第8話 千回目です
エレノアが『現実的な退路』をすでに築き上げていると知ってから、アレクシスの心は黒い焦燥に塗り潰されていた。
このままでは、彼女は必ず去る。
いくら自分が態度を改めようと、彼女が外の世界に自分の夢を見出しているのなら、引き留めることはできない。ならばどうすればいい?
アレクシスの頭脳が導き出した結論は、一つしかなかった。
彼女が遠くの町へ行こうとしているのは、そこで彼女自身の夢である『読み書き学校』を作りたいからだ。ならば、その夢をこの侯爵領の中で叶えられるように手配してやればいい。侯爵家の財力とコネクションを使えば、彼女が一人で細々と仮押さえしている計画よりも、ずっと安全で立派なものを確実に用意できる。
そうすれば、彼女はわざわざ見知らぬ土地へ出ていく理由を失い、この屋敷に残ることを選んでくれるはずだ。
それは、アレクシスなりの不器用で切実な愛情の形だった。妻の夢を叶えたい。彼女を失いたくない。その一心で、彼は数日間ほとんど眠らずに各方面へ手を回した。
彼女が契約を進めている地方の家や貸主には一切接触しなかった。妨害などしてはならないと分かっていた。アレクシスはただ自分の側だけで、彼女を迎え入れるための完璧な城を築き上げたのだ。
自領の郊外にある旧修道院の建物を一定期間仮確保し、侯爵家の公金ではなく彼自身の私費から捻出できる予算案を作成した。伝手を頼って優秀な教師候補三名に面談の打診を行い、必要な教材の調達先と見積もりを取り寄せ、開校に向けた視察日程の目安まで完璧に組み上げた。
すべてが整った日の午後。アレクシスは執務室にエレノアを呼んだ。
「これを見てほしい」
デスクの上に広げられた分厚い計画書。アレクシスは、疲労で少し落ちくぼんだ目に、縋るような光を宿して妻を見つめた。
「君が地方の町に家を仮押さえしていることは、弁護士からの書類で知った。君がそこで学校を作ろうとしていることも。……だが、わざわざ遠くへ行く必要はない」
エレノアは計画書に視線を落とし、微かに目を見張った。
「修道院の改修費も、運営の予算も、私の私費から出せるように手配した。教材の算段もついているし、教師の候補者にも打診してある。ここなら、君の身の安全も保障できる。君が一人で一から準備して苦労を背負い込む負担も減る」
どうか、受け取ってほしい。
ここに残ってほしい。
「君の望みは、すべてここで叶えられるように私が整えた。だから……もう、遠くへ行く必要はないんだ」
アレクシスは息を詰め、彼女の返答を待った。これで彼女は喜んでくれる。夢を諦めずに済んだと、微笑んでくれるはずだ。
しかし。
計画書から顔を上げたエレノアの瞳は、底冷えするほど静かだった。
「……私の夢は、用意された箱に収まることではありません」
感情の起伏のない、淡々とした声が執務室に響いた。
「立派な建物をあてがわれ、資金を出され、整えられた道の上を歩くことが望みではないのです。どこで、誰と、いつ始めるのか。失敗するかもしれないその過程を、自分の意思で選ぶところまで含めて、私の夢なのです」
アレクシスは言葉を失った。
「あなたはまた、私に『どうしたいか』を尋ねる前に、私の人生の結論を出してしまわれましたね」
その言葉が、鋭い氷の刃となってアレクシスの胸を貫いた。
――また私は、君に聞く前に君の予定を決めたのか。
アレクシスは愕然とし、よろめくように数歩後ずさった。
何という愚かな真似をしたのだ。彼女を失いたくないという焦りから、治りかけていた一番の悪癖を再発させてしまった。彼女の意思を確認することなく、またしても「君のため」「侯爵夫人のため」という大義名分を掲げて、彼女から選択肢を奪い取り、役割という鳥籠に押し込めようとしてしまったのだ。
「あ……違う、私はただ、君に……」
言い訳は喉の奥で詰まり、音にならなかった。
エレノアは静かにポケットから、あの革表紙の小さな手帳を取り出した。
細いペンで、新しい線を一本、引く。
「千回目です」
パタン、と手帳が閉じられた。
「……千?」
アレクシスの掠れた声に、エレノアははっきりと頷いた。
「はい。私があなたから去ると決めた数字。たった今、それが千回に到達しました」
千回。気が遠くなるような途方もない数字だった。
アレクシスは震える唇を開いた。
「何を……何を数えていたんだ。私が、君の働きに対して感謝を、礼を言わなかった回数か?」
「いいえ。あなたが感謝の言葉を口にしてくださった日にも、私は線を引いてきました」
