第4話 あと一回です
「今のあなたは私ではなく、正解を探している」
エレノアの静かな、だが確かな拒絶の言葉が、アレクシスの胸の奥に冷たい杭のように突き刺さったまま数日が過ぎていた。
執務室にいても、回廊ですれ違っても、アレクシスは彼女の姿を注意深く観察するようになっていた。彼女を「見ろ」と言われたのだ。侯爵夫人としての機能ではなく、エレノアという個人を見つめなければ、あの突きつけられた数字の謎は解けない。
だが、見ようとすればするほど、アレクシスは戸惑いを深めるばかりだった。
彼女はいついかなる時も、完璧な「妻」としての仮面を崩さない。使用人への的確な指示、領地の帳簿の確認、来客への応対。そのどれもが侯爵夫人としての模範解答であり、彼女個人の感情や輪郭がどこにあるのか、彼にはまるで見当がつかなかったのだ。
どうすれば彼女の本意に触れられるのか分からないまま、侯爵家の迎賓館で催す、今年最も重要な晩餐会の日がやってきた。
王家の連枝や、隣国との交易を取り仕切る重要貴族たちを招く、絶対に失敗の許されない夜会。準備には数ヶ月を要し、屋敷中の使用人が総出で当たっていた。アレクシスにとっても、領地の今後の利権を左右する重要な政治の場である。
しかし、不測の事態は晩餐会が始まるわずか一時間前に起きた。
「旦那様、大変でございます」
蒼白になった家令のグレアムが、着替えを終えたばかりのアレクシスの元へ駆け込んできた。
「主賓の隣席をご用意しておりましたダドリー伯爵が、急な発作でお倒れになり、欠席との知らせが。代理として、ご子息であるエドワード卿がすでに向かっておられます」
「なんだと?」
アレクシスは顔をしかめた。ただの代理ならいい。だが、エドワード卿は王都でも有名な気難しい人物であり、何より重度の食物アレルギーと独自の食事制限を持っていることで知られていた。
「厨房へ急ぎ知らせろ! 特定のエビやスパイス、それから……とにかく、エドワード卿の口に入らないようにメニューを急遽変更させなければならない。それに、席次だ。主賓の隣に若年の彼を座らせるわけにはいかないが、格を下げるような真似もできない。誰か別の……」
「旦那様。ご案じには及びません」
焦燥に駆られるアレクシスの背後から、落ち着き払った澄んだ声が響いた。
振り返ると、夜会用の豪奢な青いドレスに身を包んだエレノアが立っていた。彼女はすでに、数枚の指示書を手にしている。
「先ほど知らせを受け、厨房にはすでに別の食材での調理を指示いたしました。エドワード卿のテーブルには、見た目の華やかさを損なわずに制限に配慮した特別の皿をお持ちします。他の皆様のお食事進行に遅れが出ることもありません」
「だが、席次は」
「それも組み直してあります。侯爵家の親族を挟む形で緩衝材とし、エドワード卿には『若き才気への敬意』として、あえてアレクシス様と対角にあたる重要な位置をご用意しました。これならば、主賓の方への非礼にもならず、彼自身の矜持も保たれるはずです」
流れるような報告だった。
アレクシスが事態を把握し、対策を練ろうとした数分の間に、彼女は独自の判断で厨房を動かし、客の心理を読み切った席次を完成させていたのだ。
「……見事だ」
アレクシスは感嘆の息を漏らした。
「君の機転がなければ、今夜の晩餐会は最悪の空気から始まるところだった。助かったよ」
「侯爵夫人として、皆様に心おきなくお過ごしいただくための準備を整えたまでです」
エレノアは小さく微笑み、一礼して大広間へと向かっていった。
彼女の背中を見送りながら、アレクシスは頼もしさを噛み締めた。やはり彼女は最高の妻だ。これほど有能に家を支えてくれる存在を、手放してなるものか。
晩餐会は、彼女の采配のおかげで和やかに、かつ華やかに進んだ。
急な欠席と代理の到着というアクシデントがあったことなど、招待客の誰一人として気づかなかっただろう。料理の配膳のタイミングは完璧で、新しく組み直された席次は、以前からそうであったかのように自然な会話を生み出していた。
食後の歓談の時間。グラスを片手に談笑の輪に入っていたアレクシスの元へ、代理で出席したエドワード卿が機嫌良く歩み寄ってきた。
