第二章 眠らない町と、夢を密告する教室
赤い月が昼の空に浮かんでいる。
その事実だけで、学校という場所は簡単に壊れた。
誰かが窓に駆け寄り、誰かが机の下に潜り、誰かがスマートフォンを掲げて写真を撮ろうとした。だが、画面に映った空は真っ黒だった。月も、雲も、校舎の窓枠さえ映らない。ただ黒い穴のような画面がそこにあり、撮影ボタンを押すたびに、短い振動だけが指に返ってくる。
「撮れない」
廊下の向こうで、女子生徒が泣きそうな声を出した。
「何も映らない。なんで」
教師たちは「教室に戻れ」と叫んでいた。だが、その声には命令としての力がなかった。生徒の方を見ている教師は少ない。ほとんどが、窓の外の月を見ていた。
昼の空は灰色だった。
なのに、月だけが赤い。
夜に見たものよりも薄く、輪郭も曖昧だった。だが、存在感はむしろ増していた。人間の都合など知らない、という顔で、赤い月は校舎の上に浮かんでいる。
僕は階段の踊り場に立ったまま、篠宮澪の手首を見ていた。
袖に隠されたその下に、僕の指の形をした痣がある。
それが、今ここにあるすべての説明を壊していた。
夢ならば、痣は残らない。
夢ならば、間宮は死なない。
夢ならば、僕の右手が水に濡れているはずがない。
「月代くん」
澪が僕の名前を呼んだ。
僕は答えなかった。答えようとすると、喉の奥が詰まる。言葉が出てくる前に、昨夜の水の感触が蘇る。細い手首。抵抗する力。泡。ごめん、と夢の中の僕が言った声。
僕は本当に言ったのだろうか。
澪を水に沈めながら。
「戻ろう」
澪が言った。
「ここにいたら、目立つ」
「もう目立ってる」
「それでも」
澪は廊下の向こうに視線を向けた。
白鳥玲奈がこちらを見ていた。
白鳥はクラス委員長らしく、混乱した生徒を教室へ戻そうとしていた。だが彼女の視線は、何度も僕と澪の間を往復していた。何かに気づいたのかもしれない。あるいは、気づいたつもりになっているだけかもしれない。
この状況では、その違いに大した意味はなかった。
人はわからないものを見ると、理由を探す。
理由が見つからなければ、誰かを理由にする。
僕と澪は、教室に戻った。
教室は、見慣れた場所ではなくなっていた。
机も椅子も黒板も、朝と同じ配置のままだ。窓際の間宮の席もそこにある。けれど空気が違う。三十数人分の呼吸が、不規則にぶつかり合っていた。泣いている者。怒っている者。何も言わずにスマートフォンを握りしめている者。白鳥は教卓の横で、教師に何かを訴えていた。
黒瀬透が僕に近づいてきた。
「どこ行ってた」
「廊下」
「篠宮と?」
僕は一瞬、返事に迷った。
その迷いを、黒瀬は見逃さなかった。
「何か知ってるのか」
「何も」
「悠真」
黒瀬の声が低くなった。
「本当に何も知らないなら、今すぐそういう顔やめろ。お前、何か隠してるようにしか見えない」
胸の奥を殴られたような気がした。
黒瀬は敵ではない。少なくとも、この時点では。小学校からの付き合いで、僕の家にも何度も来たことがある。テスト前にノートを貸し合い、帰りにコンビニで肉まんを分け合った。間宮ともよく三人で話していた。
だからこそ、黒瀬の視線が痛かった。
「隠してない」
僕は言った。
「ただ、わからないだけだ」
「みんなわからないんだよ」
黒瀬は唇を噛んだ。
「間宮が死んで、他校の子も死んで、榊先生まで倒れて、昼間から月が出てる。そんなの誰にもわからない。でも、わからないからって黙ってたら、もっと変なことになる」
黒瀬の言うことは正しかった。
正しい言葉は、時々、人を追い詰める。
教室のスピーカーが鳴った。
短いノイズのあと、教頭の声が流れた。
「全校生徒は、各教室で待機してください。保護者への連絡を行っています。勝手に校外へ出ないようにしてください。繰り返します。全校生徒は――」
そこで声が途切れた。
代わりに、低い雑音が流れた。
昨夜のラジオと同じだった。砂を噛むような音。その奥に、何かの声が混じっている。言葉ではない。なのに、聞いていると意味が流れ込んできそうな気がする。
眠れ。
そう聞こえた。
僕は耳を塞いだ。
