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赤い月の夜に、君を殺す夢を見た。 ――夢で殺された人間は、翌朝ほんとうに死んでいる  作者: アコンプリスの人


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第二章 眠らない町と、夢を密告する教室

 赤い月が昼の空に浮かんでいる。

 その事実だけで、学校という場所は簡単に壊れた。

 誰かが窓に駆け寄り、誰かが机の下に潜り、誰かがスマートフォンを掲げて写真を撮ろうとした。だが、画面に映った空は真っ黒だった。月も、雲も、校舎の窓枠さえ映らない。ただ黒い穴のような画面がそこにあり、撮影ボタンを押すたびに、短い振動だけが指に返ってくる。

「撮れない」

 廊下の向こうで、女子生徒が泣きそうな声を出した。

「何も映らない。なんで」

 教師たちは「教室に戻れ」と叫んでいた。だが、その声には命令としての力がなかった。生徒の方を見ている教師は少ない。ほとんどが、窓の外の月を見ていた。

 昼の空は灰色だった。

 なのに、月だけが赤い。

 夜に見たものよりも薄く、輪郭も曖昧だった。だが、存在感はむしろ増していた。人間の都合など知らない、という顔で、赤い月は校舎の上に浮かんでいる。

 僕は階段の踊り場に立ったまま、篠宮澪の手首を見ていた。

 袖に隠されたその下に、僕の指の形をした痣がある。

 それが、今ここにあるすべての説明を壊していた。

 夢ならば、痣は残らない。

 夢ならば、間宮は死なない。

 夢ならば、僕の右手が水に濡れているはずがない。

「月代くん」

 澪が僕の名前を呼んだ。

 僕は答えなかった。答えようとすると、喉の奥が詰まる。言葉が出てくる前に、昨夜の水の感触が蘇る。細い手首。抵抗する力。泡。ごめん、と夢の中の僕が言った声。

 僕は本当に言ったのだろうか。

 澪を水に沈めながら。

「戻ろう」

 澪が言った。

「ここにいたら、目立つ」

「もう目立ってる」

「それでも」

 澪は廊下の向こうに視線を向けた。

 白鳥玲奈がこちらを見ていた。

 白鳥はクラス委員長らしく、混乱した生徒を教室へ戻そうとしていた。だが彼女の視線は、何度も僕と澪の間を往復していた。何かに気づいたのかもしれない。あるいは、気づいたつもりになっているだけかもしれない。

 この状況では、その違いに大した意味はなかった。

 人はわからないものを見ると、理由を探す。

 理由が見つからなければ、誰かを理由にする。

 僕と澪は、教室に戻った。

 教室は、見慣れた場所ではなくなっていた。

 机も椅子も黒板も、朝と同じ配置のままだ。窓際の間宮の席もそこにある。けれど空気が違う。三十数人分の呼吸が、不規則にぶつかり合っていた。泣いている者。怒っている者。何も言わずにスマートフォンを握りしめている者。白鳥は教卓の横で、教師に何かを訴えていた。

 黒瀬透が僕に近づいてきた。

「どこ行ってた」

「廊下」

「篠宮と?」

 僕は一瞬、返事に迷った。

 その迷いを、黒瀬は見逃さなかった。

「何か知ってるのか」

「何も」

「悠真」

 黒瀬の声が低くなった。

「本当に何も知らないなら、今すぐそういう顔やめろ。お前、何か隠してるようにしか見えない」

 胸の奥を殴られたような気がした。

 黒瀬は敵ではない。少なくとも、この時点では。小学校からの付き合いで、僕の家にも何度も来たことがある。テスト前にノートを貸し合い、帰りにコンビニで肉まんを分け合った。間宮ともよく三人で話していた。

