第3話 ありがとうでは足りない
朝の光が差し込む寝室で、アレクシスは姿見の前に立っていた。
シャツの袖口のボタンを留め終えると、背後で控えていたエレノアが、音もなく近づいてきた。彼女の手には、今日アレクシスが着る予定の深い紺色のジャケットと、それに合わせた銀糸の刺繍が入ったネクタイが準備されている。彼がその日の予定に合わせて最も相応しい装いができるよう、彼女が毎朝整えているものだ。
アレクシスは振り返り、彼女からネクタイを受け取ると、意識して口角を上げ、はっきりと声に出した。
「ありがとう、エレノア。君がいつも完璧な支度をしてくれるおかげで、私は何も憂いなく外に出ることができる。本当に感謝しているよ」
それは、前日の母の言葉から導き出した仮説――『感謝の言葉が足りなかったのではないか』という推測に基づく、彼なりの全力の改善策だった。
エレノアは瞬きを一つして、いつものように穏やかな微笑を浮かべた。
「もったいないお言葉です。妻として、当然の務めを果たしているまででございます」
彼女は深くお辞儀をし、ジャケットを彼に着せかけた。その所作には一片の淀みもなく、美しい。
だが、アレクシスの目は彼女のドレスのポケットへと向けられていた。
あの小さな革表紙の手帳は出てこない。数字が減ったという宣告もない。
朝食の席でも、アレクシスは実行を続けた。エレノアが彼のカップに熱い紅茶を注ぎ足した時、焼き立てのパンの入った籠を勧めてくれた時、あるいは食後に今日の夜会の予定を確認してくれた時。
「ありがとう。本当に気が利く」
「いつも助かっている。君に感謝するよ」
「ありがとう、エレノア」
ことあるごとに、少し大げさなほどの礼を口にした。侯爵家の当主が無闇に身内に礼を連発するのはいささか滑稽かもしれないが、そんな体面など気にしてはいられなかった。彼女が数えていたものが「夫からの正当な評価と感謝の欠如」であるなら、今からでもそれを埋め合わせなければならない。
エレノアは感謝の言葉を嫌がっているわけではなかった。その都度「恐れ入ります」と柔らかく受け止め、かすかに目を細めることもあった。
しかし、数字は微動だにしなかった。
どれほど「ありがとう」を重ねても、彼女と自分の間にある見えない壁が薄くなる気配はない。手応えのなさに、アレクシスの胃の奥でじりじりとした焦燥感が渦を巻き始めていた。
昼下がり、執務室に戻ったアレクシスは、羽ペンをインク壺に突っ込んだまま、重い溜息を吐いた。
いくら礼を言っても響かない。ならば、まだ足りないのだ。
彼女は完璧な侯爵夫人だ。自分が執務室に籠もっている間にも、屋敷のどこかで無数の細やかな差配を行っているはずだ。使用人の配置、厨房の献立の確認、領地からの陳情の仕分け。自分が気づいていないそれらの「功績」に対して礼を言えていないから、彼女は納得していないのではないか。
アレクシスは卓上の呼び鈴を鳴らした。
ほどなくして、初老の家令グレアムが静かに執務室へ入ってきた。
「お呼びでございますか、旦那様」
「ああ、グレアム。お前に頼みたいことがある」
アレクシスは椅子から身を乗り出し、切迫した声で言った。
「夫人のことだ。彼女が今日、屋敷の中で何をしたか。誰と話し、どんな指示を出し、何を整えたか。どんな些細なことでも構わない。すべて私に報告するようにしてくれ」
彼女の行動をすべて把握できれば、先回りして完璧な感謝を述べることができる。そうすれば、彼女も自分が正しく評価されていると気づくはずだ。
だが、長く侯爵家に仕え、アレクシスの気性も熟知している老家令は、すぐには首を縦に振らなかった。
グレアムは深い皺の刻まれた顔をわずかに上げ、静謐な声で問い返した。
