第9話 白紙の次の頁
小鳥の囀りで目を覚ましたエレノアは、薄手のショールを羽織り、自ら窓を開け放った。
王都から馬車で数時間ほど離れた、生家である伯爵家領にほど近い穏やかな地方都市。その一角に借りた小さな一軒家が、今の彼女の住処だった。
侯爵邸の豪奢な天蓋付きベッドや、数十人の使用人が控える広大な空間とは比べ物にならないほどこぢんまりとしている。しかし、窓辺に飾る花の種類も、朝食に添えるジャムの味も、すべて彼女自身の手で選ぶことができるこの場所を、エレノアは深く愛していた。
キッチンへ向かい、自ら湯を沸かす。戸棚を開け、今日は少し香りの強いアールグレイの茶葉を選んだ。
結婚していた七年間、彼女は常に「完璧な侯爵夫人」であろうと努めてきた。朝起きた瞬間から屋敷全体の予定を把握し、夫の公務に遅滞がないよう先回りして段取りを組み、誰の目に触れても淀みのないよう分刻みで役割をこなしていた。
けれど今は違う。今日という一日をどう過ごすのか、誰の許可を取る必要もない。すべてを自分で決定できるという静かな事実が、淹れたての紅茶の温もりと共に胸の奥を満たしていく。
朝食を済ませたエレノアは、書斎の机に向かい、広げられた図面と予算表に目を通した。
彼女の長年の夢であった「読み書き学校」の準備は、着々と進んでいた。近くの空き家を買い取り、少しずつ改修を進めている。手配も資金も、すべてエレノア自身の個人資産と采配のみで行っていた。アレクシスの資金力や、侯爵家という巨大な権力には一切頼っていない。歩みは決して早くはないが、基礎から自分の足で踏み固めていく過程のすべてが、彼女にとってはかけがえのない喜びだった。
その日の午後、エレノアは王城内の行政機関で開かれた、地方教育支援に関する公的な会合に出席していた。
学校設立のための正式な認可手続きを進める彼女は、一人の事業主としてその席に座っていた。そして、会議室の向かい側の席には、有力領主の代表格として招かれていたアレクシスの姿があった。
離縁の日以来、数ヶ月ぶりの再会だった。
顔を見た瞬間、エレノアの心に波立ちはなかった。憎しみも、怒りも、すでにあの手帳の最後の頁と共に閉じられている。ただ、かつて苦楽を共にした相手として、静かに見つめることができた。
会合の休憩時間、回廊で休んでいたエレノアの元へ、認可を担当する中年の役人が小走りで近づいてきた。そして、ちょうど通りかかったアレクシスにも声をかける。
「これは、ヴァレンティン侯爵閣下。そしてエレノア様。実は学校の認可の件なのですが、侯爵閣下から一筆、推薦状を頂戴できれば、審査も資金援助の枠も即座に満額で通すことができます。いかがでしょう、ここはお力添えを……」
役人は気を利かせたつもりなのだろう。侯爵の力を使えば、面倒な手続きなどいくらでも省略できる。かつてのアレクシスであれば、「彼女の事業なのだから当然私が便宜を図ろう」と、当然のようにその役割を引き受けていたはずだ。
だが、アレクシスは立ち止まり、役人に向かって静かに、しかし断固とした声で告げた。
「その必要はない」
「は……? しかし」
「私は、この学校設立に関するすべての推薦、審査、および資金判断の権限から外れる手続きをすでに申請してある。彼女の事業は、彼女自身の確かな資産と手腕によるものだ。元夫である私の権限が介入すれば、かえって審査の公平性を歪めることになる。通常通りの厳正な手続きで進めてくれ」
冷や汗をかきながら退散していく役人の背中を見送りながら、エレノアは微かに目を見張った。
彼がわざと、公の場でそう宣言した意味が痛いほどに分かったからだ。
もしアレクシスが審査や資金援助に関わっていれば、エレノアは事業の成功のために、彼からの接触や意見を「断りづらくなる」。侯爵の機嫌を損ねれば学校が潰れるかもしれないという力関係が生まれてしまう。
