第1話 あと三回です
朝の侯爵邸の食堂は、いつも通り完璧な静寂と秩序に包まれていた。
大きな窓から差し込む陽光が、磨き上げられた銀のカトラリーと、一点の染みもない純白のテーブルクロスを照らしている。カップに注がれた紅茶は、熱すぎずぬるすぎない絶妙な温度を保ち、ほんのりとベルガモットの香りを漂わせていた。
ヴァレンティン侯爵家の当主であるアレクシスは、読みかけの朝刊から視線を上げ、向かいの席に座る妻を見た。
エレノア・ヴァレンティン。
結婚して七年になる彼女は、今日も変わらず非の打ち所のない侯爵夫人だった。淡い栗色の髪は上品に結い上げられ、仕立ての良い朝のドレスは華美すぎず地味すぎもしない。使用人たちが音もなく立ち働くこの空間において、彼女の存在は要石のように機能している。彼女がそこにいるだけで、侯爵家の日常は滑らかに、何の摩擦もなく回り続けていた。
アレクシスにとって、エレノアは最高の妻だった。感情を荒立てず、先回りして必要な段取りを整える。領地経営で多忙なアレクシスが、家の内側のことで煩わされた記憶は、この七年間で一度たりともなかった。
だからこそ、朝食を終え、アレクシスが席を立とうとした直後に放たれたその言葉を、彼はうまく処理することができなかった。
「あと三回です。それで私はあなたから去ります」
静かな、だがひどく澄んだ声だった。
アレクシスは立ち上がりかけた姿勢のまま動きを止め、眉間に皺を寄せた。
「……エレノア。今、なんと言った?」
「あと三回です、アレクシス様」
エレノアは膝の上で両手を重ね、ティーカップを見つめていた視線をゆっくりと夫へ向けた。その瞳に怒りや悲哀の色はない。ただ、決定事項を伝えるような凪いだ光だけがあった。
「それで私は、侯爵家を……あなたから去ります」
冗談を言っているようには見えなかった。そもそも、彼女は朝の挨拶代わりに悪趣味な戯れを口にするような性格ではない。
アレクシスの脳裏を、瞬時にいくつもの可能性が駆け巡った。借金か。いや、彼女の個人資産は十全にある。実家との確執か。伯爵家との関係は良好だ。自分の不貞か。アレクシスに愛人はおらず、夜の付き合いも弁えている。
どれも当てはまらない。
「理由を聞いたことがないぞ」
アレクシスは再び椅子に腰を下ろし、妻を真っ直ぐに見据えた。
「突然どうしたというんだ。私への不満か? 家の差配で何か過大な負担を強いていたとでも言うのか」
「突然ではありません」
エレノアは微かに首を横に振った。
「私は過去に何度も、私の希望や、家における違和感についてお話ししてきました」
「聞いた覚えがない」
即座に否定したアレクシスに対し、エレノアはわずかに目を伏せた。
「……そうですね。届くと思っていた頃には、何度も申し上げたのですが。あなたがそのようにお聞きにならなかっただけでしょう」
「言葉遊びをしている時間は私にはない」
アレクシスの声に苛立ちが混じった。領地から届いた治水工事の報告書に目を通さねばならず、十時からは面会の予定も入っている。妻の謎掛けに付き合っている暇はない。
「不満があるならはっきり言えばいい。君が去らねばならないほどの問題があるなら、私が解決する。今、何を直すべきか言ってくれ」
「いいえ、それはできません」
「なぜだ」
「今ここでお教えすれば、あなたはきっと『それだけ』を避けるようになさるでしょう。私は、あなたにとっての正解を教え、丸付けをするための試験官になりたいわけではないのです」
理解の範疇を超えていた。
侯爵としての責任と合理性で生きてきたアレクシスにとって、問題の所在を明かさずに解決を放棄するような物言いはひどく奇妙に映った。
「ならばなぜ、黙って出て行かない? なぜわざわざ『あと三回』などと宣言する」
「それが、私自身が定めた基準だからです。あと三回。それが満たされた時、私は去ります」
これ以上の対話は無意味だと、エレノアの静謐な態度は物語っていた。
大時計が重厚な音で時刻を告げた。執務の時間が迫っている。アレクシスは苛立たしげに息を吐き出すと、椅子から立ち上がった。
「……疲れているのだろう。後で医者を呼んでおく。無意味な数字を数えるのはやめて、少し休むことだ」