「旦那様。それはつまり……奥様を逐一監視せよ、という意味でございますか?」
「な……っ」
アレクシスは絶句した。
「決して他意はないのだ。私はただ、彼女の日々の労いに、正しく礼を言いたいだけで……」
言い訳を口にしかけて、アレクシスは自らの言葉の異様さにハッとした。
妻に礼を言うためだとはいえ、使用人を使って妻の一挙手一投足を報告させる。それはグレアムの言う通り、監視そのものではないか。信頼すべき妻をスパイするような、貴族として、いや夫としてあるまじき行為だ。
「……いや。すまない、グレアム」
アレクシスは両手で顔を覆い、深く息を吐き出した。
「今のは忘れてくれ。監視など、どうかしていた。実行しなくていい」
「かしこまりました」
グレアムは深く一礼し、それ以上何も問わずに執務室を辞した。
一人残されたアレクシスは、背もたれに深く体を預け、天井を仰いだ。自分はいったい、何をしているのだ。妻の心を繋ぎ止めたいという焦りばかりが先行し、まともな判断力すら失いかけている。
その夜。
アレクシスが寝室に向かう前のひとときを過ごす居室に、微かなノックの音が響いた。
入ってきたのはエレノアだった。彼女の手には銀の盆が載せられており、そこには湯気を立てる二つのティーカップが置かれていた。
「夜分に失礼いたします。お疲れのご様子でしたので、安眠を助けるカモミールと蜂蜜のお茶をお持ちしました」
テーブルに盆を置き、彼女はアレクシスの前にカップを差し出した。
甘く穏やかな香りがふわりと漂う。アレクシスはすがるような思いで、今日何度目か分からない言葉を口にした。
「わざわざすまない。ありがとう、エレノア。君は本当に気が利く……私の体調まで気遣ってくれて、どれほど感謝しても足りないくらいだ」
エレノアは自分のカップを手に取ると、向かいのソファに静かに腰を下ろした。
彼女は一口だけお茶を含み、そして、カップをソーサーに戻した。
カチャリ、と硬質な音が居室に響く。
「旦那様」
呼ばれて、アレクシスは顔を上げた。
エレノアは彼を真っ直ぐに見つめていた。その瞳には怒りも、落胆もない。ただ、透明な湖面のような静けさがあった。
「あなたは今日、とてもたくさんのお礼を口にしてくださいました。私が何かをするたびに、労いの言葉をかけてくださった。……感謝のお言葉をいただくこと自体は、嬉しく思います」
「ならば……」
「ですが」
アレクシスの言葉を遮るように、彼女は微かに首を横に振った。
「今のあなたは、私を見ているのではなく、『正解』を探していらっしゃるだけです」
ドクン、と。
アレクシスの心臓が大きく跳ねた。
「私が何を数えているのか。どうすれば数字を減らすのを止められるのか。あなたは一日中、その答え合わせをするためだけに、私に『ありがとう』と言い続けていました。そうではありませんか?」
図星だった。
感謝の言葉すら、彼女を繋ぎ止めるための『道具』として使っていた。相手への純粋な敬意ではなく、自分が助かるための正解のカードとして切っていたのだ。それを見透かされていた。
「……っ」
弁明の言葉一つ、喉から出てこなかった。侯爵としての弁舌も、領主としての合理的な思考も、目の前の妻の前では何の役にも立たなかった。
エレノアは立ち上がり、盆を手に取った。
「お茶が冷めないうちにお召し上がりください。お休みなさいませ」
静かな足音と共に、彼女は居室を出て行った。
残されたアレクシスは、冷めゆくハーブティーを見つめたまま、微動だにできなかった。
ありがとう、では足りない。
自分の何が根本的に間違っているのか、彼女の瞳が何を求めているのか。
暗闇の中で手探りを続けるような絶望感だけが、静寂の降りた部屋に重く澱んでいた。