気のせいだ。そう思おうとした。だが、隣の席の女子も耳を塞いでいた。前の席の男子は、机に額を押しつけて震えている。
雑音は十秒ほどで切れた。
教室に残ったのは、異様な静けさだった。
その静けさを破ったのは、白鳥だった。
「先生」
彼女は副担任に向かって言った。
「夢を見た人を確認した方がいいと思います」
副担任は戸惑った顔をした。
「白鳥さん、今はそういう不確かな話を――」
「不確かじゃありません」
白鳥の声は震えていたが、はっきりしていた。
「間宮くんも、貯水施設の子も、榊先生も、夢の話が出ています。赤い月を見た人が全員危ないなら、確認しないと」
「確認してどうするんだ」
黒瀬が言った。
白鳥は黒瀬を見た。
「危ない人を一人にしないようにする」
「危ない人って何だよ」
「本人も、周りも危険かもしれない人」
その瞬間、教室の何人かが僕を見た。
はっきりとした視線ではない。だが、わかった。彼らは僕を見た。それから澪を見た。
僕と澪が廊下で話していたことを、誰かが見ていたのだろう。澪の手首の痣を見た者がいたのかもしれない。僕の顔色が悪いこと、手が荒れていること、間宮の死を聞いたときの反応。それらは全部、材料になる。
怖いとき、人は材料を集める。
正しさのためではない。安心するためだ。
結局、その日は午前中で下校となった。
校門の前には保護者の車が列を作っていた。警察官だけでなく、市役所の腕章をつけた職員も来ていた。職員たちは生徒一人一人に紙を配っていた。
僕も受け取った。
紙の上部には、太い文字でこう書かれていた。
《赤色月光現象に伴う健康確認調査について》
その下に、細かな説明文が続いている。
昨夜から町内で確認されている通信障害、睡眠障害、意識消失事案について、市は県および医療機関と連携し、住民の健康状態を確認するための臨時調査を実施する。
そういう内容だった。
赤い月という言葉は使われていなかった。
赤色月光現象。
不気味なほど役所らしい名前だった。名前をつけた瞬間、得体の知れないものが少しだけ管理できるものに見える。だがそれは、檻に名前札を貼っただけで、中の獣を飼いならしたわけではない。
紙の下部には、質問項目が並んでいた。
昨夜、睡眠をとったか。
夢を見た記憶があるか。
夢の内容を覚えているか。
夢の中で、特定の人物と接触したか。
身体に原因不明の痣、傷、濡れ、火傷などはないか。
他者の死亡、転落、水没、窒息、出血などに関する夢を見たか。
僕は紙を折りたたんだ。
そのすべてに、答えたくなかった。
校門を出ると、黒瀬が隣に来た。
「悠真、家まで送る」
「いいよ」
「いいから」
黒瀬の声には、有無を言わせないものがあった。
僕は逆らわなかった。
帰り道、町は眠っていないのに眠っているようだった。
商店街のシャッターは半分以上が閉まっていた。薬局の前には人が並んでいる。貼り紙には《カフェイン剤、睡眠補助薬、入荷未定》とあった。睡眠補助薬を求める人と、眠らないための薬を求める人が同じ列に並んでいる。その光景がひどく歪んで見えた。
コンビニでは、エナジードリンクの棚が空になっていた。
レジ前で中年の男が店員に怒鳴っている。
「眠ったら死ぬんだろ。もっと出せよ」
店員は疲れた顔で「在庫がありません」と繰り返していた。男の後ろにいた老婆が、小さな声で祈るように何かを呟いていた。
黒瀬が低い声で言った。
「おかしくなってる」
「うん」
「でも、何もせずにいるよりはましなのかもな」
「何が」
「市の調査とか。確認すれば、危ないやつを見つけられるかもしれない」
僕は足を止めそうになった。
「見つけてどうする」
「保護するんだろ」
「誰が」
「市とか、病院とか」
「間宮は保護されなかった」
黒瀬は黙った。
言ってから、後悔した。黒瀬にぶつける言葉ではなかった。けれど、止められなかった。
黒瀬はしばらく歩いてから、言った。
「お前、やっぱり何か知ってるだろ」
僕は答えなかった。
「言えよ。俺には言え」
「言ったら、お前はどうする」
「内容による」
「じゃあ言えない」
黒瀬は僕の腕を掴んだ。
「悠真」
その手は強かった。怒っているのではない。怖がっているのだとわかった。
