第5話 妻について知っていること
馬車の中で突きつけられた「あと一回」という宣告。
その言葉は、見えない刃となってアレクシスの喉元に突きつけられたままだった。
晩餐会から数日が経っても、アレクシスの心には分厚い暗雲が垂れ込めていた。自分が良かれと思って口にした称賛が、彼女にとっての何らかの決定的なマイナスとして計上されたという事実。それは彼の中から「夫としての正解」という概念を完全に消し去ってしまった。
次に何を言えばいいのか。どう振る舞えば彼女を傷つけず、あの手帳を開かせずに済むのか。
底知れぬ恐怖に支配されたアレクシスは、無意識のうちにエレノアとの接触を避け始めていた。朝食の席では天気や領地の無難な報告だけを手短に済ませ、夜は執務室に深く籠もった。関わりを持たなければ、間違えることもない。これ以上数字が減るという最悪の事態だけは防げるのではないか。
だが、静まり返った執務室で一人ペンを握っていると、その考えがいかに浅薄な逃避であるかに気づかされる。
避けていれば、確かに最後の一回を踏み抜くことはないかもしれない。だがそれでは、彼女が「去る」と決めた未来を反転させることも絶対にできない。
そもそも、自分は彼女の何を知っているというのだ。
アレクシスは羽ペンを置き、両手で顔を覆った。彼女を怒らせないための正解を探す以前の問題として、自分は「エレノア・ヴァレンティン」という一個人の内側について、驚くほど無知なのではないか。
アレクシスは必死に記憶の糸をたぐり寄せた。
彼女の好きな花は何だ?
侯爵邸の庭園には季節ごとに見事な花が咲き誇り、彼女は常に美しくそれを管理している。だが、彼女自身がもっとも愛でている花の名を、アレクシスは答えられなかった。
休日の過ごし方は?
夜会への同伴や、領地婦人会の主催など、侯爵夫人としての公務は完璧に把握している。だが、公務が何もない空白の数時間を、彼女がどうやって過ごしているのかを知らない。
好物は? 結婚前にどんな夢を抱いていたのか? 何に喜び、何に悲しむのか?
どれ一つとして、明確な答えが浮かんでこなかった。
対照的に、エレノアはアレクシスの全てを把握している。朝食のパンの焼き加減の好み、領地経営が立て込んで苛立っている時の適切な距離の取り方、王城での派閥の交友関係。そればかりか、アレクシスが若い頃に落馬して痛めた肩の古傷が、冬の冷え込みで傷むことまで見抜き、誰に言われるでもなく温かい湿布を用意しておくような女性だ。
侯爵と侯爵夫人としての業務の裏側に、これほどまでに致命的で絶望的な「非対称性」が横たわっていたことに、アレクシスは初めて気がついた。
数日後、王城での定期会議を終えたアレクシスは、回廊で旧知の同僚貴族であるランバート伯爵と立ち話をしていた。
「先日のお前のところの晩餐会、エドワード卿が大層ご機嫌だったそうじゃないか」
ランバート伯爵は愉快そうに笑いながら肩をすくめた。
「あの偏屈な男を完璧にもてなすとは。相変わらず、お前のところのご夫人は完璧な侯爵夫人だな。我が家の妻にも少し爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだよ」
「……ああ。彼女は、有能な妻だ」
アレクシスは力なく微笑んだ。数日前なら、胸を張って同調していただろう。だが今の彼には、その言葉がただの虚構のように響いた。
不意に、アレクシスは自嘲気味な本音をこぼしていた。
「だがな、ランバート。私は……彼女自身のことを、何も知らないような気がするんだ」
「は?」
ランバート伯爵は呆気にとられたような顔をした後、腹を抱えて笑い出した。
「何を今更言っているんだ。当然だろう」
「当然、だと?」