 だからこそ、黒瀬の視線が痛かった。

「隠してない」

 僕は言った。

「ただ、わからないだけだ」

「みんなわからないんだよ」

 黒瀬は唇を噛んだ。

「間宮が死んで、他校の子も死んで、榊先生まで倒れて、昼間から月が出てる。そんなの誰にもわからない。でも、わからないからって黙ってたら、もっと変なことになる」

 黒瀬の言うことは正しかった。

 正しい言葉は、時々、人を追い詰める。

 教室のスピーカーが鳴った。

 短いノイズのあと、教頭の声が流れた。

「全校生徒は、各教室で待機してください。保護者への連絡を行っています。勝手に校外へ出ないようにしてください。繰り返します。全校生徒は――」

 そこで声が途切れた。

 代わりに、低い雑音が流れた。

 昨夜のラジオと同じだった。砂を噛むような音。その奥に、何かの声が混じっている。言葉ではない。なのに、聞いていると意味が流れ込んできそうな気がする。

 眠れ。

 そう聞こえた。

 僕は耳を塞いだ。

 気のせいだ。そう思おうとした。だが、隣の席の女子も耳を塞いでいた。前の席の男子は、机に額を押しつけて震えている。

 雑音は十秒ほどで切れた。

 教室に残ったのは、異様な静けさだった。

 その静けさを破ったのは、白鳥だった。

「先生」

 彼女は副担任に向かって言った。

「夢を見た人を確認した方がいいと思います」

 副担任は戸惑った顔をした。

「白鳥さん、今はそういう不確かな話を――」

「不確かじゃありません」

 白鳥の声は震えていたが、はっきりしていた。

「間宮くんも、貯水施設の子も、榊先生も、夢の話が出ています。赤い月を見た人が全員危ないなら、確認しないと」

「確認してどうするんだ」

 黒瀬が言った。

 白鳥は黒瀬を見た。

「危ない人を一人にしないようにする」

「危ない人って何だよ」

「本人も、周りも危険かもしれない人」

 その瞬間、教室の何人かが僕を見た。

 はっきりとした視線ではない。だが、わかった。彼らは僕を見た。それから澪を見た。

 僕と澪が廊下で話していたことを、誰かが見ていたのだろう。澪の手首の痣を見た者がいたのかもしれない。僕の顔色が悪いこと、手が荒れていること、間宮の死を聞いたときの反応。それらは全部、材料になる。

 怖いとき、人は材料を集める。

 正しさのためではない。安心するためだ。

 結局、その日は午前中で下校となった。

 校門の前には保護者の車が列を作っていた。警察官だけでなく、市役所の腕章をつけた職員も来ていた。職員たちは生徒一人一人に紙を配っていた。

 僕も受け取った。

 紙の上部には、太い文字でこう書かれていた。

《赤色月光現象に伴う健康確認調査について》

 その下に、細かな説明文が続いている。

 昨夜から町内で確認されている通信障害、睡眠障害、意識消失事案について、市は県および医療機関と連携し、住民の健康状態を確認するための臨時調査を実施する。

 そういう内容だった。

 赤い月という言葉は使われていなかった。

 赤色月光現象。

 不気味なほど役所らしい名前だった。名前をつけた瞬間、得体の知れないものが少しだけ管理できるものに見える。だがそれは、檻に名前札を貼っただけで、中の獣を飼いならしたわけではない。

 紙の下部には、質問項目が並んでいた。

 昨夜、睡眠をとったか。

 夢を見た記憶があるか。

 夢の内容を覚えているか。

 夢の中で、特定の人物と接触したか。

 身体に原因不明の痣、傷、濡れ、火傷などはないか。

 他者の死亡、転落、水没、窒息、出血などに関する夢を見たか。

 僕は紙を折りたたんだ。

 そのすべてに、答えたくなかった。

 校門を出ると、黒瀬が隣に来た。

「悠真、家まで送る」

「いいよ」

「いいから」

 黒瀬の声には、有無を言わせないものがあった。

 僕は逆らわなかった。

 帰り道、町は眠っていないのに眠っているようだった。

 商店街のシャッターは半分以上が閉まっていた。薬局の前には人が並んでいる。貼り紙には《カフェイン剤、睡眠補助薬、入荷未定》とあった。睡眠補助薬を求める人と、眠らないための薬を求める人が同じ列に並んでいる。その光景がひどく歪んで見えた。

