第55話 生徒会長の先輩は、私の可愛い犬系彼氏
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ゴールデンウィークが明けた。
校舎の空気は、どこかまだ休みの匂いを引きずっている。
廊下を歩く足音も、笑い声も、ほんの少しだけ緩い。
けれど体育館に足を踏み入れた瞬間、その空気はぴたりと切り替わる。
この日は連休明けの、全校集会。
壇上中央へ、校長がゆっくりと歩み出る。
マイクの前に立ち、高さを直すその仕草すら、どこか儀式めいていた。
《ゴールデンウィークが明けました。皆さん、生活のリズムは戻っていますか》
進路の話。
時間の使い方。
「三年生は特に自覚を持って」という、毎年変わらない常套句。
二年生の列の中ほどで、陽向はぼんやりと壇上を見つめていた。
(眠……)
連休明け特有の、身体の重さ。
朝のホームルームから続く、じんわりとしただるさ。
欠伸が喉の奥で膨らみ、慌てて噛み殺す。
視線は壇上に向いているのに、意識は少しだけ遠い。
続いて生活指導部。
スマートフォンの扱い。
制服の着崩し。
自転車の並走。
淡々と、事務的に、正しさが並べられていく。
長い連休から、一気に現実へ引き戻される感覚。
楽しかった時間が、遠くへ押しやられていく。
やがて進路指導部の短い連絡が終わると、教員が一歩、後ろへ下がった。
《続いて、生徒会より連絡があります》
その一言で、体育館の温度が変わった。
期待と、好奇心と、少しの色めき。
壇上脇に控えていた俊輔が、静かに前へ出る。
背筋は真っ直ぐ。
歩幅は一定。
迷いのない足取り。
生徒達の視線が一つ、また一つと吸い寄せられていく。
憧れの眼差し。
体育館中の目が、ゆっくりと一点に集まる。
その中心に立つ俊輔は、いつも通り整っている。
整いすぎていて、どこか非現実的ですらある。
(かっこよ。)
陽向の重たかった瞼が、ぱちん、と音を立てるみたいに開いた。
さっきまで眠気に支配されていた意識が、一瞬で引き上げられる。
胸の奥が、わずかに跳ねる。
副会長として壇上に上がる自分の姿はない。
今日は会長単独の報告だと分かっている。
俊輔がマイクの前に立つ。
《おはようございます。生徒会からのお知らせです。》
その一言で、空気が変わる。
《まず初めに、今月25日に実施予定の生徒会役員総選挙についてご案内いたします。》
本校の顔。
全校生徒の憧れ。
非の打ち所のない優等生。
《現在、立候補を届け出ている生徒のポスターにつきましては、明日より校内各所に順次掲示を開始いたします。》
淡々と、しかし明確に。
マイク越しに響く俊輔の声。
陽向は、自分の鼓動が徐々にやけに大きく聞こえ始めていることに気づく。
トクン。
トクン。
《昇降口、各学年廊下、生徒会掲示板等に掲出されますので、登下校や休み時間の際にご確認ください。》
あの背中が、あの声が。
全校生徒の前で毅然とし、凛々しく完璧な生徒会長。
その素顔を、誰よりも近くで知っているのは自分だという小さな誇りが、胸の奥でじわりと灯る。
《なお、立候補の受付は今週をもって最終締切となります。》
体育館の空気が、わずかに張る。
《本校の生徒会活動は、単なる行事運営にとどまらず、学校全体の在り方を生徒自身が主体的に考え、提案し、実行していく場です。》
理知的で、謹厳さを纏い、その発言や姿勢は高校生とは思えぬ程に完全無欠。
その一方で。
陽向の脳裏に、まったく別の姿が浮かぶ。
二人きりの図書室。
ゆらゆらと身体を揺らしながら、嬉しそうに抱きしめてくる腕。
尻尾が見えるんじゃないかってくらい、全身で喜びを表現するあの顔。
「陽向〜」と甘える声。
「寂しい…」と耳を垂らすみたいな声。
そのギャップが、頭の中で同時再生される。
《もし現在、立候補を検討している生徒がいるのであれば、どうかこの機会を逃さず、今週中に所定の手続きを行ってください。》
思わず。
無意識に。
ボソッと。
頭にポンと浮かんだその文字が、瞬間的に口からすり抜けた。
「生徒会長の先輩は、私の可愛い犬系彼氏。」
──……良きっ!!!!
