第3話 夢密告
密告箱は、学校の正門をくぐってすぐのところに置かれた。茶色い木の箱に、銀色の投函口。見慣れない金具は朝の光を冷たく跳ね返し、誰が作ったのかもわからない指示文がテープで貼られていた。
夢を見た者を見つけたら、匿名で報告せよ。
報告は正義。あなたと町を守る。
正義、と白い字で書かれたその言葉は、頼りなく笑っているようにも見えた。投函口の下にはまだ何もたまっていない。けれど、通り過ぎる生徒たちの目線は石みたいに固く、その周りだけ空気が細く絞られていた。
教室に入ると、黒板にはすでに大きな文字があった。真面目なシュウトが、白チョークで“夢の報告は正義”と書き、端に小さな星印まで描き込んでいた。いつもは几帳面な字の形が、今日は少しだけ震えている。シュウトの目の下の隈は濃く、色の重なった紙のように折り目ができていた。
「先生が言ったから。黒板にも書いとくべきだって」
そう言いながら、シュウトは黒板消しを握り直す。手の甲は赤く、消しカスが爪の間に詰まっていた。
「夢の話、してるやつ、いたらさ。やっぱ報告するべきだよな」
彼は笑おうとしたが、顔の半分でしか笑えなかった。ユウは曖昧に頷き、視線を窓の外へ逃がす。校庭の端で、用務員の小林さんが密告箱の足元をほうきで掃いていた。落ち葉はまだ少ししかないのに、掃く手つきはやけに丁寧だった。
その日の朝礼で、校長先生は話の前に水を飲んだ。紙コップを握る手の関節が白く浮き、ひと口飲んでから、先生は静かに言った。
「わたしたちは町を守ります。夢に落ちる者がいれば、助けなければならない。報告は、その第一歩です」
第一歩、という言葉が体育館の天井で小さくこだました。列の中で、誰かが小さくうなずいた。誰かは顔を上げず、誰かは目を閉じるふりをした。ふりは、ここでは新しい礼儀になりつつあった。
昼休み、廊下に小さな人だかりができた。一年の教室から出てきた女子が、手で口を覆いながら泣いている。音楽室で居眠りしていた子が、起きないのだという。担任と養護教諭が駆けつけ、ストレッチャーを呼ぶ声が細く飛ぶ。ユウが音楽室をのぞくと、窓のカーテンは半分閉まっていて、薄暗い箱みたいな空気の中、ピアノの黒が鈍く光っていた。奥の席の椅子に、乾いた涙の跡が残っていた。傷みかけたニスの上で光る、細い線。人が座っていた形だけが、もうそこにはなかった。
音楽室の前に密告箱はない。けれど、誰かの目の中に、箱の形だけが映っているのがわかった。報告という行為が、まだ何もしていない指先に重たく乗っている。生徒指導の先生が、静かに手を挙げた。
「見たこと、聞いたことは、今日の放課後に役場の検疫所へ。匿名で構いません」
匿名、という言葉は便利で、怖い。便利で、やさしいふりをする。ふりは、町を支える柱の一本になっていた。
授業が終わる前、ユウのスマホが机の中で震えた。家からのメッセージだ。母が、洗面器に冷水を張って廊下に座っている写真が添えられている。指先を水にひたし、手を合わせたまま、じっとしている。文は短い。
指先を冷たくしておけば、落ちない気がするのよ。
あなたも今夜、そうしてみて。
写真の中の水は透明で、洗面器の白い丸い縁が冷たく光っていた。指の先だけが少し赤い。赤くなるほど冷たくしても、落ちる人は落ちてしまうのだと、頭のどこかが静かに言った。けれど、ユウは“わかった”と返した。母の祈りに形を与えるしか、今はできない。
放課後、正門の密告箱の投函口に、小さな紙片がひとつ挟まっていた。風で少しめくれ、字が読み取れる。
音楽室で寝てたの、誰それです。
誰それのところは黒く塗りつぶされていた。塗りつぶすなら、書かなければいいのにと一瞬思う。けれど、書くという行為が先にある。箱の前で立ち止まる生徒たちは、足元だけ動かず、時間からこぼれ落ちたみたいだった。
帰り道、海は薄い雲の下で黙っていた。赤い月はまだ遠く、昼の光の名残が水面でほどけている。港の倉庫の扉には白い紙が貼られ、葬式の日取りが増えていた名前の下に記されていた。昨日より少し、字が多い。紙の角が風でめくれ、釘の頭に日差しが当たっている。
