第7話 減らさないためではなく
文書庫で妻の過去の計画書を見つけ、現在の彼女に問いかけたあの日から。アレクシスの中の何かが、確実に変わっていた。
彼を支配していたのは、「あと一回を引かないための恐怖」だった。何を言えば間違えるのか、どう振る舞えば手帳を出されずに済むのか。そんな怯えから彼女を避けていた自分を、彼は恥じた。
残り一回を守ること自体を目的にしてはならない。
妻を怒らせないための正解を探すのではなく、エレノアという一人の人間の意思を、フィルターを通さずに見つめなければならないのだ。
数日後。執務室で領地の秋の収穫に関する書類に目を通していたアレクシスの元へ、エレノアが訪れた。
「旦那様。今度の収穫祭に合わせて、領内の孤児院へ寄付する越冬用の物資と、慰問の手配が整いました。こちらがその目録とスケジュールの案です」
差し出された書類には、完璧な段取りが記されていた。予算は無駄がなく、子供たちが本当に必要としている衣類や日持ちする食料が細やかに選定されている。
かつての彼なら、ここで「有能な妻だ。侯爵夫人として見事な働きだ」と褒め称え、その有能さを『家の機能』として吸収してしまっていただろう。あるいは、焦りに駆られていた数日前なら、中身も見ずに「ありがとう、君のおかげだ」と空虚な感謝を連呼していただろう。
アレクシスは書類をデスクに置き、顔を上げてエレノアの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「手配をご苦労だった、エレノア。完璧な目録だ」
そこまで言ってから、彼は意図して言葉を区切った。
「だが、一つ聞かせてほしい。……この寄付と慰問の細やかな選定は、君自身が選んで、やりたいと思ってしたことか? 侯爵夫人としての義務感から、無理をして一人で抱え込んで負担になってはいないか?」
エレノアは、かすかに目を見張った。
いつも凪いでいる彼女の表情に、ほんのわずかな驚きの色が浮かんでいた。
アレクシスは逃げずに彼女を見つめ返しながら、言葉を続けた。
「素晴らしい手配だが、君が望まないのなら他の者に任せることもできる。これは今後も、君の仕事として続けたいことなのか?」
沈黙が落ちた。
エレノアは少しだけ伏し目がちになり、やがて、ゆっくりと顔を上げた。その唇には、完璧な侯爵夫人の作り物ではない、ふわりとした自然な微笑みが浮かんでいた。
「……はい。これは、私が望んで選んだことです」
彼女の声は穏やかで、温度を持っていた。
「子供たちが冬を暖かく越せるように、直接お渡ししたいと私が希望いたしました。負担ではありませんし、今後も私が続けたいと思っております」
「そうか。分かった。ならば、ぜひ君にお願いしたい」
アレクシスが頷くと、エレノアは静かに一礼して執務室を辞した。
扉が閉まる。
彼女は手帳を出さなかった。宣告もなかった。数字は減らなかった。
それどころか、彼女は久しぶりに、彼に対して自分の意思を言葉にしてくれたのだ。
アレクシスは椅子に深く背中を預け、長く息を吐き出した。張り詰めていた胸の奥が、温かい安堵で満たされていく。
もう大丈夫かもしれない。彼女個人の意思を尊重し、一つ一つ確認していく対話を重ねれば、あのように自然な微笑みを返してくれる。時間はかかるかもしれないが、このまま歩み寄っていけば、彼女はあの恐ろしい数字を数えるのをやめてくれるはずだ。
彼は、確かな手応えを感じていた。
しかし、その安堵がひどく脆く、思い上がったものであることを、アレクシスはその日の午後に思い知らされることになった。
侯爵家の顧問弁護士から届けられた、分厚い書類の束。
それは、エレノアが宣言した「合意離縁」を法的に成立させるために準備が進められている、財産整理の仮書類だった。
夫婦双方の署名と確認が必要なものであり、アレクシスがこれに目を通すことは当然の義務だった。彼女の私室を荒らしたり、手紙を盗み見たりしたわけではない。侯爵家当主として、正式に共有された情報である。
その書類の後半、エレノアが実家から持参した『個人資産』の今後の運用先や、離縁後の書類の送付先候補の項目を見て、アレクシスの手はピタリと止まった。
そこに記されていたのは、王都でも彼女の実家でもない、アレクシスが全く知らない地方の町の名だった。
書類の記載と添付された事務資料を読み解くのに、時間はかからなかった。
その地方の町にある小さな住居。それはまだ本契約ではなく、一定の期限までは違約金なしで解約可能な「仮押さえ」の状態だった。侯爵家を離れる具体的な「出発日」も、まだ未定のまま空欄になっている。
手配にかかる費用は侯爵家の財産には一切触れず、すべて彼女自身の個人資産から支払われていた。
さらに、その住居の近くにある古い建物を改装し、「学校」を設立するための行政への問い合わせ記録、視察候補先、建築業者による改修の見積もり段階の資料までもが、整理されて添付されていた。
アレクシスは書類を持つ手を微かに震わせた。
要するに、こういうことだ。
彼女は、まだ今すぐ出ていくと完全に決定したわけではない。出発日は未定であり、契約も仮のものに留めている。
だが、いつでも、必要になればいつでも。
彼女は侯爵家に頼ることなく、自分の足でこの屋敷を出ていき、自分の夢を形にするための『現実的な退路』を、すでに完璧に構築しているのだ。
「……っ」
書類の束が、バサリとデスクに滑り落ちた。
午前中に感じていた安堵など、もはや欠片も残っていなかった。
アレクシスは両手で顔を覆い、喉の奥から呻き声を漏らした。
自分は何を思い上がっていたのか。「自分の行いを改善し、正しく振る舞い続ければ、彼女は残ってくれる」などと、なぜ信じて疑わなかったのか。
自分が彼女の意思を尊重し、良い夫になれたとしても。
彼女が『この侯爵家に残る』という保証は、どこにもない。
正しくできたことと、彼女が残ることはイコールではないのだ。彼女にはすでに十分な資産があり、計画があり、自分の意思で新しい人生を始めるだけの力がある。アレクシスがいくら態度を改めようと、「やはり私は、あの静かな町で自分の学校を作ります」と彼女が選べば、それまでなのだ。
数字が減らなかったことなど、何の慰めにもならなかった。
書類に整然と記された見知らぬ地名、具体的な金額の見積もり。それらは、彼女の行き先が明確な「形」と「輪郭」を持って存在していることを、無機質に証明していた。
このままでは、彼女は去ってしまう。
いくら会話を重ねても、ある日突然、彼女はその仮押さえされた家を本契約にし、自分の人生を歩み始めてしまうかもしれない。
妻を失うことへの現実的で生々しい恐怖が、真っ黒な泥のようにアレクシスの心を侵食していく。どうすればいい。どうすれば、その退路を塞ぎ、彼女に「ここに残る」という選択をさせることができるのか。
恐怖に駆られた侯爵の頭脳は、再び彼自身の根本的な欠陥へと、致命的なまでの急旋回を始めようとしていた。