 コンビニでは、エナジードリンクの棚が空になっていた。

 レジ前で中年の男が店員に怒鳴っている。

「眠ったら死ぬんだろ。もっと出せよ」

 店員は疲れた顔で「在庫がありません」と繰り返していた。男の後ろにいた老婆が、小さな声で祈るように何かを呟いていた。

 黒瀬が低い声で言った。

「おかしくなってる」

「うん」

「でも、何もせずにいるよりはましなのかもな」

「何が」

「市の調査とか。確認すれば、危ないやつを見つけられるかもしれない」

 僕は足を止めそうになった。

「見つけてどうする」

「保護するんだろ」

「誰が」

「市とか、病院とか」

「間宮は保護されなかった」

 黒瀬は黙った。

 言ってから、後悔した。黒瀬にぶつける言葉ではなかった。けれど、止められなかった。

 黒瀬はしばらく歩いてから、言った。

「お前、やっぱり何か知ってるだろ」

 僕は答えなかった。

「言えよ。俺には言え」

「言ったら、お前はどうする」

「内容による」

「じゃあ言えない」

 黒瀬は僕の腕を掴んだ。

「悠真」

 その手は強かった。怒っているのではない。怖がっているのだとわかった。

「俺はお前を疑いたいわけじゃない。ただ、間宮が死んだんだぞ。俺ら、昨日まで普通に話してたんだぞ。なのに今日、机だけになってる。そんなの、おかしいだろ」

「おかしいよ」

「だったら」

「僕にだってわからない」

 僕は黒瀬の手を振りほどかなかった。

「わからないんだ。本当に」

 黒瀬は僕を見ていた。

 その目に、疑いと心配が同じ量だけあった。

 家に着く少し前、交差点で澪を見かけた。

 澪は一人で歩いていた。誰とも一緒ではない。手には、僕と同じ市の調査用紙を持っている。顔を伏せ、早足で歩いていた。

 黒瀬も彼女に気づいた。

「篠宮」

 澪は足を止めた。

 黒瀬は少し迷ったあと、言った。

「家、こっちだっけ」

「うん」

「一人で大丈夫か」

「大丈夫」

 澪は短く答えた。

 黒瀬は納得していない顔だったが、それ以上は言わなかった。

 澪は僕を見た。

 その視線は、一瞬だけ僕の右手に落ちた。それから、自分の左手首を袖の上から押さえた。

 言葉はなかった。

 でも、約束のようなものが生まれていた。

 僕たちは、同じ夢を知っている。

 その事実だけで、もう他人ではいられなかった。

 その夜、市の広報車が町を回った。

 窓を閉めていても、スピーカーの声は聞こえた。

「町民の皆様にお知らせします。昨夜からの赤色月光現象に伴い、睡眠中の体調変化が複数確認されています。本日二十一時以降、不要不急の外出を控え、配布された健康確認票にご記入ください。強い眠気、悪夢、身体の異常を感じた場合は、臨時睡眠相談窓口へご連絡ください」

 臨時睡眠相談窓口。

 その言葉の気味悪さに、母は小さく笑った。笑わなければ耐えられなかったのだろう。

「相談したら、眠らなくて済むのかしら」

 僕は返事をしなかった。

 母はテーブルの上に調査用紙を置いた。

「これ、書かないといけないみたいよ」

「書いたらどうなるの」

「さあ。市が確認するんでしょう」

「夢を見たって書いたら?」

 母は僕を見た。

「見たの?」

 僕は目を逸らした。

「一般論」

 母はしばらく黙っていた。

「悠真」

「何」

「本当に何かあったなら、言いなさい」

 その声は、黒瀬のものと似ていた。

 心配と疑いが混ざった声。

 僕は母を責められなかった。母も怖いのだ。町の外では説明のつかないことが起こり、学校では生徒が死に、テレビは曖昧な情報しか流さない。息子が青ざめた顔で手ばかり洗っていれば、不安にもなる。

 でも、言えなかった。

 僕は夢で人を殺した。

 その一文は、どんな相手にも渡してはいけない刃物のようだった。

「何もない」

 僕は言った。

 母はそれを信じなかった。

 それでも、何も言わなかった。

 午後八時、市の防災アプリから通知が来た。

《睡眠管理バンドの配布について》

 翌日から、町内の全住民に簡易型の睡眠管理バンドが配布されるという。手首に装着し、睡眠時間、心拍、体動を記録する。異常があった場合、本人または家族の同意を得て医療機関へ連絡する。