家に着くと、縁側に洗面器が置かれていた。母は正座をして、指を水にひたし続けている。水は新しく、底に光が揺れていた。母はユウの顔を見上げて、柔らかく笑う。
「指先が冷たいと、考えがすべっていかない気がするの。あたたかいほうが、ふっと遠くに行ってしまうから」
「うん」
「手、貸して」
母はユウの手首をとらえ、洗面器の縁へそっと引いた。水に触れると、指の裏がきゅっと縮む。冷たさが細く針のように皮膚を刺し、かすかな痛みがここへ引き戻す。母は満足そうにうなずいた。
「今夜は、わたしが見張る。寝落ちそうになったら、この針で指を軽く。痛いほどじゃなくていいの」
卓上の白い小箱には、細い針が布の上に並んでいた。どれも真新しく、光に細く反射する。ユウは視線を逸らし、縁側の先の庭を見た。風鈴が鳴らないまま、風だけ通り過ぎていく。
その夜、ミサキから電話が鳴ったのは、港のサイレンが短く鳴ってすぐだった。着信の表示を見た瞬間、胸の中で薄い紙が裂けたみたいに音がした。出ると、向こうで小さな音が重なる。布の擦れる音、窓に当たる風の音、それから、震えを抑えた声。
「ユウ。ごめん。たぶん、少しだけ、見た。見たかもしれない」
言葉の途中で、彼女の声は何度も細く折れた。ユウは言い返す前に、玄関に駆けた。靴箱の前で手が空振りし、靴を履くことを忘れたまま、扉を開けた。夜の空気は薄く、道のアスファルトは昼の名残のぬくさをわずかに抱いていた。裸足の足裏に小石が刺さる。刺さった感触が、現実の重さを確かめさせる。
ミサキの家までの道のりは、数えたことがないほど歩いた道だ。曲がり角の植木、犬のいない犬小屋、閉店したままの店の看板。どれも同じ場所にあるのに、今夜は遠かった。遠さの上に薄い赤が重なり、角を曲がるたびに、黒い空の中にかすかな輪郭が生まれる。あれはもう月の前触れだ。前触れにしては、静かすぎる。
玄関の扉は内側から半分開いていた。ユウが呼びかける前に、ミサキが出てきた。肩に毛布をかけ、髪は乱れて、目は赤くなっている。けれど、はっきりとこちらを見た。
「ごめん。大丈夫。大丈夫だと思うんだけど、怖くなって」
玄関の段差に腰を下ろすと、彼女の手が震えた。ユウは言葉を選ぶ時間もなく、抱きしめた。軽く、では足りない。強く、では壊れる。真ん中を探すように、肩のあたりでそっと腕を回す。ミサキの体温が、腕の内側に落ち着いた。鼓動が早い。数えるまでもなく、早いのがわかる。ユウは自分の胸に彼女の額を寄せ、背中を小さくさする。
「大丈夫。ここにいる。落ちない」
「落ちない、って、言って」
「落ちない」
言葉を重ねるたび、緊張の薄い膜が少しずつ剥がれていく。家の中から、ミサキの母の足音がした。扉の陰から顔を出し、息をつめるように言う。
「ユウくん、ありがとう。二人でいてちょうだい。見張ってるから」
母は台所へ戻っていった。台所の明かりが廊下に細く伸び、その細さが心強かった。ユウは玄関の床に腰をおろし、ミサキも隣に座った。毛布をふたりで肩にかける。重さは軽く、匂いは洗い立ての綿だった。
「どんなふうに、見たの」
「目を閉じたら、すぐ、じゃなくて。薄い幕みたいなのがかかって、その向こうに……音、みたいな。名前じゃないのに、形だけ名前みたいなやつ。わたしのじゃないのに、なぜかわたしが呼ばれた気がして」
「それで、起きた?」
「うん。起きた。たぶん。起きたと思う。でも、怖かった。怖いのに、やさしかった。やさしいのに、冷たいの。変だよね」
「変じゃない。ここ、いま、冷たい」
ユウは自分の手の甲を洗面器の水に触れさせたときの冷たさを思い出し、彼女の指先をそっと包んだ。ミサキの指はまだ少し冷えている。冷たさは眠気を遠ざける。遠ざけるために抱き寄せる。それが、町が見つけた仮の説明だった。けれど、抱き寄せること自体が、やさしさで、やさしさは目を閉じさせる。境目は紙より薄く、でも切れば痛い。
「ユウ、ごめんね。来させちゃって」
「来たかった。走ってたら、来た」
ミサキは笑い、すぐ真顔に戻った。毛布の端を指先でもてあそび、その布目をじっと見つめる。