「俺はお前を疑いたいわけじゃない。ただ、間宮が死んだんだぞ。俺ら、昨日まで普通に話してたんだぞ。なのに今日、机だけになってる。そんなの、おかしいだろ」
「おかしいよ」
「だったら」
「僕にだってわからない」
僕は黒瀬の手を振りほどかなかった。
「わからないんだ。本当に」
黒瀬は僕を見ていた。
その目に、疑いと心配が同じ量だけあった。
家に着く少し前、交差点で澪を見かけた。
澪は一人で歩いていた。誰とも一緒ではない。手には、僕と同じ市の調査用紙を持っている。顔を伏せ、早足で歩いていた。
黒瀬も彼女に気づいた。
「篠宮」
澪は足を止めた。
黒瀬は少し迷ったあと、言った。
「家、こっちだっけ」
「うん」
「一人で大丈夫か」
「大丈夫」
澪は短く答えた。
黒瀬は納得していない顔だったが、それ以上は言わなかった。
澪は僕を見た。
その視線は、一瞬だけ僕の右手に落ちた。それから、自分の左手首を袖の上から押さえた。
言葉はなかった。
でも、約束のようなものが生まれていた。
僕たちは、同じ夢を知っている。
その事実だけで、もう他人ではいられなかった。
その夜、市の広報車が町を回った。
窓を閉めていても、スピーカーの声は聞こえた。
「町民の皆様にお知らせします。昨夜からの赤色月光現象に伴い、睡眠中の体調変化が複数確認されています。本日二十一時以降、不要不急の外出を控え、配布された健康確認票にご記入ください。強い眠気、悪夢、身体の異常を感じた場合は、臨時睡眠相談窓口へご連絡ください」
臨時睡眠相談窓口。
その言葉の気味悪さに、母は小さく笑った。笑わなければ耐えられなかったのだろう。
「相談したら、眠らなくて済むのかしら」
僕は返事をしなかった。
母はテーブルの上に調査用紙を置いた。
「これ、書かないといけないみたいよ」
「書いたらどうなるの」
「さあ。市が確認するんでしょう」
「夢を見たって書いたら?」
母は僕を見た。
「見たの?」
僕は目を逸らした。
「一般論」
母はしばらく黙っていた。
「悠真」
「何」
「本当に何かあったなら、言いなさい」
その声は、黒瀬のものと似ていた。
心配と疑いが混ざった声。
僕は母を責められなかった。母も怖いのだ。町の外では説明のつかないことが起こり、学校では生徒が死に、テレビは曖昧な情報しか流さない。息子が青ざめた顔で手ばかり洗っていれば、不安にもなる。
でも、言えなかった。
僕は夢で人を殺した。
その一文は、どんな相手にも渡してはいけない刃物のようだった。
「何もない」
僕は言った。
母はそれを信じなかった。
それでも、何も言わなかった。
午後八時、市の防災アプリから通知が来た。
《睡眠管理バンドの配布について》
翌日から、町内の全住民に簡易型の睡眠管理バンドが配布されるという。手首に装着し、睡眠時間、心拍、体動を記録する。異常があった場合、本人または家族の同意を得て医療機関へ連絡する。
同意。
その二文字だけが、不自然に白々しかった。
午後九時、赤い月がまた出た。
カーテンを閉めていてもわかった。
部屋の中の空気が変わった。壁が薄く赤みを帯び、机の影が伸びた。スマホの画面は勝手に暗くなり、時計の表示が一瞬だけ乱れた。
僕は眠らない準備をした。
コーヒー。ガム。冷たい水。アラーム。椅子の上に座り、ベッドから離れる。
だが、体はもう限界だった。
二晩続けてろくに眠っていない。まぶたは重く、頭の奥に鉛が詰まっているようだった。数学の問題集を開いても、数字が赤い虫のように紙の上を這って見えた。
眠ってはいけない。
その言葉だけを繰り返した。
眠ったら、誰かが死ぬ。
スマホが震えた。
澪からだった。
連絡先を交換した覚えはない。なのに、画面には彼女の名前が出ていた。
《起きてる?》
僕はしばらく画面を見つめた。
誰が登録したのか。いつから入っていたのか。考える余裕はなかった。
《起きてる》
そう返した。
すぐに返信が来た。
《私も眠れない》
《眠らない方がいい》
《でも、眠らなかったら壊れる》
《眠ったら死ぬかもしれない》
《誰が?》
僕は指を止めた。
誰が。
それは、わからない。
僕が死ぬのか。澪が死ぬのか。別の誰かが死ぬのか。間宮のように。貯水施設の女子生徒のように。榊先生のように。
