# 第一話 カエルの子供がいないのは、みんな飛び出して死んでしまうから
「カエルの子供がいないの、知ってた?」
姉が降りてきた。姉はいつも突然だ。
わたしは歯を磨いていた。蛇口を閉める。夜の台所は、配管がときどき鳴る。
「いるでしょ。オタマジャクシ」
「あれは別」
姉は口をゆすいでいるわたしを見た。
「あれはカエルの前。子供じゃない」
「同じでしょ」
「ぜんぜん違うよ」
わたしはタオルで口を拭いた。それから、姉はいま思いついたみたいな顔で言った。本当はたぶん、布団に入る前からこれを言うつもりだったのだと思う。姉はいつもそうだ。
「子供のカエルってこと。生まれてすぐの、ちっちゃいカエル。あれ、いないんだよ」
「だからオタマ――」
「飛び出して死んじゃうから」
わたしは水を飲んだ。
外で、雨が降りはじめていた。春の雨は音がやわらかい。降っているのか、耳をすまさないと、わからないくらいの。
「飛び出すって、どこから」
「世界から」
「世界?」
「生まれたばっかりのカエルは、跳ねる加減を知らないんだよ。だから一回目で、ぜんぶの力で跳ねちゃう。すごく遠くまで。戻ってこられないくらい」
わたしはコップを伏せて、洗いかごに置いた。蛇口から、水滴がひとつ落ちた。
「だからこの世には、ちゃんと加減を覚えた、大人のカエルしか残らないの。子供のカエルは、みんなどこかへ飛んでっちゃったあと」
「どこに行ったの」
「さあ。誰も見たことないから、誰も知らない」
姉は当たり前みたいに言った。嘘の話なのに、知らないところだけは正直だった。
うそだ。
オタマジャクシがカエルになるのは知っている。常識だ。足が生えて、尾が縮んで、ある日、陸に上がる。飛び出して死んだりしない。
姉の話の中では、いまごろ世界中で、生まれたての小さなカエルが、力いっぱい跳ねている。一度きりの、加減を知らない跳躍で。どこへ行くのかも、知らないまま。
それを思うと、嘘だ、とはなんだか言えなくなった。
「……ふうん」
「でしょ」
わたしはコップをもう一度ゆすいだ。
「べつに、感心してない」
「してた」
姉は布団のほうへ歩いていく。電気の紐を引っぱって、台所の灯りを半分にした。残った豆球の、オレンジ色の暗さ。
雨の音が、さっきより少しだけはっきりしてきた。
布団を並べて敷くのは、子供のころからの癖だ。べつに、もう一人で寝られる歳なのに。
電気を消すと、雨の音だけが残った。姉は、もう半分眠っているような声で言った。
「明日も、ひとつ教えてあげる」
「いらない」
「カタツムリの話」
「いらないってば」
「カタツムリはね、引っ越すたびに……」
「明日って言ったでしょ」
「そうだった」
姉は小さく笑った。それきり、返事はなかった。
天井のあたりに、雨の気配だけがあった。わたしは目を閉じて、少しだけ、生まれたてのカエルのことを考えた。会ったこともない、どこにもいない、小さなカエルのことを。
ぜんぶ嘘なのに。
すぐに眠ってしまった姉の寝息が、雨に混じっていた。