 同意。

 その二文字だけが、不自然に白々しかった。

 午後九時、赤い月がまた出た。

 カーテンを閉めていてもわかった。

 部屋の中の空気が変わった。壁が薄く赤みを帯び、机の影が伸びた。スマホの画面は勝手に暗くなり、時計の表示が一瞬だけ乱れた。

 僕は眠らない準備をした。

 コーヒー。ガム。冷たい水。アラーム。椅子の上に座り、ベッドから離れる。

 だが、体はもう限界だった。

 二晩続けてろくに眠っていない。まぶたは重く、頭の奥に鉛が詰まっているようだった。数学の問題集を開いても、数字が赤い虫のように紙の上を這って見えた。

 眠ってはいけない。

 その言葉だけを繰り返した。

 眠ったら、誰かが死ぬ。

 スマホが震えた。

 澪からだった。

 連絡先を交換した覚えはない。なのに、画面には彼女の名前が出ていた。

《起きてる?》

 僕はしばらく画面を見つめた。

 誰が登録したのか。いつから入っていたのか。考える余裕はなかった。

《起きてる》

 そう返した。

 すぐに返信が来た。

《私も眠れない》

《眠らない方がいい》

《でも、眠らなかったら壊れる》

《眠ったら死ぬかもしれない》

《誰が?》

 僕は指を止めた。

 誰が。

 それは、わからない。

 僕が死ぬのか。澪が死ぬのか。別の誰かが死ぬのか。間宮のように。貯水施設の女子生徒のように。榊先生のように。

 返信できずにいると、澪から続けてメッセージが来た。

《私、家にいられない》

 胸が嫌な音を立てた。

《どういう意味》

《母が市の窓口に電話してる》

《何を》

《私が夢を見たこと》

 画面を握る手に力が入った。

《手首の痣も見られた》

 僕は椅子から立ち上がった。

 窓の外を見る。家の前の道路に、人影はない。だが遠くでサイレンの音がした。救急車ともパトカーとも違う。もっと低い、聞き慣れない音だった。

 澪から、さらに短いメッセージが届いた。

《迎えに来て》

 僕はスマホを持ったまま固まった。

 外に出てはいけない。広報車はそう言っていた。母に見つかれば止められる。赤い月の下を歩けば、何が起きるかわからない。

 だが、澪の家に市の職員が来るかもしれない。

 彼女は夢の中で僕に殺された。現実では死ななかった。その代わり、別の女子生徒が死んだ。

 澪を一人にしてはいけない。

 理由は、それだけで十分だった。

 僕は部屋を出た。

 階段を降りると、リビングに母はいなかった。キッチンの明かりだけがついている。玄関へ向かう途中、壁にかけられた家族写真が目に入った。数年前、父と母と三人で旅行に行ったときの写真だ。そこに写る僕は、何も知らない顔で笑っていた。

 玄関の鍵を開ける音が、やけに大きく響いた。

「悠真?」

 背後から母の声がした。

 僕は振り返った。

 母が廊下に立っていた。顔には明らかな不安が浮かんでいる。

「どこへ行くの」

「すぐ戻る」

「外出しちゃだめって言ってたでしょう」

「友達が困ってる」

「誰」

 僕は一瞬、迷った。

「篠宮さん」

 母は名前に聞き覚えがないようだった。

「女の子?」

「うん」

「こんな時間に?」

「市に連れていかれるかもしれない」

 言ってしまってから、しまったと思った。

 母の顔色が変わった。

「どういうこと」

「説明してる時間がない」

「悠真」

 母が近づいてきた。

「あなた、何を知ってるの」

 僕は靴を履いた。

「帰ったら話す」

 嘘だった。

 帰っても、たぶん話せない。

 でも、その場を出るにはそう言うしかなかった。

 母は僕の腕を掴もうとした。僕はそれを避けて玄関を出た。

 外は赤かった。

 街灯はついている。家々の窓にも明かりがある。なのに、すべてが赤い月の光に沈んでいた。道路の白線は薄い肉の色に見え、側溝の蓋は黒い傷のように見えた。

 遠くでまたサイレンが鳴った。

 僕は走った。

 澪の家の場所は知らなかった。だが、彼女から地図アプリの位置情報が送られてきていた。普段なら十分ほどの距離だ。夜の住宅街を走ると、どの家もカーテンを閉め切っていた。だが隙間から赤い光が漏れている家もある。中で人が起きているのか、眠っているのかはわからない。