陽向の脳内で花火が上がる。
(このタイトルで少コミ一本いけるわ。)
俊ちゃんにクリティカルヒット過ぎる。
破壊力えぐい。
尊い。
尊死。
陽向の肩が、ぷるぷると小刻みに震える。
ギャップ萌えの暴力に一人悶絶して死にかけている。
「陽向。全校集会中に少女漫画の題名みたいな独り言やめて。」
咲の冷静な突っ込みが横から入った。
《続いて、本日は生徒会より一点、ご報告があります。》
その声に、陽向の肩がピクリと揺れる。
(報告……?)
連休前の役員会議で共有されたのは、総選挙の周知だけだったはず。
《現在、本校の校則に関して、いくつかの項目について見直しの検討を開始しております。》
体育館の空気が、わずかに揺れる。
ざわめきは起きない。
けれど、生徒たちの呼吸が、同時にひとつ浅くなったのが分かる。
三年生女子の誰かの眉間に力が籠った。
《社会は今、急速に変化しています。多様な価値観、多様な文化背景、多様な生き方が尊重される時代へと移行しています。》
俊輔の声は、淡々としている。
熱をむやみに煽らない。
それでも、一語一語が、確かな温度を持って落ちていく。
《本校は国際高校として、日常的に異なる言語や文化、思想に触れる環境にあります。そのような環境に身を置く私たちが、従来の一律的な基準のみに依拠し続けることが、果たして適切なのか。》
視線が、全校生徒へ向けられる。
まっすぐ。
逃げない目。
その奥には、静かに燃え続ける炎がある。
《例えば、髪色や肌の色に関する規定について。それが個人の尊厳や文化的背景とどのように関わるのか。無意識の偏見や差別を内包していないか。》
多様性を語るなら、その重さも引き受ける覚悟がいる。
自由を求めるなら、その結果も自分で背負える強さがいる。
俊輔は、それを分かった上で言っている。
《これらは、単なる“緩和”の問題ではなく、私たちがグローバル社会へ向けて、どのような学校を目指すのかという、本質的な問いであると考えています。》
揺るがない。
ぶれない。
逃げない。
誠実な正論と。
全校生徒たちの未来への成長と。
世界への飛躍への揺るがない熱い想いを掲げて。
《生徒会では、意見ボックスに寄せられた声や、各学年からの提案をもとに、教職員の皆様と段階的に協議を開始していく予定です。》
(……は?)
陽向の頭に、でっかいハテナが浮かぶ。
《現時点では、即時の変更をお約束する段階には至っておりません。しかしながら、“議題として正式に検討を進めていく”ことについては、学校として合意を得ております。》
(いや知らんけどっ!!)
まるで寝耳に水状態の陽向は、思わず心の中で全力ツッコミ。
《私たちが目指すのは、規律を失うことではありません。世界へ向けて、自らの言葉で考えを発信できる人間。多様性を理解し、他者を尊重しながら、自分の意志を持って行動できる人間。》
俊輔は、書記の橘梨愛から意見ボックスの誹謗中傷についての報告を受け、その日に即動いた。
顧問室の前で、何度もノックする背中。
生活指導部の前で、資料を広げる指先。
各学年主任と、教頭と、机を挟んで真っ直ぐ目を合わせる横顔。
言葉の裏に、どれだけの往復があったのか。
どれだけの扉を叩いたのか。
《その土台となるのは、外見の統一ではなく、内面の成熟であると、生徒会は考えています。》
陽向は、知らなかった。
俊輔がどれだけ“会長”として、正論で戦っていたのか。
《今後も、教職員の皆様と誠実に対話を重ね、慎重かつ前向きに議論を進めて参ります。本件につきましては、改めて進展があり次第、皆様にご報告いたします。》
体育館の高い天井へ向かって真っ直ぐに伸びる声。
その言葉一つ一つが、空気を震わせながら、生徒たちの胸へ落ちていった。
《そして……最後に。》
俊輔の声は、それまでよりもわずかに低くなった。
体育館の天井に反響していた響きが、すっと沈み、空気の密度が変わる。
ざわめきが止まる。
《今年度に入り、生徒会が設置しております意見ボックスへの投函件数が、例年と比較して明らかに増加しております。》
淡々としている。
しかし、その言葉の奥には、確かな問題意識が宿っていた。
(……え……?)
陽向の胸が、ひゅっと音を立てて縮む。
《その内容を精査する中で、匿名という形でしか声を上げられない葛藤や、誰にも打ち明けることのできない精神的負担を抱えている生徒が、少なからず存在しているという現状を、我々は重く受け止めております。》
(なんで……俊ちゃんが……知ってるの……?)