返信できずにいると、澪から続けてメッセージが来た。
《私、家にいられない》
胸が嫌な音を立てた。
《どういう意味》
《母が市の窓口に電話してる》
《何を》
《私が夢を見たこと》
画面を握る手に力が入った。
《手首の痣も見られた》
僕は椅子から立ち上がった。
窓の外を見る。家の前の道路に、人影はない。だが遠くでサイレンの音がした。救急車ともパトカーとも違う。もっと低い、聞き慣れない音だった。
澪から、さらに短いメッセージが届いた。
《迎えに来て》
僕はスマホを持ったまま固まった。
外に出てはいけない。広報車はそう言っていた。母に見つかれば止められる。赤い月の下を歩けば、何が起きるかわからない。
だが、澪の家に市の職員が来るかもしれない。
彼女は夢の中で僕に殺された。現実では死ななかった。その代わり、別の女子生徒が死んだ。
澪を一人にしてはいけない。
理由は、それだけで十分だった。
僕は部屋を出た。
階段を降りると、リビングに母はいなかった。キッチンの明かりだけがついている。玄関へ向かう途中、壁にかけられた家族写真が目に入った。数年前、父と母と三人で旅行に行ったときの写真だ。そこに写る僕は、何も知らない顔で笑っていた。
玄関の鍵を開ける音が、やけに大きく響いた。
「悠真?」
背後から母の声がした。
僕は振り返った。
母が廊下に立っていた。顔には明らかな不安が浮かんでいる。
「どこへ行くの」
「すぐ戻る」
「外出しちゃだめって言ってたでしょう」
「友達が困ってる」
「誰」
僕は一瞬、迷った。
「篠宮さん」
母は名前に聞き覚えがないようだった。
「女の子?」
「うん」
「こんな時間に?」
「市に連れていかれるかもしれない」
言ってしまってから、しまったと思った。
母の顔色が変わった。
「どういうこと」
「説明してる時間がない」
「悠真」
母が近づいてきた。
「あなた、何を知ってるの」
僕は靴を履いた。
「帰ったら話す」
嘘だった。
帰っても、たぶん話せない。
でも、その場を出るにはそう言うしかなかった。
母は僕の腕を掴もうとした。僕はそれを避けて玄関を出た。
外は赤かった。
街灯はついている。家々の窓にも明かりがある。なのに、すべてが赤い月の光に沈んでいた。道路の白線は薄い肉の色に見え、側溝の蓋は黒い傷のように見えた。
遠くでまたサイレンが鳴った。
僕は走った。
澪の家の場所は知らなかった。だが、彼女から地図アプリの位置情報が送られてきていた。普段なら十分ほどの距離だ。夜の住宅街を走ると、どの家もカーテンを閉め切っていた。だが隙間から赤い光が漏れている家もある。中で人が起きているのか、眠っているのかはわからない。
途中、救急車とすれ違った。
いや、救急車ではなかった。
白いワゴン車の側面に、市のマークと《睡眠観察支援班》という文字があった。窓には黒いフィルムが貼られ、中は見えない。サイレンの音は、その車から出ていた。
僕は反射的に電柱の陰に隠れた。
ワゴン車はゆっくりと通り過ぎた。後部座席の小窓から、誰かの手が見えた気がした。ガラスに押しつけられた白い手。すぐに見えなくなった。
僕は息を殺した。
支援班。
その言葉もまた、役所らしく整っていた。
だが、支援される側に選ばれた人間が、本当に助けられているのかはわからない。
澪の家は、古い住宅街の奥にあった。
二階建ての一軒家。門柱の表札に篠宮とある。玄関の明かりがついていた。中から女性の声が聞こえる。怒っているのではない。泣いているような、訴えているような声だった。
「だから、娘が変なんです。手首に痣があって、夢のことを……はい、はい、本人は部屋にいます。逃げたりは――」
僕は門の前で立ち止まった。
二階の窓が少し開いた。
澪が顔を出した。
月の光のせいで、彼女の顔はひどく白く見えた。
「こっち」
澪は小声で言った。
僕は家の横へ回った。小さな庭があり、物置とエアコンの室外機が置かれている。二階の窓の下には、雨樋が伸びていた。
「降りられるか」
僕が聞くと、澪は小さく頷いた。
無茶だった。
だが、迷っている時間はなかった。