彼は自ら権限を手放す行動によって、「自分が関わることで君が断りづらくなるなら、私はこの件から完全に外れる」という意思を示したのだ。エレノアが彼を拒絶したとしても、彼女の事業には一切の不利益が生じない。彼は言葉だけでなく、彼女が安全に『断れる』空気を、先に行動で作ってみせたのだった。
会合がすべて終わり、秋の風が吹き抜ける王城の回廊で、二人は向き合った。
侯爵としての威圧感はそこにはなく、アレクシスはどこか緊張した面持ちでエレノアの目を見ていた。
「……エレノア。もし差し支えなければ、君の学校の資料を、読ませてもらってもよいだろうか」
それは、決定事項の通達ではなく、明確に許可を求める問いかけだった。
「私が何かを口出しするためではない。ただ、君がどんな素晴らしい場所を作ろうとしているのか、知りたいんだ。もちろん、君が不快ならすぐに諦める」
「……構いません。後日、事業計画の写しをお送りいたします」
「ありがとう」
アレクシスは心底ホッとしたように相好を崩した。
「それから……もしも、そちらから協力が必要になった時だけ、私に声をかけてほしい。私から勝手な支援は絶対にしないと誓う。君の城は、君だけのものだ」
エレノアは静かに頷いた。かつてすべてを「妻なら当然」と彼自身の裁量の中に吸収してしまっていた男は、今はもういない。彼は痛みを伴う喪失を経て、他者との間に引くべき境界線を確かに学んでいた。
「では、私はこれで失礼いたします。帰りの馬車の時間がありますので」
エレノアが小さく一礼して歩き出そうとした時、アレクシスが一歩だけ前に出た。
「待ってくれ。最後に、一つだけ」
振り返った彼女に対し、彼は手袋を外した両手を体の横で強く握りしめ、まるで初めて意中の女性に声をかける少年のように、真摯な瞳で尋ねた。
「元夫としてではなく。……一人の男として、いつか君を、食事に誘ってもよいだろうか」
エレノアは足を止めた。
今、自分は完全に安全な場所にいる。ここで「いいえ」と突き返しても、彼が侯爵の権力で学校を潰すことはない。機嫌を損ねて生活費を絶たれることもない。
本当の意味で「選べる」自由が、彼女の手の中にある。
絶対に断れると分かっているからこそ、エレノアの心に、小さな風が吹き込んだ。不思議なことに、彼女自身の中に、彼の誘いを完全に拒絶したいと思う気持ちはなかったのだ。
彼女は少しだけ考え、やがて、自分の意思ではっきりと条件を出した。
「……昼食だけなら。日取りとお店は、私が選びます」
アレクシスの目が大きく見開かれ、次いで、今にも泣き出しそうなほどに優しく、穏やかな笑みがその顔に広がった。
「ああ。君の指定する場所へ、必ず行く」
夕暮れ時。自邸へ戻ったエレノアは、自室の机の引き出しを静かに開けた。
そこには、あの日の夜、「1000」の数字を書き込んで終わった、小さな革表紙の手帳が眠っている。
そっと手に取り、最後のページを開く。
そこから先は、真っ白だった。何の線も引かれていない、白紙の頁。
エレノアはインク瓶に手を伸ばすことなく、その白紙をしばらく見つめ、やがてパタンと音を立てて手帳を閉じた。
もう、この手帳に新しい線を引く必要はない。分かってもらえないと諦め、我慢して沈黙を溜め込む日々は終わったのだ。これからは、違和感があればその都度言葉にし、相手の返答を聞き、自分自身の意思で歩む道を選んでいける。
彼女は引き出しの奥深くへ手帳をしまい、鍵をかけた。
窓の外では、新しい町を包み込むように穏やかな星が瞬き始めている。
明日は朝から、彼と行くための店を探しに出かけよう。
誰のためでもない、私自身が選んだ店へ。
エレノアの唇に浮かんだ微笑みは、これから始まる真っ白な未来のように、静かで、どこまでも自由だった。