エレノアは手帳のページをパラパラと捲り、ある箇所で手を止めた。
「最初の一本は、結婚して二年目の春でした。私が学校設立の案をお持ちした時、あなたは『今は侯爵夫人として覚えることがある。君なら優先順位が分かるはずだ』と仰って、私の計画書を棚上げになさいました」
「……っ」
「中盤あたりでは、そうですね。私がずっと楽しみにしていたと申し上げていた異国の絵画展の日。あなたは急な来客の対応を、私が展覧会に行く予定があるかを確認することもせず、当然のように私に任せました」
エレノアの声は責めているわけではなく、ただ事実を読み上げているだけだった。それが余計に、アレクシスの心を抉った。
「前にお伝えした『あと二回』の日は、お義母様が倒れられた日です。あなたは私の手配を褒め、『君ならその程度はやっていると思った』と仰いました。そして『あと一回』になったのは、あの晩餐会の日。あなたは『家のことは妻に任せておけば間違いない』と私を称賛してくださいました」
「褒めたのに……私が君を誇りに思っていた言葉すら、君を傷つけていたというのか」
「あなたは私を褒めてなどいません」
エレノアは手帳を閉じ、真っ直ぐにアレクシスを見据えた。
「あなたは『侯爵夫人という有能な機能』を褒めていたのです。私が何を望み、どんな選択をし、どれほど労力を割いたかという『私個人の意思』を、あなたは一度も見てはくださらなかった。すべてを『妻だから当然』『君ならやると思っていた』という役割の中に吸収し、私の輪郭を上書きし続けてこられた」
アレクシスは膝から崩れ落ちそうになるのを、必死にデスクに手をついて堪えた。
ようやく、すべての謎が解けた。
彼女が数えていたのは、単なる失礼や言い忘れではない。アレクシスが、彼女を一人の意思ある人間としてではなく、「妻という役割」として扱い、還元し、彼女の魂を削り取ってきた回数だったのだ。
「千回というのは、あなたへの復讐の点数ではありません」
エレノアは静かに目を伏せた。
「たまたま虫の居所が悪かっただけだ、いつか分かってくれるはずだ。そう言い訳をして、際限なく我慢し続けてしまう自分を逃がすための、私自身の撤退基準でした」
「エレノア……」
「私も、途中からあなたに言葉を尽くして話すことを諦めました。それが正しかったとは思いません」
彼女はほんのわずかに眉根を寄せ、一度だけ自己反省を口にした。だが、すぐに元の凪いだ瞳に戻った。
「けれど、千回は偶然ではありません。私たちは、合わないのです」
もう遅い。
アレクシスは絶望に打ちひしがれた。「すまない」「これから直す」「どうか行かないでくれ」と泣き喚いて彼女の足元に縋り付き、侯爵の権力で彼女を部屋に閉じ込めてしまいたいという醜い衝動が湧き上がった。
だが、彼はギリギリのところでそれを噛み殺した。
それをすれば、また彼女から選択を奪うことになる。1001回目の線を引かせることになる。
彼は血の滲むような思いで己の衝動を律し、一人の人間として、彼女の意思を最後に一度だけ尊重するために、絞り出すように尋ねた。
「……君は、行きたいのか」
エレノアは少しの躊躇いもなく、はっきりと頷いた。
「はい。私は、私自身の人生を歩みたいのです」
「……分かった」
アレクシスはデスクの引き出しから、すでに弁護士の手によって整えられていた財産整理と合意離縁の書類を取り出した。ペンを取り、震える手で、自らの署名欄にサインを書き込んだ。
これで、すべてが終わった。
数日後。エレノアは侯爵家を去った。
アレクシスは、自分が先回りして組んだ旧修道院の仮確保や教師への面談打診を、すべて自分自身の手で各所へ頭を下げて回り、解除・精算した。彼女には一切の後始末をさせなかった。それが、彼にできるせめてもの償いだった。
彼女が去った後の私室に、アレクシスは一人で足を踏み入れた。
室内は完璧に整頓されていた。机の上には、侯爵夫人として引き継ぎが必要な領地の帳簿、夜会の引き継ぎ資料、金庫の鍵などが、一点の乱れもなく揃えられて残されている。
だが、そこにあったはずの、彼女個人のスケッチブックや、異国の旅の本、教育の資料などは、すべて消え失せていた。
『侯爵夫人』という機能だけが完璧にそこに残され、『エレノア』という一人の女性だけが、きれいに抜け落ちている。
それは、アレクシスが七年間彼女に求めてきたものの、残酷なまでの完成形だった。
アレクシスはその整然とした机の前に崩れ落ち、もう二度と戻らない妻の名を呼びながら、誰もいない部屋で声を殺して泣き続けた。




