# 第二話 カタツムリは引っ越すたびに家を一個ずつ忘れていく
梅雨に入った。
朝から雨で、窓の下に水滴がいくつも並んでいた。学校から帰っても、雨はまだ降っていた。
姉は窓辺にいた。ガラスの内側から、外をじっと見ている。
「来た」
「なにが」
「カタツムリ。今日のぶん」
わたしはカバンを置いた。たしかに、ガラスの外側に一匹いる。殻を背負って、ゆっくり斜めに登っていく。
「カタツムリってさ」
来た、と思った。
「引っ越すたびに、家を一個ずつ忘れていくんだよ」
「持ってるじゃん。背中に」
「あれは最後の一個。いちばん新しいやつ」
姉はガラスを指でなぞった。カタツムリは気づかない。
「カタツムリも、ほんとはもっと大きい家に住んでたの。広い、立派なやつ。でも雨の日にうっかり出かけて、帰り道を忘れて、しかたなく次の家に移る。それを何回もやってるうちに、だんだん小さくなって、いまのあれ」
「それナメクジだよ」
「あれは別」
「じゃあ最初の家は」
「どこかにあるよ。空っぽのまま。大きい殻だけ、雨に濡れて」
わたしは、少しだけその絵を想像してしまった。
どこかの草むらに、誰も住んでいない大きな殻が転がっている。中身はとっくにいなくて、雨が溜まっている。それを忘れた本人は、ずっと小さい家を背負って、いまもガラスをのぼっている。
「……それ、悲しい話じゃん」
言ってから、しまった、と思った。乗ってしまった。
姉はうれしそうな顔をした。
「でしょ。カタツムリ、けっこう切ないんだよ」
「切なくない。嘘だから」
「嘘でも切ないでしょ」
返せなかった。嘘でも切なかったから。
カタツムリはガラスの上のほうまでのぼって、それから動かなくなった。雨はまだ降っている。
「ねえ」
「なに」
「お姉ちゃんは、何回引っ越したの」
聞いてから、変なことを聞いたと思った。姉は人間で、カタツムリじゃない。
姉は少しのあいだ、外を見ていた。
「忘れちゃった」
そう言って、笑った。いつもの顔だった。
「忘れたから、こうしてここにいるのかも」
夕飯まで、姉は窓辺にいた。カタツムリはいつのまにかいなくなっていた。落ちたのか、登りきったのか、どこかへ引っ越したのか、わたしは見ていなかった。
その夜も雨だった。
布団に入ってから、わたしは天井に向かって聞いた。
「明日は、何の話」
「セミ」
「まだ梅雨だよ」
「気が早いカエ……気が早いセミの話」
姉が途中で何か言いかけて、やめた気がした。けれど雨の音にまぎれて、よく聞こえなかった。
「なんて?」
「なんでもない。おやすみ」
雨は、朝まで降っていた。