 途中、救急車とすれ違った。

 いや、救急車ではなかった。

 白いワゴン車の側面に、市のマークと《睡眠観察支援班》という文字があった。窓には黒いフィルムが貼られ、中は見えない。サイレンの音は、その車から出ていた。

 僕は反射的に電柱の陰に隠れた。

 ワゴン車はゆっくりと通り過ぎた。後部座席の小窓から、誰かの手が見えた気がした。ガラスに押しつけられた白い手。すぐに見えなくなった。

 僕は息を殺した。

 支援班。

 その言葉もまた、役所らしく整っていた。

 だが、支援される側に選ばれた人間が、本当に助けられているのかはわからない。

 澪の家は、古い住宅街の奥にあった。

 二階建ての一軒家。門柱の表札に篠宮とある。玄関の明かりがついていた。中から女性の声が聞こえる。怒っているのではない。泣いているような、訴えているような声だった。

「だから、娘が変なんです。手首に痣があって、夢のことを……はい、はい、本人は部屋にいます。逃げたりは――」

 僕は門の前で立ち止まった。

 二階の窓が少し開いた。

 澪が顔を出した。

 月の光のせいで、彼女の顔はひどく白く見えた。

「こっち」

 澪は小声で言った。

 僕は家の横へ回った。小さな庭があり、物置とエアコンの室外機が置かれている。二階の窓の下には、雨樋が伸びていた。

「降りられるか」

 僕が聞くと、澪は小さく頷いた。

 無茶だった。

 だが、迷っている時間はなかった。

 澪は窓枠に足をかけた。スカートの裾を押さえながら、雨樋に手を伸ばす。僕は下で両腕を広げた。途中で足が滑り、澪の体が大きく揺れた。

「篠宮」

 僕は声を殺して叫んだ。

 澪は雨樋から手を離した。

 落ちてきた体を、僕は受け止めた。

 衝撃で膝が崩れそうになった。澪の髪が頬に触れる。体は思ったより軽かった。彼女は小さく息を呑み、それから僕の腕の中で固まった。

「ごめん」

「怪我は」

「大丈夫」

 そのとき、家の中で母親の声が大きくなった。

「澪? 澪、部屋にいるの?」

 僕たちは顔を見合わせた。

 走った。

 住宅街の細い路地を抜け、川沿いの道へ出た。背後で玄関が開く音がした。誰かが叫んだが、言葉までは聞き取れなかった。

 澪は息を切らしていた。

 僕も同じだった。肺が痛い。寝不足の体には走ることさえ重労働だった。

 橋の下まで来て、ようやく足を止めた。

 そこは昼間、僕が水面に白い手を見た場所だった。夜の川は黒く、赤い月の光だけが細く揺れている。橋の上を車が一台通り過ぎた。タイヤの音が遠ざかると、辺りは静かになった。

