第6話 妻になる前の彼女
ひんやりとした冷気が漂う侯爵家文書庫の中で、アレクシスは一人、山積みになった古い革張りの箱と格闘していた。
妻であるエレノアのことを、自分は何一つ知らなかった。その絶望的な事実に打ちのめされた後、彼が向かったのは彼女の実家である伯爵家でもなく、彼女に仕える侍女の元でもなかった。
人づてに「妻の本当の気持ち」を聞き出したところで、何の意味もない。それは結局のところ、他人の口を借りた答え合わせに過ぎないからだ。彼女自身の言葉を探さなければならない。彼女が自分に向けて発し、そして自分が取りこぼしてきた言葉の痕跡が、この屋敷のどこかに必ず眠っているはずだった。
薄暗いランプの灯りを頼りに、領地経営の帳簿や過去の行事記録が収められた棚の奥深くを探る。やがて、一番下の段の隅に置かれた、古びた木箱を見つけ出した。
蓋を開けると、カビと古い紙の匂いがふわりと舞い上がった。
そこに収められていたのは、公的な記録ではなく、ヴァレンティン家と伯爵家との間で交わされた私的な書簡の束や、結婚当初の雑多な書類だった。
アレクシスは箱の中から、丁寧にリボンで束ねられた手紙の山を取り出した。婚約期間中にエレノアから送られてきたものだ。
手紙を広げ、その几帳面で美しい筆致を目で追う。
『王都の図書館で、南方の気候について記された本を拝読いたしました。いつかそのような、陽光の溢れる異国の風景をこの目で見てみたいものです』
『過日、小さな美術館へ足を運びました。名もなき画家の描いた街角の風景画に、ひどく心を惹かれました。私も少しばかり筆を執ってみたくなりました』
そこには、侯爵夫人としての義務や社交の辞令ではない、好奇心に満ちた一人の女性の等身大の言葉が綴られていた。
なぜ、自分はこれらの言葉を全く覚えていなかったのだろうか。当時はただ「教養のある令嬢の無難な手紙」として斜め読みし、事務的な返事を書き送っていただけだった気がする。
さらに箱の底を探ると、結婚してから一年目、あるいは二年目頃の日付が記された、分厚い書類の束が出てきた。
それは手紙ではなく、侯爵家当主であるアレクシスへ宛てて提出された『伺い書き』の控えだった。
表紙には『領内平民児童に向けた、初等教育機関(読み書き学校)設立の試案』と書かれている。
ページをめくると、アレクシスは息を呑んだ。
それは単なる貴族の暇つぶしの慈善事業などではなかった。使われていない旧修道院の建物を改修する見積もり、必要な教師の数と確保の当て、そして何より、侯爵家の予算に頼らず、エレノア自身が持参した個人資産を切り崩して運営基盤を作るという、極めて現実的で具体的な計画書だった。
各ページにびっしりと書き込まれた文字からは、彼女の強い熱意と、長年温めてきた個人的な夢の輪郭がはっきりと立ち上っていた。
その書類の日付を見た瞬間、アレクシスの脳裏に、分厚い埃を被っていた古い記憶が鮮明にフラッシュバックした。
結婚して二年目の春。彼女は確かにこの書類を胸に抱き、少し上気した、期待に満ちた瞳で執務室の扉を叩いたのだ。
『アレクシス様。少しお時間をいただけますでしょうか。以前から考えておりました、領内の子供たちのための小さな学校の件なのですが――』
その時の自分は、大量の決済書類に追われ、ひどく苛立っていた。
彼女が差し出した書類をまともに開きもせず、ただ机の端に押しやって、冷たく言い放ったのだ。
『今はそれどころではない。それに君には、侯爵夫人として新たに覚え、取り仕切るべき仕事が山のようにあるはずだ』
『ですが、これは私個人の資産で……』
『いずれ落ち着いたら考えよう。君は賢い女性だ。今は侯爵家のために何を優先すべきか、君なら分かるはずだ』
