# 第十話 冬眠する生き物は春に見た夢を一個だけ持って帰る
冬が来た。
朝、窓ガラスが、内側から曇るようになった。結露だ。指でなぞると、線が引ける。その向こうの景色は、ぼやけて、よく見えない。
姉は、曇ったガラスに、丸を一個描いた。
「冬眠する生き物ってさ」
わたしは、もう身構えなかった。ただ、続きを待った。
「見た夢を、一個だけ、持って帰るんだよ」
「夢を?」
「うん。冬のあいだ、ずっと眠ってるでしょ。長い長い、眠り。そのあいだに、いろんな夢を見るの。何百個も。でも、春に目を覚ますとき、持って帰れるのは、たった一個だけ」
「どの夢を選ぶの」
「選べないよ。覚えてた夢が、たまたま一個、残ってるだけ。あとは、ぜんぶ忘れちゃう。だから、春に起きた生き物は、なんだか少し、寂しそうなの。たくさん見た夢を、ほとんど忘れてきたから」
わたしは、曇ったガラスの丸を見ていた。姉の描いた、ひとつの丸。
そして、気づいた。
わたしは、もう「うそだ」と思っていなかった。
いつからだろう。最初のころは、ちゃんと思っていた。うそだ、って。図鑑と、違うって。心の中で、毎回、訂正していた。
それが、いつのまにか、しなくなっていた。
冬眠する生き物が、春に夢を一個持って帰る。そういうことに、なっていた。わたしの中で。嘘なのに。嘘だと知っているのに。姉がそう言うから、なっていた。
たぶん、本当かどうかは、もう、どうでもよくなっていた。本当の世界には、飛び出して死んだ子供のカエルなんていないし、家を忘れるカタツムリもいない。でも、姉の世界には、いる。わたしは、姉の世界のほうに、住みたくなっていた。そっちのほうが、やさしかったから。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「わたし、お姉ちゃんの話、信じるようになっちゃった」
姉は、ガラスの丸の中に、点を二つと、線を一本描いた。顔だった。下手な、笑った顔。
「嘘なのに?」
「うん。嘘なのに」
「信じていいの? 嘘だよ?」
「いいよ。お姉ちゃんが言うなら」
姉は、しばらく、その下手な顔を見ていた。それから、小さい声で言った。
「ありがとう」
なんで「ありがとう」なのか、わからない。嘘を信じてもらって、お礼を言う人なんて、いない。でも、姉は、たしかに「ありがとう」と言った。
ガラスの顔は、結露の水滴がつながって、だんだん崩れていった。笑った顔が、泣いた顔みたいになって、それから、ぜんぶ、流れて消えた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なに」
「春になったら、どんな夢、持って帰る?」
聞いてから、また、変なことを聞いたと思った。姉は冬眠しない。春まで眠ったりしない。ずっと、ここにいる。
姉は、答えなかった。
かわりに、もう一度、曇ったガラスに、丸を描いた。さっきより、小さい丸。その中には、もう、顔を描かなかった。
「それは、春になってから」
外は、よく晴れていた。冬の、冷たく晴れた朝だった。
結露のガラスの向こうで、世界が、白くぼやけていた。




