# 第七話 トンボは過ぎた夏を一度だけ振り返る
台風が来た。
夕方から風が強くなって、夜には雨が窓を叩いていた。横なぐりの雨だった。ベランダの物干し竿が、かたかた鳴っている。
電気が、一度だけ、ちらついた。
「停電したら、やだな」
わたしが言うと、姉は懐中電灯を探していた。古い、重たいやつ。点くかどうか確かめて、枕元に置いた。
二人で、布団に並んで座っていた。何をするでもなく、雨の音を聞いていた。
外は、嵐だった。家の中は、それだけ静かだった。窓一枚のこっち側とあっち側で、世界がまるで違った。あっち側は荒れていて、こっち側には、姉とわたしと、点くかどうか確かめた懐中電灯がある。
「こういう日はさ」
姉の声が、いつもより小さかった。
「トンボがね、過ぎた夏を、一度だけ振り返るんだよ」
「トンボ?」
「うん。夏のあいだ、ずっと前だけ見て飛んでるでしょ。すいすい、前へ前へ。でも、秋のはじめの嵐の日に、一度だけ、後ろを振り返るの。過ぎてった夏を」
外で、風がうなった。
「一度だけ?」
「一度だけ。何回も振り返ると、飛べなくなっちゃうから。だから、たった一度。いちばん荒れた日に、ぜんぶの夏を、まとめて」
姉は、膝をかかえていた。いつもみたいに、こっちを見て笑ったりしなかった。窓のほうを見ていた。雨で、外はなにも見えないのに。
「お姉ちゃんは」
「ん?」
「振り返ったりするの。トンボみたいに」
姉は、しばらく答えなかった。雨の音が、その沈黙を埋めていた。
「するよ」
小さい声だった。
「ときどき、する。一度だけって決めてても、つい、何回も」
「飛べなくなるよ」
「うん。だから、嘘でごまかすの」
わたしは、姉の横顔を見た。懐中電灯の灯りは点いていなくて、窓の外のときどきの光だけが、姉を青白く照らした。
いまのは、嘘の話だったんだろうか。
トンボの話のつもりで、姉は、自分のことを言ったのかもしれない。振り返ると飛べなくなるから、嘘でごまかす。毎回ひとつずつ。生き物の嘘で、何かを、振り返らないようにしている。
「停電、しないね」
わたしは話を変えた。
「しないね」
姉も、いつもの声に戻った。
「懐中電灯、いらなかったかも」
「点くだけで、安心するでしょ。こういうのは」
たしかに、点くかどうか確かめただけで、少し安心していた。使わなくても、そこにあると分かっているだけで。
風が、また強くなった。物干し竿が、かたかた鳴る。わたしは、布団に潜りこんだ。
「明日には、晴れるかな」
「晴れるよ。台風のあとは、いつも」
姉の声が、隣で、雨に混じっていた。たしかに、すぐそこに、あった。
わたしは、それをずっと聞いていた。眠るまで、ちゃんと、聞いていた。
夜のあいだ中、雨が降っていた。これまでで、いちばん強い雨だった。