そう言い残し、彼は足早に食堂を後にした。背後から反論の声が追ってくることはなかった。
その日の昼。執務室で書類の山と格闘していたアレクシスの元へ、家令のグレアムが血相を変えて飛び込んできた。
「旦那様! 大奥様がお倒れになりました。持病の発作かと!」
アレクシスはペンを弾き飛ばすように立ち上がった。
別邸に暮らす母マーガレットには、心臓に古くからの持病があった。発作が起きれば一刻を争う。過去に一度、手当てが遅れて危うく命を落としかけたこともあった。
「医者は! 馬車は出ているか!」
「それが……」
グレアムの言葉を最後まで聞く前に、アレクシスは執務室を飛び出していた。
屋敷の廊下を駆け抜け、渡り廊下を通って別邸へと急ぐ。脳裏には最悪の想像ばかりが渦巻いていた。もし間に合わなかったら。もし、すでに事切れていたとしたら。
荒い息を吐きながら別邸の寝室の扉を乱暴に開け放つ。
しかし、そこに飛び込んできたのは、静寂に包まれた平穏な光景だった。
「……アレクシス。そんなに慌てて、どうしたの」
ベッドに横たわっていたマーガレットが、少し顔色は悪いものの、穏やかな声で息子を嗜めた。その傍らには、街で最も腕のいい専門医がすでに往診カバンを片付け始めているところだった。
「母上……ご無事で……」
アレクシスが呆然と立ち尽くしていると、部屋の隅からエレノアが静かに歩み寄ってきた。
「ご安心ください、旦那様。お義母様のお加減は落ち着かれました。先生によれば、投薬も間に合い、数日安静にしていれば問題ないとのことです」
「君が……手配を?」
アレクシスの問いに、医師が深く頷いた。
「奥様の迅速なご判断のおかげです。発作の兆候を見抜かれ、私を呼ぶための使いと馬車を同時に手配してくださった。少しでも遅れていれば危ないところでした」
アレクシスは深く息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。
ベッドの上のマーガレットが、エレノアに向かって優しく微笑みかけた。
「エレノア。本当にありがとう。あなたがすぐに異変に気づいて駆けつけてくれたおかげよ。私を気遣って、ずっと手を握っていてくれたこと……とても心強かったわ」
「もったいないお言葉です、お義母様。お顔色が戻られて、本当に安堵いたしました」
エレノアは少しだけ目元を緩め、母の手をそっと握り返した。そこには「侯爵夫人」という仮面を感じさせない、一個人の女性としての確かな温もりがあった。
医者が辞去し、母が眠りについたのを見届けてから、アレクシスとエレノアは別邸の廊下に出た。
アレクシスは胸を撫で下ろしながら、妻へ向き直った。
「まさかこんな事態になるとは思っていなかった。本当に助かったよ、エレノア」
心からの安堵だった。彼女がいてくれてよかった。彼女が自分の妻でよかった。
「母の急な発作には驚いたが、君なら当然、その程度の差配は済ませているだろうと思ったよ。侯爵夫人として見事な働きだ。これからも家のことは君に任せておけば安心だな」
それはアレクシスにとって、全幅の信頼を込めた最上級の称賛だった。彼女の能力への評価であり、侯爵家を支える妻という存在への賛辞のつもりだった。
だが、エレノアは言葉を返す代わりに、静かに足をとめた。
彼女はドレスのポケットから、見慣れない小さな革表紙の手帳を取り出した。掌に収まるほどのそれをゆっくりと開き、何かを確認するように視線を落とす。
そして、パタン、と。
微かな音を立てて手帳を閉じた。
「……エレノア?」
不思議そうに尋ねるアレクシスを見上げ、エレノアは朝と同じ、凪いだ瞳で言った。
「あと二回です」
廊下の空気が、ひどく冷たくなったように感じられた。
アレクシスは言葉を失った。
今の言葉の、どこが。
自分は今、彼女を褒めたはずだ。完璧な妻だと、家を任せるに足る有能な存在だと称賛したはずだ。
それなのに、なぜ彼女は数字を減らしたのか。彼女は何を数えているのか。
「……どういう、意味だ」
絞り出すように問うたアレクシスの声は、静かな廊下に虚しく吸い込まれていった。