「お前は昔からそうだ。結婚した当初から今まで、お前が自慢げに語るのは『有能な侯爵夫人がいかに家を立派に回しているか』という話ばかりじゃないか」
ランバートは呆れたように首を振った。
「美しいとか、こんな個人的な趣味があるとか、そんな夫人の人間味が感じられる話を、俺はお前から一度たりとも聞いたことがないぞ。お前は彼女を、まるで侯爵家の優秀な時計か何かのように語る。知らないのも無理はないさ」
アレクシスは雷に打たれたように立ち尽くした。
外の世界に向けてすら、自分は彼女を「機能」としてしか語ってこなかったのだ。友人の何気ない言葉が、鋭い鏡となってアレクシスの傲慢さと無自覚をまざまざと映し出していた。
屋敷に戻ったアレクシスは、自室で外套を脱ぐと、ふと足の向くままに廊下を歩き始めた。
妻の秘密を知りたい。だが、彼女の私室に忍び込んだり、あの革表紙の手帳を無断で盗み見たりするような真似は、夫としての矜持が許さなかった。彼女の意思を無視して情報を奪い取ったところで、それは彼女をさらに遠ざけるだけの最低の行為だ。
アレクシスは、夫婦が日常的に共有している空間へ足を向けた。
まず訪れたのは、広大な共有書庫だった。領地の歴史書や膨大な帳簿類が並ぶ重厚な棚。アレクシスはこれまで、自分の執務に必要な資料の背表紙しか見ていなかった。
だが、棚の端の目立たない一角に、少し毛色の違う数冊の本が並んでいることに初めて気がついた。
手に取ってみると、それは他国の風景や文化、遠く離れた異郷の風土を記した「旅の本」だった。ページには丁寧に栞が挟まれ、何度も読み返された形跡がある。
――彼女は、遠い国に興味があったのか。
知らなかった。いや、本はずっとそこにあったのだ。
次に足を運んだ応接室。高価な名画や年代物の壺が飾られた棚の片隅に、小さな木製の額縁が置かれている。
来客用の見栄えのする調度品に紛れて、今まで気にも留めていなかった。近づいてよく見てみると、それは素朴だがどこか温かみのある、街角や子供たちを描いた水彩のスケッチだった。筆致の癖からして、有名な画家の手によるものではない。おそらく、エレノア自身が描いたものだ。
――彼女は、絵を描くのが好きだったのか。
そして午後。領地の決済書類の確認のために、アレクシスは夫人用の小書斎を訪れた。
開かれたままの扉をノックし、机に向かうエレノアと短い業務の会話を交わす。彼女はいつも通り、淡々と的確な報告を行った。
書類を受け取る際、アレクシスの視界の端に、彼女の机の片隅に積まれた数冊の薄い冊子が映り込んだ。
侯爵家の家計簿でも、夜会の招待者リストでもない。それは明らかに、子供が文字を覚えるための「初等教育の教本」や、学び直しに関する資料だった。
――彼女は、教育に強い関心を持っていたのか。
執務室に戻ったアレクシスは、深く椅子に沈み込み、目を閉じた。
旅の本も、小さなスケッチも、教育の資料も、今日突然現れたものではない。結婚して七年間、ずっとアレクシスの視界の中に存在していたものだった。
彼女は自分という人間を何も隠してはいなかった。日々の生活の中で、ずっとそこに個人的な輪郭を置いていたのだ。
それなのに、自分は全く気づかなかった。気づこうともしていなかった。「侯爵夫人の業務には関係ないノイズ」として、彼女の個人性を風景の一部に溶け込ませ、ただ切り捨てていただけだったのだ。
アレクシスの胸に、激しい後悔と自己嫌悪が押し寄せた。
彼女が手帳にどんな秘密を隠しているのか。何を数えているのか。そんなものを外側から暴こうとしていた自分が、ひどく滑稽で愚かに思えた。
隠されていた秘密など、最初からどこにもなかったのだ。
ただ自分だけが、ずっと傍にいたはずの妻本人のことを、何一つ知ろうとしていなかった。
静寂の中、アレクシスは己の絶望的な無知という残酷な事実に、ただ一人打ちのめされていた。