「シュウト、さ。今日、黒板に書いてたじゃない。“正義”って。あれ見て、わたし、ほっとした自分がいた。誰かが正しさを決めてくれると、そこに寄りかかれるから。寄りかかりたいから。けど、それで救われる誰かの分だけ、誰かが押しつぶされるのかもしれないって考えて、もっと怖くなった」
「シュウトは、怖いから書いたんだと思う」
「うん。あの目の下の影、怖さの形だった」
玄関の外は、静かすぎた。遠くの港のサイレンは鳴らず、犬の声もなかった。風だけが家々の隙間を通り、見えないものを運んでいく。ユウは毛布の上からミサキの肩を軽く押した。押す、というより支える。支えるつもりが、押してしまう瞬間がある。それが怖かった。
「もし、また眠くなったら、指先だけ、水に入れよう」
「うちにも、洗面器ある」
「あるよね。どこの家にも、ある」
ミサキは立ち上がり、台所から小さな洗面器を持ってきた。水を注ぐ音が、夜の薄さに細く馴染む。玄関の段差に置いた洗面器の水は冷たく、指先を入れると、爪の根元がきゅっと痛んだ。痛みは、まだここにいる印だった。
「ねえ、ユウ」
「なに」
「もしわたしが、ほんとうに夢を見てしまったら、そのことを誰かに言ったほうがいいと思う?」
密告箱の銀の口が頭の中に浮かんだ。そこに紙を差し入れる指の形。箱の中で積み重なる白い紙の重み。見えないのに、確かに増える重さ。ユウはすぐには答えられなかった。答えは、どの方向にも刺が出ていた。
「……言葉にした瞬間、誰かの家の玄関が鳴る。検疫官が来て、記録を取って、針や水や青い光で、わたしたちを守ろうとしてくれる。守ろうとする人の顔って、すごくまっすぐで、かっこいい。だけど、呼ばれた人って、その顔の前で、どんなふうに立ってたらいいのかな、って」
「立てばいい。立ってればいい。立ってるだけでえらい」
ミサキは自分に言い聞かせるみたいに言い、目を伏せた。ユウは彼女の肩に額を近づける。体温は落ち着き、鼓動も少しゆっくりになっていた。水の中の指先は赤く、痛みは鈍い。鈍さは、ここでは救いだ。
ふいに、外で足音がした。ゆっくりと階段を上る音。扉の前で止まる。チャイムは鳴らない。代わりに、低いノックが三度だけ。ミサキとユウは顔を見合わせた。母が台所から出てきて、扉に近づく。覗き穴を見てから、そっと鍵を開けた。
立っていたのは、役場の腕章を巻いた検疫官だった。白いケースを両手で持ち、黒いファイルを脇に抱えている。顔は若く、疲れていて、それでもまっすぐだった。
「夜分にすみません。学校での定期巡回です。腕バンドの照合と、今夜の見張りの確認に」
巡回。たしかに、町は今、毎晩巡回でできている。ミサキの母はうなずき、玄関に招き入れた。検疫官は軽く頭を下げ、ケースを開ける。アルコールの匂いが広がり、青いランプがひとつ点いた。機械にバンドをかざすと、短い音が鳴る。緑ならよし、黄色なら注意、赤なら——その先を、だれも口にしない。
「今夜は大丈夫そうですね。何か変わったことは」
検疫官はやさしい声で問う。やさしい声は、今夜いちばん危険なものに思えた。ミサキは首を振り、母も同じようにした。ユウは毛布を握る手に力が入るのを感じ、いけないと思い直して緩めた。
「なにかあれば、すぐこちらに。役場の夜間窓口は開いています」
検疫官はファイルから小さなカードを出し、テーブルに置いた。カードには番号と名前、夜間窓口の地図。人の名前は、すぐに頼りになる。頼りになるから、重くなる。検疫官はもう一度頭を下げ、靴音を丁寧に残して階段を降りて行った。扉が閉まる。家の中の空気が、少しだけ柔らかくなる。柔らかさは綿の重さに似て、ふいに膝にのしかかる。
夜更け。ミサキは眠らず、ユウも眠らず、洗面器の水は何度か取り換えられた。指先は赤く、しかし感覚ははっきりしている。やがて東のほうがうっすら明るくなり、港の灯が一つ、また一つ消えていく。赤い月は薄い雲の裏に晩い名残りを残し、黒い穴は遠くに押しやられた。押しやる力は弱く、けれど確かに働いている。
「……ねえ、ユウ」
「うん」
「抱きしめると、楽になる。楽になるのに、変な罪悪感がある。だれかを眠らせてしまいそうで。でも、抱きしめないと、落ちてしまいそうで」
