徒。見たことのない他校の制服の生徒。榊先生。間宮。
全員が俯いている。
白鳥は黒板にチョークで名前を書き始めた。
間宮陸。
貯水施設で死んだ女子生徒の名前。知らないはずなのに、僕はそれを読めた。
榊先生。
白鳥玲奈。
次に、チョークが止まった。
白鳥は振り返り、僕を見た。
「次は、誰だと思う?」
僕は答えなかった。
白鳥は微笑んだまま、チョークを黒板に当てる。
書かれた名前は、篠宮澪だった。
澪の手首が震えた。
僕は咄嗟に前へ出ようとした。
水無瀬が紐を引いた。
「見るだけだ」
「でも」
「言葉じゃない。光景を見ろ」
光景。
死の直前の光景。
僕は息を整え、教室を見渡した。
床が濡れている。
黒い箱から赤い紙が落ちている。
机の上に、睡眠管理バンドが並んでいる。
そして白鳥の足元に、何かが落ちていた。
小さな紙片。
僕はそれに近づいた。
白鳥が言った。
「拾わない方がいいよ」
無視した。
紙片には、乱れた字でこう書かれていた。
《月代悠真と篠宮澪は、夢を共有している》
現実の情報提供箱に入っていた紙と同じ文面。
だが、裏に別の文字があった。
《白鳥玲奈は、全員の名前を知っている》
僕は白鳥を見た。
白鳥は笑っていなかった。
その顔に、ほんの一瞬だけ恐怖が浮かんだ。
直後、教室の照明が赤く弾けた。
光景が変わる。
白鳥は自宅の部屋にいた。
机に向かい、睡眠報告票を書いている。時計は午前二時。部屋の窓にはカーテンが引かれているが、隙間から赤い月の光が入っていた。
白鳥はスマートフォンを見ていた。
画面には、情報提供箱に入れられた紙の写真がいくつも表示されている。誰かが撮って送ったのだろう。そこにはクラスメイトの名前が並んでいた。
誰々が授業中に寝ていた。
誰々が夢を見たらしい。
月代悠真と篠宮澪が怪しい。
水無瀬朔は赤い月を知っている。
黒瀬透が何か隠している。
白鳥はそれらを整理していた。
ノートに名前を書き、線で結び、危険度のような印をつけている。
彼女は悪意でやっていたのではない。
教室を守ろうとしていた。
自分が把握すれば、誰かを助けられると思っていた。
だが、そのノートの上に、赤い月の光が落ちる。
書かれた名前が、ひとつずつ滲み始める。
白鳥が息を呑む。
ノートの文字が勝手に増えていく。
次に眠る者。
次に殺す者。
次に殺される者。
次に見届ける者。
白鳥は悲鳴を上げ、スマートフォンを手に取った。
通話先は、僕だった。
なぜ僕なのか。
その理由は、彼女自身にもわかっていないようだった。ただ、画面に僕の名前が浮かび、指が勝手に押した。
そして白鳥は見た。
赤い月の下に、クラス全員が並んでいる光景を。
名前を呼ばれた者が、一人ずつ前へ出る。
前へ出た者の背後に、別の誰かが立つ。
殺す役。
殺される役。
見届ける役。
白鳥は、自分の名前が呼ばれるのを聞いた。
その瞬間、彼女は倒れた。
光景が途切れた。
夢の教室に戻る。
白鳥は黒板の前に立っていた。だが、さっきより顔色が悪い。彼女の足元から黒い水が滲み出している。
「見た?」
白鳥が言った。
「私、みんなを守ろうとしただけ」
澪が前に出た。
「わかってる」
「わかってない」
白鳥の声が震えた。
「誰かが整理しないと、みんな勝手な噂で壊れると思った。だから、名前を書いた。危ない人を見つければ助けられると思った。でも、名前を書いたら、その人が夢に呼ばれるようになった」
僕は黒板を見た。
そこには、澪の名前がまだ残っている。
「名前を書かれたら死ぬのか」
僕が聞くと、白鳥は首を振った。
「違う。名前を書かれたら、役割が近づく」
「誰が書いても?」
「たぶん」
白鳥は情報提供箱を見た。
「あの箱に入った名前は、月に届く」
背筋が冷えた。
密告箱は、赤い月の餌になる。
水無瀬の言った通りだった。
情報提供は、町を守るためではなく、夢の役割を固定するために使われている。
