表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/3

# 第一話 カエルの子供がいないのは、みんな飛び出して死んでしまうから


「カエルの子供がいないの、知ってた?」


 姉が降りてきた。姉はいつも突然だ。


 わたしは歯を磨いていた。蛇口を閉める。夜の台所は、配管がときどき鳴る。


「いるでしょ。オタマジャクシ」


「あれは別」


 姉は口をゆすいでいるわたしを見た。


「あれはカエルの前。子供じゃない」


「同じでしょ」


「ぜんぜん違うよ」


 わたしはタオルで口を拭いた。それから、姉はいま思いついたみたいな顔で言った。本当はたぶん、布団に入る前からこれを言うつもりだったのだと思う。姉はいつもそうだ。


「子供のカエルってこと。生まれてすぐの、ちっちゃいカエル。あれ、いないんだよ」


「だからオタマ――」


「飛び出して死んじゃうから」


 わたしは水を飲んだ。


 外で、雨が降りはじめていた。春の雨は音がやわらかい。降っているのか、耳をすまさないと、わからないくらいの。


「飛び出すって、どこから」


「世界から」


「世界?」


「生まれたばっかりのカエルは、跳ねる加減を知らないんだよ。だから一回目で、ぜんぶの力で跳ねちゃう。すごく遠くまで。戻ってこられないくらい」


 わたしはコップを伏せて、洗いかごに置いた。蛇口から、水滴がひとつ落ちた。


「だからこの世には、ちゃんと加減を覚えた、大人のカエルしか残らないの。子供のカエルは、みんなどこかへ飛んでっちゃったあと」


「どこに行ったの」


「さあ。誰も見たことないから、誰も知らない」


 姉は当たり前みたいに言った。嘘の話なのに、知らないところだけは正直だった。


 うそだ。


 オタマジャクシがカエルになるのは知っている。常識だ。足が生えて、尾が縮んで、ある日、陸に上がる。飛び出して死んだりしない。


 姉の話の中では、いまごろ世界中で、生まれたての小さなカエルが、力いっぱい跳ねている。一度きりの、加減を知らない跳躍で。どこへ行くのかも、知らないまま。


 それを思うと、嘘だ、とはなんだか言えなくなった。


「……ふうん」


「でしょ」


 わたしはコップをもう一度ゆすいだ。


「べつに、感心してない」


「してた」


 姉は布団のほうへ歩いていく。電気の紐を引っぱって、台所の灯りを半分にした。残った豆球の、オレンジ色の暗さ。


 雨の音が、さっきより少しだけはっきりしてきた。


 布団を並べて敷くのは、子供のころからの癖だ。べつに、もう一人で寝られる歳なのに。


 電気を消すと、雨の音だけが残った。姉は、もう半分眠っているような声で言った。


「明日も、ひとつ教えてあげる」


「いらない」


「カタツムリの話」


「いらないってば」


「カタツムリはね、引っ越すたびに……」


「明日って言ったでしょ」


「そうだった」


 姉は小さく笑った。それきり、返事はなかった。


 天井のあたりに、雨の気配だけがあった。わたしは目を閉じて、少しだけ、生まれたてのカエルのことを考えた。会ったこともない、どこにもいない、小さなカエルのことを。


 ぜんぶ嘘なのに。


 すぐに眠ってしまった姉の寝息が、雨に混じっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