澪は窓枠に足をかけた。スカートの裾を押さえながら、雨樋に手を伸ばす。僕は下で両腕を広げた。途中で足が滑り、澪の体が大きく揺れた。
「篠宮」
僕は声を殺して叫んだ。
澪は雨樋から手を離した。
落ちてきた体を、僕は受け止めた。
衝撃で膝が崩れそうになった。澪の髪が頬に触れる。体は思ったより軽かった。彼女は小さく息を呑み、それから僕の腕の中で固まった。
「ごめん」
「怪我は」
「大丈夫」
そのとき、家の中で母親の声が大きくなった。
「澪? 澪、部屋にいるの?」
僕たちは顔を見合わせた。
走った。
住宅街の細い路地を抜け、川沿いの道へ出た。背後で玄関が開く音がした。誰かが叫んだが、言葉までは聞き取れなかった。
澪は息を切らしていた。
僕も同じだった。肺が痛い。寝不足の体には走ることさえ重労働だった。
橋の下まで来て、ようやく足を止めた。
そこは昼間、僕が水面に白い手を見た場所だった。夜の川は黒く、赤い月の光だけが細く揺れている。橋の上を車が一台通り過ぎた。タイヤの音が遠ざかると、辺りは静かになった。
澪は膝に手をついて呼吸を整えていた。
「ごめん」
彼女は言った。
「巻き込んだ」
「もう巻き込まれてる」
僕が言うと、澪は少しだけ笑った。
笑ったというより、泣きそうになるのを堪えた顔だった。
「どこへ行く」
僕は聞いた。
「わからない」
「市の車が走ってる。家には戻れない」
「月代くんの家も、たぶんだめ」
母は僕が出た理由を知っている。澪を連れて帰れば、母は止めるだろう。悪意ではなく、恐怖と常識で。警察か市に連絡するかもしれない。
僕たちは、行く場所がなかった。
橋の下で、澪は左手首を押さえていた。
僕はそれを見ないようにした。
「痛むのか」
「少し」
「ごめん」
「月代くんが謝ることじゃない」
「でも、夢の中で僕が」
「それも、月代くんかどうかはわからない」
「僕の声だったんだろ」
澪は黙った。
その沈黙が答えだった。
風が吹き、川面が揺れた。赤い月の形が崩れ、いくつもの赤い破片になった。
「眠い?」
澪が聞いた。
「眠くない」
「嘘」
「そっちは」
「眠い」
澪は正直に言った。
「怖いくらい眠い。逃げてる途中から、ずっと意識が遠くなる。たぶん、月のせいだと思う」
僕にもわかっていた。
ただの睡眠不足ではない。赤い月が、こちらの瞼を内側から引っ張っている。起きていることが、水中で息を止めるように苦しくなっている。
眠れば、夢に落ちる。
だが、起き続ければ、体が先に壊れる。
そのとき、澪が言った。
「一人で眠らなければいいのかもしれない」
僕は彼女を見た。
「どういう意味」
「昨日の夢で、私は殺された。でも目が覚めた。たぶん、完全には死ななかった」
「代わりに別の人が死んだ」
「うん」
澪は唇を噛んだ。
「だから、ちゃんと夢の中で止められれば、誰も死なないのかもしれない」
「どうやって」
「わからない。でも、一人で眠っていたら、何もできない。夢の中で何が起きているか、起きるまでわからない。でも、誰かが一緒に入れたら」
「一緒に夢を見るってことか」
「たぶん」
普通なら、あり得ない話だった。
だが、普通なら赤い月は昼に出ない。普通なら夢で突き落とした同級生が現実に死ぬこともない。普通なら少女の手首についた痣が、夢の中の僕の指の形をしていることもない。
あり得ないという言葉は、もう役に立たなかった。
「危険すぎる」
僕は言った。
「僕がまた君を殺す夢を見たら」
「だから、一人じゃない方がいい」
「一緒にいたら、もっと危ないかもしれない」
「一人でも危ない」
澪は僕を見た。
「ねえ、月代くん。たぶん、もう選べないんだよ。安全な方なんてない。あるのは、何もわからないまま眠るか、少しでもわかろうとして眠るかだけ」
僕は反論できなかった。
橋の上を、また車が通った。
今度はさっきの白いワゴン車だった。
僕たちは橋脚の陰に身を寄せた。ワゴン車は橋の上で一度速度を落とし、また進んでいった。赤いランプが闇の中に消えるまで、僕たちは息を止めていた。
澪の肩が震えていた。
寒さではない。
僕は自分の上着を脱いで、彼女にかけた。
「学校へ行こう」
僕は言った。