全身の血が、一気にざわつく。
指先が冷たくなり、心臓だけがやけにうるさい。
視界の端で、三年生女子の横顔がかすかに強張ったのが見えた。
俊輔は、静かに息を吸う。
その一呼吸が、やけに長く感じる。
《そこで、生徒会として一つ、改めて周知をさせていただきます。》
体育館の空気が、ぴたりと止まった。
《本校生徒会副会長、星野陽向が、昨年度の総選挙において公約として掲げ、現在も継続して運営しております“心の相談窓口”につきまして、改めてその存在と意義を、全校生徒の皆様へお伝えいたします。》
(…………はーーーーーーーっっっ????)
突然壇上からマイク越しに飛び出てきた自分の名前に、全身が飛び跳ねた。
脳が、一瞬理解を拒否する。
《星野副会長は、日頃より生徒一人ひとりの声に耳を傾ける姿勢を貫き、誠実かつ真摯に対話を重ねて参りました。》
(ちょ……待って……待って……)
鼓動が爆音になる。
《その資質は、単なる役職上の責務を超え、本校生徒の精神的支柱となり得るものであると、私は確信しております。》
その言い回しが、あまりにも公式で、あまりにも重い。
(いやいやいやいやいや!!!!)
《つきましては、悩みや不安、あるいは言語化しづらい違和感を抱えている生徒は、どうか遠慮なく、副会長 星野陽向へご相談ください。》
一語一語、噛み締めるように。
《副会長は、“直接”“対面で”の対話を原則とし、皆様一人ひとりの状況に真摯に向き合います。》
(カオス過ぎるやろーーーーーー!!!!)
陽向の思考が完全にパンクする。
三年生女子の列のあたりで、明らかに空気が冷えた。
さきほどまで余裕を装っていた表情が青ざめて、さっと血の気を失う。
俊輔は、視線をゆっくりと全校生徒へ巡らせる。
その目は、逃げない。
誰か一人に向けたものではなく、しかし確実に“誰か”へ届く目だった。
《また、生徒会で設置しております意見ボックスにつきましては、より相談への導線を明確にするため、設置場所を変更いたします。》
(ちょ、え、まさか……)
《今後は、二年三組教室前、すなわち副会長 星野陽向の所属教室前へ移設いたします。》
(アタオカかーーーーっっっ!!!!)
身体が本気で跳ねそうになるのを、必死で抑える。
視線が、一斉に二年生の列へ突き刺さる。
自分の背中が、焼けるみたいに熱い。
《匿名での投函はこれまで通り可能といたしますが、投函の際は併せて、ぜひ対面相談をご希望いただいて、お気軽に副会長へ直接お声がけください。》
声は、最後まで揺れない。
《本校が目指す“成熟した自治”とは、責任ある自由の上に成立するものです。》
体育館の高い天井へ、真っ直ぐに伸びる。
《互いを支えるための声が集まる場として、本校生徒会において非凡かつ特異、優秀で御膳上等な副会長星野陽向が、誠実、実直、真摯に、悩みを抱える生徒に誠心誠意寄り添いますので、ぜひこの制度を活用していただけることを、生徒会長として、強く願っております。》
そして。
俊輔は、ほんの一瞬だけ、二年生の列を見た。
わずかに目尻が柔らぐ。
その変化に気づけるのは、きっと一人だけ。
ニッコリ、と。
会長の顔で。
《以上で、生徒会からの連絡を終わります。》
陽向は、立ち尽くしていた。
耳の奥が、じんじんする。
「公開告白♡」
追い討ちをかけるように、咲が陽向へ耳打ちした。
全校生徒の前で。
副会長として。
人格保証を、公式に宣言された。
逃げ場も、誤魔化しも、ない。
けれど。
胸の奥に、別の熱が灯る。
誇らしさ。
信頼。
覚悟を託された重み。
“彼氏”としてではなく、“会長”として、
俊輔は、自分の名前を掲げた。
(…おけ……やってやろうではないか……)
あの子犬みたいに甘える人が。
図書室でゆらゆら揺れて抱きしめてくる人が。
今、全校生徒の前で、自分を守るために戦ってくれた。
ざわめきが広がる体育館の中で。
その事実だけで、全身が燃えるみたいに、熱くなった。
(よしっ)
陽向は拳を握りしめて、その口角を釣り上げた。