「抱きしめるのは、夢を殺すためだって、みんな言ってる。そんな言い方、ひどいけど、たぶん、みんなそれしか言い方を知らない」
「ユウは、どう思う?」
どう、と問われて、言葉はすぐに見つからなかった。ユウはミサキの手首にそっと触れ、自分の脈と彼女の脈の間に生まれる、微かなズレを感じた。ズレは小さく、そこに二人の距離が収まっている。
「思ってる。ずっと。これがやさしさか、加害か。どっちかに決めると、壊れる。決めないまま、いまはここにいる。それでいいって、今夜は思いたい」
「うん。今夜は、それでいい」
ミサキは頷き、目を閉じないまま、まぶたを静かに伏せた。伏せる、という行為だけをして、閉じない。細かい違いが、今は命の幅だった。外で小鳥が一声鳴き、朝が近づく。台所で母が流しに水を落とす音がして、洗面器に新しい水が注がれた。
明け方、ユウは空が白むのを見届けてから家に戻った。裸足の足裏は細かな傷でひりひりし、玄関の床の冷たさが直に伝わった。母はまだ縁側に座り、洗面器に指をひたしていた。夜よりも少し優しい顔をしている。ユウは彼女の隣に座り、同じように指の先を水に入れた。水はやはり冷たくて、冷たいことが嬉しかった。
「大丈夫?」
「うん。今夜は、大丈夫」
母はほっとしたように笑い、けれどすぐ真顔に戻った。
「今日も検疫。今日も否認。今日も、見るふりをして、見ないふりをする。上手にやらなきゃね」
「上手に」
上手に、という言葉は、町の新しいおまじないになりつつあった。上手に、見張る。上手に、隠す。上手に、助ける。上手に、抱く。上手に、加害しないふりをする。そのぜんぶの境目が紙一枚で、紙は濡れるとすぐ破れる。
学校に行くと、黒板の“正義”は少し小さくなっていた。誰かが上から書き足し、誰かが消し、また誰かが書いたのだろう。文字の周りには白い粉が積もり、チョークの先は短くなっている。シュウトは机に突っ伏していた。声をかけると、顔を上げる。目の下の影はさらに濃く、笑い方が、もう半分しかなかった。
「昨日の音楽室、報告した。正しいと思ったから」
「うん」
「でも、家に帰ったら、妹が“夢ってなに?”って聞いてきてさ。答えられなくて」
シュウトは黙った。黙るしかない時間が、教室の空気の上に薄く広がる。休み時間のチャイムが鳴り、廊下の密告箱の前を一年生が通り過ぎる。投函口に紙は見えない。見えないことが、救いになる日はある。今日は、その日だと信じることにした。
昼休み、役場の車が校庭に入ってきた。拡声器で、報告窓口の時間が告げられる。午後三時から七時。匿名可。正義。言葉は同じ順番で並び、同じ抑揚で発音された。ユウは窓の外を見た。遠くの海は、昼なのにわずかに赤い筋を抱いていた。雲は薄く、月の居場所は見えない。見えないだけで、ある。
放課後、ユウは屋上に行った。フェンスに寄りかかり、町全体を見下ろす。真っ白な小さな紙片が風に舞い、どこかからか飛んできて、フェンスに当たって落ちた。拾い上げると、空白のままだった。何も書かれていない密告の紙。風に揺れて、また指からこぼれ落ちる。落ちた紙は、足元で静かに止まった。
夕方、ミサキからメッセージが来た。
今夜も、一緒に起きていて。
ユウは“うん”と返し、スマホを胸ポケットにしまった。フェンスの影が長く伸び、校庭の白線の上で切れている。切れた影は、またすぐに繋がった。繋がるたび、町はかろうじて形を保つ。形があるかぎり、抱きしめる場所は残る。抱きしめることの名を、わたしたちはまだ決められないままでいる。
夜はまた来る。赤い月はまた昇る。黒い穴は何も言わず、こちらを見ている。ユウはそれでも、玄関の洗面器の水を新しくし、針の箱をテーブルの端に整え、玄関の扉を開けて、裸足で一歩、外に出た。空気は冷たく、遠くで港のサイレンが短く鳴った。鳴って、止む。その停止の短さの中で、ユウはひとつだけ、はっきりと知っていることを胸の真ん中に置いた。
抱きしめる。
それが、今夜のわたしたちのやり方だ。
やさしさと加害の境目に立ったまま、離れずに。