「この時間なら、旧校舎側のフェンスから入れる。警備も薄いはずだ」
「学校?」
「家よりはましだ。少なくとも、誰も僕たちがそこへ行くとは思わない」
澪は少し考えて、頷いた。
僕たちは川沿いを歩いた。
赤い月は、ずっと空にあった。雲に隠れることも、沈むこともない。ただ、町を見下ろしている。
学校の敷地に入ったのは、午後十時を少し過ぎた頃だった。
旧校舎は、数年前まで特別教室として使われていた建物だ。今は耐震工事の予定があるとかで、ほとんど使われていない。裏手のフェンスには、昔から一箇所だけ歪んだ場所がある。黒瀬と間宮が一年のときに見つけた抜け道だった。
間宮のことを思い出し、胸が痛んだ。
僕たちはフェンスの隙間から校内へ入り、旧校舎の非常口へ向かった。鍵はかかっていたが、横の窓が少し開いていた。誰かが閉め忘れたのか、あるいはずっと壊れたままだったのか。
中は埃っぽかった。
懐中電灯の代わりにスマホのライトをつける。廊下には古い机や壊れた椅子が積まれ、壁には色褪せた掲示物が貼られていた。かつての文化祭のポスター。古い進路指導の案内。誰も読まなくなった文字が、暗がりに沈んでいる。
僕たちは空き教室に入った。
窓はカーテンで覆われていたが、赤い月の光は布を通して入り込んでいた。教室全体が薄赤い。机を二つ並べ、その上に澪が腰を下ろした。
「本当にここで眠るの」
澪が聞いた。
「他に場所がない」
「そうだね」
澪は小さく息を吐いた。
僕は教室の中を探し、古いカーテンを一枚外した。埃を払い、床に敷く。さらに掃除用具入れからビニール紐を見つけた。
澪がそれを見て、少しだけ表情を硬くした。
「縛るの?」
「手首をつなぐだけ」
「逃げられないように?」
「違う。どちらかが暴れたら、もう片方が気づけるように」
説明しながら、僕自身も無茶なことをしていると思った。
夢の中で人を殺した人間が、殺される夢を見た少女と手首をつないで眠ろうとしている。誰かが見れば、すぐに止めるだろう。黒瀬でも、母でも、先生でも。
だからこそ、誰にも見られてはいけなかった。
澪は左手を差し出した。
痣のある手首だった。
僕は紐を結ぼうとして、手が止まった。
「痛かったら言って」
「大丈夫」
紐をゆるく結ぶ。僕の右手首と、澪の左手首。少し動けば引っ張られる程度の距離だった。
僕たちはカーテンの上に並んで座った。
寝るには硬すぎる床だった。だが、眠気はそんなことを気にしてくれなかった。瞼が重い。頭が揺れる。遠くで、校舎のどこかが軋む音がした。
「月代くん」
澪が言った。
「もし夢の中で私を殺しそうになったら」
「言うな」
「聞いて」
澪は僕を見ていた。
「そのときは、私が止める。だから、月代くんも止まろうとして」
「止まろうとしても、体が動かなかった」
「それでも」
「できなかったら?」
「できるまでやる」
澪の声は静かだった。
怖がっていないわけではない。むしろ、彼女は僕よりずっと怖がっているはずだった。痣も、夢の記憶も、母親に通報されかけたことも、全部彼女の中にある。
それでも、澪は逃げるだけではなく、夢を見ようとしている。
僕は自分が恥ずかしくなった。
「どうしてそこまでできるんだ」
僕が聞くと、澪は少し考えた。
「たぶん、一人で怖がるのに飽きたんだと思う」
その答えは、予想していたどんな言葉よりも正直だった。
僕たちは横になった。
古いカーテン越しに、床の硬さが背中に伝わる。埃の匂い。夜の校舎の湿った空気。隣にいる澪の呼吸。手首の紐が、現実をかろうじて繋ぎ止めている。
眠ってはいけない。
そう思いながら、僕は目を閉じた。
眠るしかない。
そう思った瞬間、意識は赤い底へ落ちていった。
夢の中で、僕は校庭に立っていた。
旧校舎ではない。
今の校舎でもない。
どこか、学校に似ているが学校ではない場所だった。校庭には白い線が何本も引かれている。運動会の準備のようにも見えるが、その線は円になり、四角になり、人の形を囲んでいた。空には赤い月。地面は濡れている。
目の前に、見知らぬ男がいた。
スーツ姿の中年だった。顔はぼやけて見えない。だが、恐怖に歪んでいることだけはわかった。男は後ずさりしながら、僕に向かって手を振っていた。
