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「あと三回です」~離縁へのカウントダウン。侯爵夫人が何を数えているのか、夫にはまるで分からない~  作者: 他力本願寺


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第2話 何を間違えた?

別邸での騒動から数日が経過しても、アレクシスの心は分厚い雲に覆われたままだった。


 執務室の豪奢なマホガニーのデスクには、領地から上がってきた秋の収穫予測や、隣接する領主との境界線に関する書簡などが山積みにされている。普段であれば瞬時に目を通し、的確な指示を書き込めるはずのそれらの文字が、今日はいっこうに頭に入ってこなかった。


 ふと視線を上げると、マントルピースの上に置かれた見事な細工の置き時計が、規則正しい音を立てて時を刻んでいる。


「……あと二回、か」


 誰にともなく呟いた声は、広い執務室に虚しく吸い込まれた。


 エレノアが言い放った数字。あの言葉の真意を、アレクシスは暇さえあれば考え続けていた。


 貴族の夫婦関係が破綻する理由は、大抵決まっている。アレクシスは自らの行いを、ひとつひとつ俎上に載せて検証した。


 記念日や誕生日を蔑ろにしただろうか。いや、先月の結婚記念日には、彼女の淡い栗色の髪とよく似合う、見事な細工のサファイアのネックレスを贈ったはずだ。彼女はそれを「美しいですね」と微笑んで受け取ってくれた。


 不貞を疑われているのだろうか。それもあり得ない。アレクシスは多忙を極めており、夜の歓楽街で愛人を囲うような放蕩とは無縁の生活を送っている。


 生活の保障や待遇への不満か。侯爵家が彼女に渡している予算は潤沢だ。それに加え、彼女が実家から持参した個人資産についても、アレクシスは一切干渉していない。王城での夜会でも必ずエスコートし、誰の目から見ても「完璧な侯爵夫妻」として振る舞っている。


 暴力も、暴言も、浪費も、人格否定もない。


 客観的に見て、自分は間違いなく「良き夫」の部類に入るはずだ。彼女を不自由させた覚えなど一度もないのに、なぜ彼女は離縁を突きつけるような真似をしたのか。


 考えれば考えるほど、深い迷宮に迷い込んだような苛立ちだけが募っていった。


 その日の午後。珍しく時間が空いたアレクシスは、日差しの差し込むサンルームでエレノアと共に茶を飲んでいた。


 ダージリンの香りが漂う中、エレノアは静かに刺繍の手を動かしている。その平穏すぎる佇まいが、かえってアレクシスの苛立ちを刺激した。


「……エレノア。一つ聞かせてくれ」


 耐えかねて口を開くと、彼女は刺繍枠から顔を上げ、静かな瞳で夫を見つめた。


「先日、君が見ていたその……小さな革表紙の手帳だが」


 言い淀みながらも、アレクシスは確信を持って尋ねた。


「その手帳に、私への不満が書き連ねてあるのか? それが、君の言う数字の『答え』なのか」


 もしそうなら、見せろと言いたかった。何が不満なのか文字で記されているなら、それを一つずつ潰していけばいいだけの話だ。侯爵家の当主として、解決できない問題などないという自負があった。


 しかし、エレノアは手元の裁縫箱の横に置かれていた小さな手帳へ視線を落とすと、淡々と首を横に振った。


「いいえ。これは答えではありません」


「では、なんだと言うんだ」


「私が忘れないための、ただの私的な記録です」


 それ以上でもそれ以下でもないと言うように、彼女は再び刺繍へ視線を戻した。


 アレクシスは膝の上で拳を握りしめた。その手帳を力ずくで奪い取り、中身を検閲してやりたいという衝動が首をもたげた。


 だが、彼はそれをすんでのところで堪えた。理由も言わずに去ろうとする妻に苛立ってはいるが、彼女のプライバシーを暴力的に侵すような非道徳的な夫にはなりたくなかったのだ。彼は荒立ちそうになる感情を冷たい紅茶と共に飲み下し、深く息を吐いた。