 澪は膝に手をついて呼吸を整えていた。

「ごめん」

 彼女は言った。

「巻き込んだ」

「もう巻き込まれてる」

 僕が言うと、澪は少しだけ笑った。

 笑ったというより、泣きそうになるのを堪えた顔だった。

「どこへ行く」

 僕は聞いた。

「わからない」

「市の車が走ってる。家には戻れない」

「月代くんの家も、たぶんだめ」

 母は僕が出た理由を知っている。澪を連れて帰れば、母は止めるだろう。悪意ではなく、恐怖と常識で。警察か市に連絡するかもしれない。

 僕たちは、行く場所がなかった。

 橋の下で、澪は左手首を押さえていた。

 僕はそれを見ないようにした。

「痛むのか」

「少し」

「ごめん」

「月代くんが謝ることじゃない」

「でも、夢の中で僕が」

「それも、月代くんかどうかはわからない」

「僕の声だったんだろ」

 澪は黙った。

 その沈黙が答えだった。

 風が吹き、川面が揺れた。赤い月の形が崩れ、いくつもの赤い破片になった。

「眠い?」

 澪が聞いた。

「眠くない」

「嘘」

「そっちは」

「眠い」

 澪は正直に言った。

「怖いくらい眠い。逃げてる途中から、ずっと意識が遠くなる。たぶん、月のせいだと思う」

 僕にもわかっていた。

 ただの睡眠不足ではない。赤い月が、こちらの瞼を内側から引っ張っている。起きていることが、水中で息を止めるように苦しくなっている。

 眠れば、夢に落ちる。

 だが、起き続ければ、体が先に壊れる。

 そのとき、澪が言った。

「一人で眠らなければいいのかもしれない」

 僕は彼女を見た。

「どういう意味」

「昨日の夢で、私は殺された。でも目が覚めた。たぶん、完全には死ななかった」

「代わりに別の人が死んだ」

「うん」

 澪は唇を噛んだ。

「だから、ちゃんと夢の中で止められれば、誰も死なないのかもしれない」

「どうやって」

「わからない。でも、一人で眠っていたら、何もできない。夢の中で何が起きているか、起きるまでわからない。でも、誰かが一緒に入れたら」

「一緒に夢を見るってことか」

「たぶん」

 普通なら、あり得ない話だった。

 だが、普通なら赤い月は昼に出ない。普通なら夢で突き落とした同級生が現実に死ぬこともない。普通なら少女の手首についた痣が、夢の中の僕の指の形をしていることもない。

 あり得ないという言葉は、もう役に立たなかった。

「危険すぎる」

 僕は言った。

「僕がまた君を殺す夢を見たら」

「だから、一人じゃない方がいい」

「一緒にいたら、もっと危ないかもしれない」

「一人でも危ない」

 澪は僕を見た。

「ねえ、月代くん。たぶん、もう選べないんだよ。安全な方なんてない。あるのは、何もわからないまま眠るか、少しでもわかろうとして眠るかだけ」

 僕は反論できなかった。

 橋の上を、また車が通った。

 今度はさっきの白いワゴン車だった。

 僕たちは橋脚の陰に身を寄せた。ワゴン車は橋の上で一度速度を落とし、また進んでいった。赤いランプが闇の中に消えるまで、僕たちは息を止めていた。

 澪の肩が震えていた。

 寒さではない。

 僕は自分の上着を脱いで、彼女にかけた。

「学校へ行こう」

 僕は言った。

「この時間なら、旧校舎側のフェンスから入れる。警備も薄いはずだ」

「学校?」

「家よりはましだ。少なくとも、誰も僕たちがそこへ行くとは思わない」

 澪は少し考えて、頷いた。

 僕たちは川沿いを歩いた。

 赤い月は、ずっと空にあった。雲に隠れることも、沈むこともない。ただ、町を見下ろしている。

 学校の敷地に入ったのは、午後十時を少し過ぎた頃だった。

 旧校舎は、数年前まで特別教室として使われていた建物だ。今は耐震工事の予定があるとかで、ほとんど使われていない。裏手のフェンスには、昔から一箇所だけ歪んだ場所がある。黒瀬と間宮が一年のときに見つけた抜け道だった。

 間宮のことを思い出し、胸が痛んだ。

 僕たちはフェンスの隙間から校内へ入り、旧校舎の非常口へ向かった。鍵はかかっていたが、横の窓が少し開いていた。誰かが閉め忘れたのか、あるいはずっと壊れたままだったのか。

 中は埃っぽかった。

 懐中電灯の代わりにスマホのライトをつける。廊下には古い机や壊れた椅子が積まれ、壁には色褪せた掲示物が貼られていた。かつての文化祭のポスター。古い進路指導の案内。誰も読まなくなった文字が、暗がりに沈んでいる。

 僕たちは空き教室に入った。

 窓はカーテンで覆われていたが、赤い月の光は布を通して入り込んでいた。教室全体が薄赤い。机を二つ並べ、その上に澪が腰を下ろした。

「本当にここで眠るの」

 澪が聞いた。

「他に場所がない」

「そうだね」

 澪は小さく息を吐いた。

 僕は教室の中を探し、古いカーテンを一枚外した。埃を払い、床に敷く。さらに掃除用具入れからビニール紐を見つけた。

 澪がそれを見て、少しだけ表情を硬くした。

「縛るの?」

「手首をつなぐだけ」

「逃げられないように?」

「違う。どちらかが暴れたら、もう片方が気づけるように」

 説明しながら、僕自身も無茶なことをしていると思った。

 夢の中で人を殺した人間が、殺される夢を見た少女と手首をつないで眠ろうとしている。誰かが見れば、すぐに止めるだろう。黒瀬でも、母でも、先生でも。

 だからこそ、誰にも見られてはいけなかった。

 澪は左手を差し出した。

 痣のある手首だった。

 僕は紐を結ぼうとして、手が止まった。

「痛かったら言って」

「大丈夫」

 紐をゆるく結ぶ。僕の右手首と、澪の左手首。少し動けば引っ張られる程度の距離だった。

 僕たちはカーテンの上に並んで座った。

 寝るには硬すぎる床だった。だが、眠気はそんなことを気にしてくれなかった。瞼が重い。頭が揺れる。遠くで、校舎のどこかが軋む音がした。

「月代くん」

 澪が言った。

「もし夢の中で私を殺しそうになったら」

「言うな」

「聞いて」

 澪は僕を見ていた。

「そのときは、私が止める。だから、月代くんも止まろうとして」

「止まろうとしても、体が動かなかった」

「それでも」

「できなかったら?」

「できるまでやる」

 澪の声は静かだった。

 怖がっていないわけではない。むしろ、彼女は僕よりずっと怖がっているはずだった。痣も、夢の記憶も、母親に通報されかけたことも、全部彼女の中にある。

 それでも、澪は逃げるだけではなく、夢を見ようとしている。

 僕は自分が恥ずかしくなった。

「どうしてそこまでできるんだ」

 僕が聞くと、澪は少し考えた。

「たぶん、一人で怖がるのに飽きたんだと思う」

 その答えは、予想していたどんな言葉よりも正直だった。

 僕たちは横になった。

 古いカーテン越しに、床の硬さが背中に伝わる。埃の匂い。夜の校舎の湿った空気。隣にいる澪の呼吸。手首の紐が、現実をかろうじて繋ぎ止めている。

 眠ってはいけない。

 そう思いながら、僕は目を閉じた。

 眠るしかない。

 そう思った瞬間、意識は赤い底へ落ちていった。

 夢の中で、僕は校庭に立っていた。

 旧校舎ではない。

 今の校舎でもない。

 どこか、学校に似ているが学校ではない場所だった。校庭には白い線が何本も引かれている。運動会の準備のようにも見えるが、その線は円になり、四角になり、人の形を囲んでいた。空には赤い月。地面は濡れている。