「ヴァレンティン侯爵。今宵は素晴らしいもてなしだった。急な代理の出席で、私の偏屈な食事制限がご迷惑をおかけするかと思ったのだが、まさかあのように配慮の行き届いた、目にも美しい皿を出していただけるとは」
「お口に合いましたなら幸いです」
「ええ。それに、私の席の配置も絶妙だった。ご夫人の采配ですかな? 実に素晴らしい観察力と心配りだ。あのような賢夫人がいらっしゃるとは、侯爵が羨ましい限りです」
手放しの絶賛だった。アレクシスの胸に、誇らしい感情が満ちた。
妻が褒められるのは、自分自身が褒められるよりも心地よかった。彼はグラスを軽く掲げ、心からの善意と、妻への絶対的な信頼を込めて、朗らかに答えた。
「お褒めいただき光栄です、エドワード卿。ええ、家の内側のことは、すべて妻に任せておけば間違いありません」
アレクシスは遠くで客と談笑しているエレノアの姿へ、誇らしげな視線を向けた。
「急な事態でも、彼女にとっては問題ではないのです。妻というものは、家を回す要ですからね。あのように場を整えることなど、彼女なら当然やってくれると信じておりました。侯爵夫人としての完璧な務めに、私も常に助けられているのですよ」
嘘偽りのない、最大限の称賛だった。
エドワード卿も満足そうに頷き、その場は穏やかな笑い声に包まれた。
完璧な夜だった。アレクシスはそう確信していた。
日付が変わる頃、最後の客を見送り、アレクシスとエレノアは本邸へ戻るための馬車に乗り込んだ。
車輪の音が静かな夜の石畳に響く。密室となった車内で、二人は向かい合って座っていた。
アレクシスは少しネクタイを緩め、心地よい疲労感と共に妻へ口を開こうとした。
「エレノア、今夜は本当に……」
君のおかげで助かった。エドワード卿も君のことを絶賛していたぞ。
そう続けようとした言葉は、しかし、彼女の膝の上を見た瞬間に凍りついた。
夜会用のドレスの膝の上に、あの小さな革表紙の手帳が置かれていた。
エレノアは窓の外の暗闇に向けられていた視線をゆっくりと手元に戻し、手帳を開いた。細いペンを取り出し、さらさらと、躊躇うことなく何かを書き込む。
アレクシスは息を止めた。喉の奥が干からびたように張り付き、声が出ない。
彼女はペンをしまい、パタン、と手帳を閉じた。
そして、顔を上げ、夫の目を見据えて静かに告げた。
「……あと一回です」
馬車が小さく揺れた。
アレクシスの頭の中は真っ白になった。
「な、ぜだ……?」
ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「なぜ、数字が減る? 私は今日、不満など一つも抱いていない。感謝もした。君の働きを、客の前でどれほど誇りに思っているか、どれほど素晴らしい妻であるかを称賛したはずだ!」
「はい。あなたは私を、とても誇らしげに称賛してくださいました」
エレノアの表情には、悲しみすら浮かんでいなかった。ただ事実だけを受け止めたような、静寂だけがあった。
「侯爵夫人として、任せておけば間違いない。妻なら当然だ、と。……私個人の考えも、急な変更で厨房を宥めた苦労も、あの短い時間でどれほど胃を痛めて調整したかも関係なく、あなたはすべてを『妻という機能』の中へ吸い込んでしまわれた。とても、誇らしげに」
「それは……!」
褒め言葉だった。彼女を信頼しているからこその言葉だった。
だが、エレノアにとってそれは、自分という『個人』が完全に消し去られ、『侯爵家の便利な道具』として承認された瞬間だったのだ。
アレクシスは絶句した。
感謝の言葉を重ねても、ダメだった。
公の場で最大限に褒め称えても、ダメだった。
自分の中にある「良き夫」としての尺度が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。善意で言った言葉が、彼女を褒めたつもりの言葉が、彼女を確実に家から追い出すための凶器になっていたのだ。
「あと一回……」
アレクシスは呻くように呟いた。
もう、後がない。
自分が次に良かれと思って口にする言葉が、あるいは何気ない行動が、最後の一回を引いてしまうかもしれない。
どう接すればいいのか。何を言えば正解なのか。
漆黒の馬車の中で、アレクシスはかつて味わったことのない底知れぬ恐怖に、ただ一人震えていた。