「戻ろう、白鳥」
澪が言った。
「それをみんなに伝えないと」
白鳥は悲しそうに笑った。
「戻れないよ」
「死んでない」
「でも、呼ばれた」
白鳥は黒板を見た。
そこに、自分の名前が赤く浮かび上がる。
白鳥玲奈。
見届ける者。
「私はもう、ここで名前を読む係になった」
「違う」
澪が叫んだ。
「そんな役、拒否すればいい」
白鳥は澪を見た。
「篠宮さんは強いね」
「強くない」
「強いよ。殺される役なのに、まだ逃げてる」
教室の空気が凍った。
僕は澪の手首の紐を感じた。
澪の手が震えている。
白鳥は静かに言った。
「でも、いつか月代くんがあなたを殺すよ」
「黙れ」
僕は言った。
白鳥は僕を見た。
「私は嘘をついてない」
水無瀬が低く言った。
「言葉を信じるな」
「でも光景は見たでしょう」
白鳥が微笑む。
次の瞬間、教室が消えた。
僕は赤い月の下に立っていた。
目の前に澪がいる。
僕の両手は、澪の首にかかっていた。
澪は抵抗していない。
むしろ、僕を見て微笑んでいる。
「大丈夫」
澪が言った。
「今度こそ、ちゃんと殺して」
僕は叫んだ。
手を離そうとした。
だが、離れない。
澪の首の皮膚の温かさが、指先にある。息が細くなっていく。赤い月が大きくなる。僕は泣いていた。夢の中の僕は、確かに泣いていた。
そのとき、左手首が強く引かれた。
水無瀬だった。
「戻れ!」
もう一方から、澪の手首が引かれる感触もあった。
現実の澪ではない。
夢の中で首を絞められている澪とは別に、手首の紐の向こうにいる澪が、僕を引き戻そうとしている。
世界が割れた。
僕は床に倒れていた。
旧校舎の空き教室。
現実。
息ができない。
自分の手を見た。何も掴んでいない。澪は隣で咳き込んでいた。首に跡はない。水無瀬は額に汗を浮かべ、壁にもたれていた。
中央に置いた白鳥のノートが開いている。
そこに、赤い文字が浮かんでいた。
インクではない。
紙の内側から滲み出たような文字だった。
《名前を書かれた者は、夢に呼ばれる》
澪が震える声で言った。
「密告箱を止めないと」
「明日、学校で話す」
僕は言った。
「誰が信じる」
水無瀬の声は掠れていた。
「信じなくても、箱を壊す」
「壊したら、余計疑われる」
「それでも」
僕は立ち上がろうとした。
その瞬間、廊下で足音がした。
一人ではない。
複数。
懐中電灯の光が、教室の曇りガラスを横切る。
「誰かいるのか」
市の職員の声だった。
澪が息を呑む。
水無瀬が素早くノートを閉じ、僕に渡した。
「逃げる」
「どこへ」
「奥」
旧校舎のさらに奥。
朝霧が近づくなと言った場所。
夢の底に近い場所。
扉の外で、足音が止まった。
別の声がした。
「月代悠真、篠宮澪、水無瀬朔。中にいるなら出てきなさい」
その声は朝霧医師だった。
穏やかだった。
だが、今はその穏やかさが一番怖かった。
「君たちは危険な状態にあります。保護が必要です」
保護。
その言葉が、旧校舎の暗闇に冷たく響いた。
水無瀬は窓の鍵を開けようとしたが、動かなかった。
外にも人影がある。
囲まれている。
黒瀬の顔が頭をよぎった。
昼間、彼が握っていた紙。
友達を売るみたいで書けなかった、と言った声。
でも、売られる方がましなこともあるんじゃないか。
僕は理解した。
黒瀬は書いたのだ。
僕たちが危ないことをしている。保護してほしい。
きっと、そういうつもりだった。
裏切りではない。
心配だった。
だからこそ、胸の奥が冷たくなった。
朝霧の声が、扉の向こうから続いた。
「夢を変えようとするのは危険です。これ以上、君たちだけで動いてはいけない」
僕は澪を見た。
澪は白鳥のノートを胸に抱えていた。
水無瀬は廊下の反対側を睨んでいる。
僕たちは夢を変えられるかもしれない。
でも、現実の人間は、夢より簡単に僕たちを追い詰める。
扉のノブが、ゆっくりと回った。




