# 第八話 スズムシは鳴くのに飽きると人の名前を呼ぶ
台風のあとは、急に秋になった。
夜が冷えるようになって、窓を開けると、虫の声がした。鈴を振るような、細い音。
スズムシだ、と姉が言った。
寝る前、電気を消したあとだった。暗い部屋に、虫の声だけが入ってくる。
「スズムシってさ」
布団の外から、姉の声がした。
「鳴くのに飽きると、人の名前を呼ぶんだよ」
「名前?」
「うん。リーン、リーンって、ずっと鳴いてるでしょ。あれ、けっこう疲れるの。だから、たまに飽きる。飽きると、こっそり、人の名前を呼ぶんだって」
「どんなふうに」
「よく聞いてると、わかるよ。鳴き声に混じって、ときどき、誰かの名前が聞こえる。呼ばれた人は、なんだか呼ばれた気がして、ふっと目が覚める。真夜中に」
わたしは、耳をすました。
スズムシは、リーン、リーンと鳴いていた。名前は、聞こえなかった。当たり前だ。嘘だから。
でも、しばらく聞いていると、なんだか、聞こえる気もしてきた。リーン、のあいだの、ほんの少しの間に、誰かの名前が隠れているような。
「……聞こえないよ」
「まだ飽きてないんでしょ、その子は」
姉が、暗闇の中で笑った気配がした。
しばらく、二人とも黙っていた。スズムシだけが鳴いていた。
ふいに、わたしは姉の名前を呼んでみたくなった。
口に出して、呼んでみた。
姉の名前を。
姉は、「なに」と答えた。ちゃんと、答えた。すぐそこにいて、わたしの声を聞いて、返事をした。
「べつに。呼んでみただけ」
「なにそれ」
姉が、ふふっと笑った。
「スズムシのまね?」
「ちがう」
ちがう、と言ったけれど、たぶん、ちょっとそうだった。呼んだら返事があるか、確かめたかった。それだけ。返事があって、安心した。それだけ。
「お姉ちゃんも、呼んでよ」
「なんで」
「いいから」
姉は、少し間をおいて、わたしの名前を呼んだ。
暗い部屋で、わたしの名前が、姉の声で鳴った。
「はい」
「呼んだだけ」
「なにそれ」
今度は、わたしが笑った。
二人で、名前を呼びあって、返事をして、それだけのことが、おかしかった。
考えてみれば、ふだん、名前なんてあまり呼ばない。お姉ちゃん、で済むし、向こうもわたしを名前で呼ぶことはない。だから、声に出した名前は、なんだか少し、特別に聞こえた。お互いの名前が、暗い部屋に、ひとつずつ置かれたみたいだった。
スズムシは、まだ鳴いていた。飽きずに、ずっと。名前なんか、呼ばなかった。呼ぶ必要が、なかったのかもしれない。ここには、ちゃんと呼びあえる二人が、いたから。
窓を閉めると、虫の声が遠くなった。部屋が、しん、とした。
「寒くなったね」
「もう秋だもん」
夜露がおりる季節だ、と姉が言った。朝になると、庭の草が、ぜんぶ濡れているのだと。
わたしは、その濡れた朝を、まだ見ていなかった。明日は早く起きてみよう、と思いながら、目を閉じた。
スズムシの声が、窓の外で、だんだん遠くなっていった。