「あ……」
アレクシスの喉から、かすかな呻き声が漏れた。
彼女は何も言わずに突然心を閉ざしたわけではなかった。
彼女は何度も、何度も伝えていたのだ。婚約時代の手紙で、日々の何気ない会話で、そしてこの具体的な計画書をもって、彼女自身の希望を、夢を、明確な言葉にして差し出していた。
それを「今は」「侯爵夫人なのだから」「君なら分かる」という呪いのような言葉で一方的に切り捨て、彼女の個人性を「妻の役割」という箱の中に無理やり押し込めてきたのは、他でもない自分自身だった。
「私が……聞いていなかっただけだ」
手の中の書類が、かすかに震えていた。
『何も言われなかった』という、夫としての最後の言い訳が完全に崩れ去った。彼女は七年間、無言で自分を採点していたわけではない。彼女の言葉が自分に届かないと悟り、何度も諦めを重ねた果てに、あの日静かに『撤退』を決意したのだ。
文書庫を飛び出したアレクシスは、書類の束を握りしめたまま、エレノアの居室へと急いだ。
胸の中には激しい後悔と、取り返しのつかない過ちへの焦燥が渦巻いていた。今すぐ彼女にこの書類を見せ、「私が悪かった、君の夢をすべて叶えよう」と約束したかった。侯爵家の権力と財力を使えば、この学校など明日からでも形にすることができる。そうすれば、彼女は喜んで数字を数えるのをやめてくれるかもしれない。
だが、居室の扉に手をかけた瞬間、アレクシスはすんでのところでその言葉を飲み込んだ。
――待て。
過去の書類を見て、勝手に自分の側で解決策を用意する。それは、これまで彼女の意思を確認せずに「侯爵夫人のため」と先回りしてきた過ちと、何ら変わりがないのではないか。
大きく深呼吸をして、アレクシスはゆっくりと扉を開けた。
窓際で読書をしていたエレノアが、静かに顔を上げる。
「旦那様。いかがなさいましたか?」
アレクシスは彼女の向かいの席に座ると、握りしめていた学校設立案の書類を、そっとテーブルの上に置いた。
エレノアの視線が書類に落ち、ほんの一瞬だけ、その肩が微かに揺れた。
「文書庫の古い箱から見つけた」
アレクシスは、言い訳を一切せずに言葉を紡いだ。
「昔、君がこれを心から望んでいたことは分かった。そして、私が愚かにも君の言葉をまともに聞き入れず、聞き流してしまったことも。……すまなかった」
頭を下げる夫を見ても、エレノアの表情は静かなままだった。ポケットから手帳を取り出す気配もない。
アレクシスは顔を上げ、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「君がこれを提出したのは、もう何年も前のことだ。当時の君の夢を、私が壊してしまった」
そして、彼は最も恐れていた、しかし聞かなければならない問いを口にした。
「今も、君はこの学校を作ることを望んでいるのか? ……現在の君は、どうしたいと思っているんだ」
沈黙が降りた。
過去の「侯爵夫人」に対してではなく、現在の「エレノア」という個人に向けられた、初めての純粋な問いかけ。
エレノアはテーブルの上の書類を見つめたまま、ゆっくりと伏し目がちになり、やがて静かに答えた。
「……今はまだ、分かりません」
それは拒絶でも、諦めでもなく、長年封じ込めてきた感情をすぐには取り戻せないという、嘘のない本音のように聞こえた。
懐の手帳は動かない。手帳の数字が減ることはなかった。
それでも、アレクシスの胸の中には、不思議な安堵があった。正解を当てて危機を回避したからではない。結婚して七年目にして初めて、過去の幻想ではなく、傷を抱えた現在の彼女自身の声を聞くことができた。その微かな、しかし確かな一歩の重みだけが、二人の間の静寂に横たわっていた。