 目の前に、見知らぬ男がいた。

 スーツ姿の中年だった。顔はぼやけて見えない。だが、恐怖に歪んでいることだけはわかった。男は後ずさりしながら、僕に向かって手を振っていた。

「来るな」

 男が言った。

「俺じゃない。俺は何もしてない」

 僕の右手には、鉄パイプが握られていた。

 知らないうちに、腕が上がる。

 やめろ。

 まただ。

 体が僕のものではなくなる。足が前へ出る。男が尻餅をつく。鉄パイプが赤い光を受けて鈍く光る。

 そのとき、右手首が引っ張られた。

 紐の感触だった。

 夢の中なのに、手首に現実の感触があった。

「月代くん」

 声がした。

 振り返ると、澪がいた。

 制服姿で、裸足だった。夢の中の校庭に立ち、僕の右手首につながる紐を両手で握っている。彼女の左手首には赤い痣があった。

「止まって」

 澪が言った。

 僕は止まろうとした。

 だが、腕は動く。鉄パイプが振り上げられる。男が叫ぶ。

「止まって!」

 澪が紐を強く引いた。

 痛みが走った。

 現実の手首が痛んだ。

 その痛みで、僕の意識が一瞬だけ体に戻った。僕は歯を食いしばり、鉄パイプを握る指を開こうとした。

 開かない。

 指は凍りついたように動かない。

 澪が走ってきた。

「だめ!」

 彼女は僕と男の間に飛び込んだ。

 鉄パイプが振り下ろされる。

 僕は叫んだ。

 その瞬間、視界が赤く弾けた。

 目が覚めた。

 旧校舎の空き教室だった。

 僕は床の上で上半身を起こしていた。息が荒い。右手首が痛い。紐が食い込んだ跡が赤くなっている。

 隣で澪も起きていた。

 彼女は肩で息をしていたが、生きていた。怪我もない。鉄パイプで殴られた跡もない。

「大丈夫か」

 僕が聞くと、澪は頷いた。

「止められた?」

「わからない」

 僕はスマホを見た。

 午前三時十七分。

 通知が何件も来ていた。

 ニュース速報を開く。

 町内で男性一人が意識不明。だが、死亡は確認されていない。自宅で倒れているところを家族が発見。命に別状はないとみられる。

 僕は画面を見つめた。

 死んでいない。

 夢で殺そうとした男は、死んでいない。

 澪もスマホを覗き込んだ。

「止められたんだ」

 その声には、初めて小さな希望が混じっていた。

 僕は右手を見た。

 そこに鉄パイプはない。血もない。だが、手首には紐の跡がある。現実と夢をつなぐ細い線。その跡が、僕たちが何かを変えた証拠のように見えた。

「もう一度、眠れる?」

 澪が聞いた。

 僕は彼女を見た。

 正気とは思えない質問だった。

 でも、僕は頷いた。

 その夜、僕たちは何度か眠り、何度か夢を見た。

 誰かが階段から落ちる夢。誰かが自分の首を絞める夢。誰かが線路の上に立っている夢。すべてを完全に止められたわけではない。目覚めるたびに、町のどこかで意識不明者が出ていた。けれど、死者は出なかった。

 少なくとも、その夜は。

 朝方、僕たちは床に座ったまま、しばらく動けなかった。

 窓の外が白み始める。赤い月は消えていた。校舎の中に、いつもの朝の匂いが戻ってくる。埃っぽく、冷たく、少しだけ湿った空気。

 澪は眠そうな顔で言った。

「私たち、たぶん、夢を変えられる」

「たぶんね」

「でも、誰かに知られたら」

 僕は頷いた。

 知られれば、保護されるかもしれない。

 隔離されるかもしれない。

 利用されるかもしれない。

 あるいは、怖がった誰かに差し出されるかもしれない。

 学校のチャイムが鳴った。

 早朝の校舎に、場違いな音が響く。

 僕たちは慌てて立ち上がった。手首の紐をほどく。跡が残っていた。澪の手首にも、僕の手首にも。

 旧校舎を出て、本校舎へ向かう途中、正門の方が騒がしいことに気づいた。

 市の職員が来ていた。

 白い箱をいくつも運び込んでいる。教師たちが受け取り、体育館へ運んでいた。箱の側面には、《睡眠管理バンド》と書かれていた。

 僕と澪は顔を見合わせた。

 町は、もう夢を個人のものとして扱う気がない。

 学校に着くと、全校集会が開かれた。

 体育館には、生徒たちが学年ごとに並ばされていた。壇上には校長と教頭、市役所の職員、それから白衣を着た医師らしき男が立っていた。校長の説明は長かったが、内容は短くまとめられた。