「来るな」
男が言った。
「俺じゃない。俺は何もしてない」
僕の右手には、鉄パイプが握られていた。
知らないうちに、腕が上がる。
やめろ。
まただ。
体が僕のものではなくなる。足が前へ出る。男が尻餅をつく。鉄パイプが赤い光を受けて鈍く光る。
そのとき、右手首が引っ張られた。
紐の感触だった。
夢の中なのに、手首に現実の感触があった。
「月代くん」
声がした。
振り返ると、澪がいた。
制服姿で、裸足だった。夢の中の校庭に立ち、僕の右手首につながる紐を両手で握っている。彼女の左手首には赤い痣があった。
「止まって」
澪が言った。
僕は止まろうとした。
だが、腕は動く。鉄パイプが振り上げられる。男が叫ぶ。
「止まって!」
澪が紐を強く引いた。
痛みが走った。
現実の手首が痛んだ。
その痛みで、僕の意識が一瞬だけ体に戻った。僕は歯を食いしばり、鉄パイプを握る指を開こうとした。
開かない。
指は凍りついたように動かない。
澪が走ってきた。
「だめ!」
彼女は僕と男の間に飛び込んだ。
鉄パイプが振り下ろされる。
僕は叫んだ。
その瞬間、視界が赤く弾けた。
目が覚めた。
旧校舎の空き教室だった。
僕は床の上で上半身を起こしていた。息が荒い。右手首が痛い。紐が食い込んだ跡が赤くなっている。
隣で澪も起きていた。
彼女は肩で息をしていたが、生きていた。怪我もない。鉄パイプで殴られた跡もない。
「大丈夫か」
僕が聞くと、澪は頷いた。
「止められた?」
「わからない」
僕はスマホを見た。
午前三時十七分。
通知が何件も来ていた。
ニュース速報を開く。
町内で男性一人が意識不明。だが、死亡は確認されていない。自宅で倒れているところを家族が発見。命に別状はないとみられる。
僕は画面を見つめた。
死んでいない。
夢で殺そうとした男は、死んでいない。
澪もスマホを覗き込んだ。
「止められたんだ」
その声には、初めて小さな希望が混じっていた。
僕は右手を見た。
そこに鉄パイプはない。血もない。だが、手首には紐の跡がある。現実と夢をつなぐ細い線。その跡が、僕たちが何かを変えた証拠のように見えた。
「もう一度、眠れる?」
澪が聞いた。
僕は彼女を見た。
正気とは思えない質問だった。
でも、僕は頷いた。
その夜、僕たちは何度か眠り、何度か夢を見た。
誰かが階段から落ちる夢。誰かが自分の首を絞める夢。誰かが線路の上に立っている夢。すべてを完全に止められたわけではない。目覚めるたびに、町のどこかで意識不明者が出ていた。けれど、死者は出なかった。
少なくとも、その夜は。
朝方、僕たちは床に座ったまま、しばらく動けなかった。
窓の外が白み始める。赤い月は消えていた。校舎の中に、いつもの朝の匂いが戻ってくる。埃っぽく、冷たく、少しだけ湿った空気。
澪は眠そうな顔で言った。
「私たち、たぶん、夢を変えられる」
「たぶんね」
「でも、誰かに知られたら」
僕は頷いた。
知られれば、保護されるかもしれない。
隔離されるかもしれない。
利用されるかもしれない。
あるいは、怖がった誰かに差し出されるかもしれない。
学校のチャイムが鳴った。
早朝の校舎に、場違いな音が響く。
僕たちは慌てて立ち上がった。手首の紐をほどく。跡が残っていた。澪の手首にも、僕の手首にも。
旧校舎を出て、本校舎へ向かう途中、正門の方が騒がしいことに気づいた。
市の職員が来ていた。
白い箱をいくつも運び込んでいる。教師たちが受け取り、体育館へ運んでいた。箱の側面には、《睡眠管理バンド》と書かれていた。
僕と澪は顔を見合わせた。
町は、もう夢を個人のものとして扱う気がない。
学校に着くと、全校集会が開かれた。
体育館には、生徒たちが学年ごとに並ばされていた。壇上には校長と教頭、市役所の職員、それから白衣を着た医師らしき男が立っていた。校長の説明は長かったが、内容は短くまとめられた。
全生徒に睡眠管理バンドを配布する。
毎朝、睡眠報告票を提出する。
異常な夢を見た場合、速やかに担任または保健室へ報告する。
他者の異常に気づいた場合も、同様に報告する。
医師の男は、自分を朝霧と名乗った。
「これは皆さんを守るための措置です」