 翌日、アレクシスが王都の視察へ向かうため屋敷の廊下を歩いていた時のことだ。


 角を曲がろうとした先から、話し声が聞こえてきた。エレノアと、長年この家で働く侍女長、そしてまだ十代半ばと思われる若いメイドの三人だった。


「……侯爵家からの費用援助と、時間の調整は手配できます」


 エレノアの落ち着いた声が聞こえる。


「でも、一番大切なのは、あなたがそれを続けたいかどうかです。読み書きの学び直しは、毎日の仕事の後に時間を割くことになります。無理をして体を壊しては意味がありません。もし重荷に感じるなら、別の配置を考えることもできます。あなた自身は、どう望みますか?」


 若いメイドは少し緊張した面持ちだったが、やがてしっかりと顔を上げて答えた。


「続けたいです、奥様。文字が読めるようになれば、もっと色々なお手伝いができると思いますから」


「分かりました。では、そのように調整しましょう」


 エレノアはふわりと微笑み、メイドの肩を優しく撫でた。


 壁の陰でそのやり取りを聞いていたアレクシスは、微かに眉をひそめた。


 彼女は有能な妻だ。しかし、時折こうしてひどく手間のかかる回り道をする。侯爵家が費用を出して教育してやるのだから、「屋敷のために学べ」と一言命じれば済む話ではないか。なぜわざわざ身分違いの使用人を相手に、本人の意思や望みなどという不確かなものを細かく確認する必要があるのか。


 彼には、妻のその行動原理がどうしても理解できなかった。


 視察の帰路、アレクシスは別邸に立ち寄り、母マーガレットの様子を見に訪れた。


 ベッドから起き上がれるほどに回復した母は、穏やかな顔で息子を迎えた。


「もうすっかり良いのよ。本当に、エレノアの迅速な手配のおかげだわ」


 母はまたしても妻の采配を褒め称えた。アレクシスもそれに同意するように頷く。


「ええ。彼女は本当に、侯爵夫人として見事な働きをしてくれます」


 アレクシスがそう答えると、マーガレットはティーカップを置き、ふと真顔になって息子を見つめた。


「……私はね、あの時エレノアに、心の底から礼を言ったわ。あなたは何と伝えたの、アレクシス?」


「え……?」


 不意を突かれた問いに、アレクシスは言葉を詰まらせた。


 あの時、自分は何と言っただろうか。ひどく安堵し、彼女を褒めたはずだ。『君なら当然、その程度の差配は済ませているだろうと思った』と。


 それは彼女の有能さへの最大級の評価だった。だが、母が言うような「ありがとう」という純粋な感謝の言葉を、自分は直接彼女に向けて口にしただろうか。


(まさか……)


 アレクシスの背筋に、冷たいものが走った。


 妻が数えているのは、労いに対する感謝の言葉の欠如なのだろうか。思い返せば、彼女が屋敷を完璧に回すことを、自分はいつしか「当然の機能」として受け入れ、明確な感謝を伝えることを怠っていたかもしれない。


 その夜。


 執務室で明日の領地会議の準備をしていると、控えめなノックの音と共にエレノアが入ってきた。彼女の手には、完璧に分類され、見出しまで付けられた過去数年分の会議資料が抱えられていた。


「明日の資料をお持ちしました。必要な箇所には付箋を挟んであります」


 いつものように淡々と業務をこなす妻の姿に、アレクシスは居住まいを正した。


 母の言葉を思い出す。もし彼女が感謝の欠如を数えているのなら、今こそそれを正す時だ。


 アレクシスは資料を受け取ると、意識して彼女の目を見据え、少しぎこちない声で口を開いた。


「……あぁ。ありがとう、エレノア。君がいつもこうして完璧に整えてくれるおかげで、本当に助かっているよ。感謝する」


 言い終えて、アレクシスは彼女の反応を待った。


 数字が減るか。あるいは、長年の労いを認められたことで、あの冷ややかな宣言を撤回してくれるのではないか。


 しかし、エレノアの表情に変化はなかった。彼女はただ、完璧な侯爵夫人の作法のまま、静かに一礼しただけだった。


「お気になさらず。お休みなさいませ、旦那様」


 静かに扉が閉まる。


 数字は減らなかった。宣告が撤回されることもなかった。


 扉を見つめたまま、アレクシスは一人、重い沈黙の中に取り残された。


 感謝の言葉は伝えた。だが、全く響いた様子がなかった。


 やはり感謝が足りなかったのだろうか。もっと明確に、日々の些細なことに対しても礼を言い続ければ、彼女の閉ざされた態度は軟化するのだろうか。


 確証は何一つないまま、アレクシスは机上の資料へと視線を落とした。

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