 全生徒に睡眠管理バンドを配布する。

 毎朝、睡眠報告票を提出する。

 異常な夢を見た場合、速やかに担任または保健室へ報告する。

 他者の異常に気づいた場合も、同様に報告する。

 医師の男は、自分を朝霧と名乗った。

「これは皆さんを守るための措置です」

 朝霧医師は、落ち着いた声で言った。

「眠ること自体を恐れる必要はありません。ただし、夢の内容によっては、本人の安全と周囲の安全を確認する必要があります。隠さないでください。隠すことが、一番危険です」

 その言葉を聞いたとき、体育館の空気が変わった。

 隠している者がいる。

 そう言われた気がしたのだ。

 僕は澪を見た。澪もこちらを見ていた。

 僕たちは、隠している。

 だが、それを話せば安全になるとは思えなかった。

 教室に戻ると、机の上に睡眠管理バンドが置かれていた。

 黒い細いバンドだった。腕時計に似ているが、画面はなく、小さなランプだけがついている。装着すると、緑の光が一度点滅した。

 白鳥が用紙を配っていた。

《睡眠報告票》

 昨日と似た質問が並んでいる。

 昨夜、眠ったか。

 何時から何時まで眠ったか。

 夢を見たか。

 夢の中で誰かと接触したか。

 夢の中で誰かが死んだか。

 自分または他人に、夢と関係する身体的異常はあるか。

 僕はペンを持ったまま、書けずにいた。

 澪も同じだった。

 白鳥が僕たちの席の近くで足を止めた。

「月代くん」

「何」

「ちゃんと書いて」

「書くよ」

「嘘は書かない方がいいと思う」

 白鳥の声は冷静だった。

 だが、その冷静さの奥に、恐怖があった。

「みんなのためだから」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の中に小さな反発が生まれた。

 みんなのため。

 それは、誰か一人を差し出すときに使われる言葉に聞こえた。

 僕は睡眠報告票に、短く書いた。

 睡眠時間、二時間。

 夢、覚えていない。

 身体異常、なし。

 嘘だった。

 だが、正直に書くよりはましだった。

 昼休み、教室の前に小さな箱が置かれた。

 段ボールに白い紙が貼られている。

《夢に関する情報提供箱》

 白鳥が設置したのではなかった。副担任が持ってきたものだった。市からの指示らしい。匿名で情報を入れられるという。

 誰かが呟いた。

「密告箱じゃん」

 その言葉は、教室の空気に妙に馴染んだ。

 夢の密告箱。

 名前がつくと、ものごとは急に本当になる。

 放課後までに、箱には何枚もの紙が入っていた。

 誰かが授業中に寝ていた。

 誰かが夢を見たと言っていた。

 誰かの手首に痣があった。

 誰かが赤い月を怖がっていなかった。

 誰かが、誰かと夜に会っていた。

 最後の紙を見たとき、僕は背筋が冷えた。

 副担任が箱の中身を確認していた。紙を一枚取り出し、表情を変える。それから、教室の中を見渡した。

 視線が、僕と澪のところで止まった。

 放課後、僕たちは職員室に呼ばれた。

 廊下を歩く間、クラスメイトたちの視線が背中に刺さった。黒瀬だけが立ち上がりかけたが、白鳥に何か言われて座り直した。

 職員室の前で、澪が小さく言った。

「何が入ってたんだと思う?」

「わからない」

 本当は、わかっていた。

 職員室には、副担任と朝霧医師がいた。

 朝霧は僕たちを見ると、感情の読めない目で微笑んだ。

「月代悠真くん。篠宮澪さん」

 彼は机の上に、一枚の紙を置いた。

 そこには、乱れた字でこう書かれていた。

《月代悠真と篠宮澪は、夢を共有している》

 僕の喉が鳴った。

 澪の手が、わずかに震えた。

 朝霧医師は、僕たちの反応を静かに見ていた。

「この情報に、心当たりはありますか」

 窓の外で、まだ昼の空が薄く赤く光っていた。

 僕は答えなかった。

 澪も答えなかった。

 沈黙は、否定にはならなかった。

 朝霧医師は紙を裏返した。

「隠すことが、危険を大きくする場合があります」

 その声は穏やかだった。

 だからこそ、逃げ道がないように聞こえた。

「君たちが何を見たのか、聞かせてください」

 僕は澪の方を見た。

 澪も僕を見た。

 手首には、昨夜の紐の跡がまだ残っている。

 それは、僕たちが夢を変えた証拠だった。

 同時に、誰かに見つかれば、僕たちを縛る証拠にもなる。

 僕はようやく理解した。

 僕たちはもう、殺人犯として怖がられているわけではない。

 もっと厄介なものとして見つかりかけている。

 夢を変えられる人間。

 赤い月に逆らえる人間。

 そしてこの町は、逆らえる人間を放っておくほど、冷静ではなかった。



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