朝霧医師は、落ち着いた声で言った。
「眠ること自体を恐れる必要はありません。ただし、夢の内容によっては、本人の安全と周囲の安全を確認する必要があります。隠さないでください。隠すことが、一番危険です」
その言葉を聞いたとき、体育館の空気が変わった。
隠している者がいる。
そう言われた気がしたのだ。
僕は澪を見た。澪もこちらを見ていた。
僕たちは、隠している。
だが、それを話せば安全になるとは思えなかった。
教室に戻ると、机の上に睡眠管理バンドが置かれていた。
黒い細いバンドだった。腕時計に似ているが、画面はなく、小さなランプだけがついている。装着すると、緑の光が一度点滅した。
白鳥が用紙を配っていた。
《睡眠報告票》
昨日と似た質問が並んでいる。
昨夜、眠ったか。
何時から何時まで眠ったか。
夢を見たか。
夢の中で誰かと接触したか。
夢の中で誰かが死んだか。
自分または他人に、夢と関係する身体的異常はあるか。
僕はペンを持ったまま、書けずにいた。
澪も同じだった。
白鳥が僕たちの席の近くで足を止めた。
「月代くん」
「何」
「ちゃんと書いて」
「書くよ」
「嘘は書かない方がいいと思う」
白鳥の声は冷静だった。
だが、その冷静さの奥に、恐怖があった。
「みんなのためだから」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中に小さな反発が生まれた。
みんなのため。
それは、誰か一人を差し出すときに使われる言葉に聞こえた。
僕は睡眠報告票に、短く書いた。
睡眠時間、二時間。
夢、覚えていない。
身体異常、なし。
嘘だった。
だが、正直に書くよりはましだった。
昼休み、教室の前に小さな箱が置かれた。
段ボールに白い紙が貼られている。
《夢に関する情報提供箱》
白鳥が設置したのではなかった。副担任が持ってきたものだった。市からの指示らしい。匿名で情報を入れられるという。
誰かが呟いた。
「密告箱じゃん」
その言葉は、教室の空気に妙に馴染んだ。
夢の密告箱。
名前がつくと、ものごとは急に本当になる。
放課後までに、箱には何枚もの紙が入っていた。
誰かが授業中に寝ていた。
誰かが夢を見たと言っていた。
誰かの手首に痣があった。
誰かが赤い月を怖がっていなかった。
誰かが、誰かと夜に会っていた。
最後の紙を見たとき、僕は背筋が冷えた。
副担任が箱の中身を確認していた。紙を一枚取り出し、表情を変える。それから、教室の中を見渡した。
視線が、僕と澪のところで止まった。
放課後、僕たちは職員室に呼ばれた。
廊下を歩く間、クラスメイトたちの視線が背中に刺さった。黒瀬だけが立ち上がりかけたが、白鳥に何か言われて座り直した。
職員室の前で、澪が小さく言った。
「何が入ってたんだと思う?」
「わからない」
本当は、わかっていた。
職員室には、副担任と朝霧医師がいた。
朝霧は僕たちを見ると、感情の読めない目で微笑んだ。
「月代悠真くん。篠宮澪さん」
彼は机の上に、一枚の紙を置いた。
そこには、乱れた字でこう書かれていた。
《月代悠真と篠宮澪は、夢を共有している》
僕の喉が鳴った。
澪の手が、わずかに震えた。
朝霧医師は、僕たちの反応を静かに見ていた。
「この情報に、心当たりはありますか」
窓の外で、まだ昼の空が薄く赤く光っていた。
僕は答えなかった。
澪も答えなかった。
沈黙は、否定にはならなかった。
朝霧医師は紙を裏返した。
「隠すことが、危険を大きくする場合があります」
その声は穏やかだった。
だからこそ、逃げ道がないように聞こえた。
「君たちが何を見たのか、聞かせてください」
僕は澪の方を見た。
澪も僕を見た。
手首には、昨夜の紐の跡がまだ残っている。
それは、僕たちが夢を変えた証拠だった。
同時に、誰かに見つかれば、僕たちを縛る証拠にもなる。
僕はようやく理解した。
僕たちはもう、殺人犯として怖がられているわけではない。
もっと厄介なものとして見つかりかけている。
夢を変えられる人間。
赤い月に逆らえる人間。
そしてこの町は、逆らえる人間を放っておくほど、冷静ではなかった。




