第53話 筋道の通らねぇやつは恋する資格なんてねぇ
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後日。
朝の昇降口は、柔らかな春の空気をまとっていた。
磨かれた床に朝日が斜めに差し込み、掲示板のガラスが白く反射している。
今年度生徒会役員一覧。
黒い太字で並ぶ名前の中に、はっきりと刻まれた文字。
副会長 星野陽向
人だかりのざわめきが、波のようにゆらゆらと揺れている。
「へー陽向が副会長?」
「末恐ろしい学校だな」
「会長副会長、最強カップル爆誕じゃんっ♡」
軽い声。
笑い混じりの声。
羨望と冗談が入り混じる空気。
掲示板を見上げる蒼太、朔也、咲の三人の背中にも、そのざわめきはじわじわと染み込んでいた。
その時。
「死ねばいいのに。」
低く、押し殺した声が、騒めきの隙間を縫うように落ちた。
一瞬で空気が変わる。
三人は同時に振り返った。
背後。
三年生女子の集団。
鋭い視線。
掲示板を睨みつける目は、まるでそこに貼られた名前を焼き尽くそうとするみたいに、黒く濁っている。
朝の光が差し込んでいるのに、その周囲だけ、ほんの少し影が濃く見えた。
「…ちっ………」
朔也の舌打ちは、ほとんど反射だった。
胸の奥に、熱いものが一気に駆け上がる。
身体が先に動く。
一歩、踏み出しかけた瞬間。
「おい朔也!」
蒼太の手が、ガシッと腕を掴んだ。
力は強くない。
けれど、止めるには十分だった。
「誰も、陽向とは言ってないだろ」
その言葉に、朔也の呼吸が荒くなる。
理性が、感情に追いつこうと必死に足掻いている。
三年生女子の一人が、こちらの視線に気づく。
一瞬、目が合う。
そして何事もなかったように視線を逸らし、仲間に声をかけて下駄箱へ向かっていった。
残されたのは、ざらりとした不快感だけ。
「下駄箱事件の犯人、絶対今の奴らだろっ!」
咲の声は怒りを含んでいる。
「あ?なに?」
「下駄箱事件?」
朔也と蒼太が振り向く。
「あ、知らない?この前陽向の下駄箱に、大量のゴミ詰め込まれてたんだよ」
一拍。
朔也の顔から、血の気が引いた。
「はぁ!?」
「なんだよそれ!!」
「本人は全く応えてないけどね。むしろクラスでネタになってる」
咲はあっけらかんと言う。
その軽さが、逆に現実味を帯びる。
「……く…っ」
朔也の拳が、ぎゅっと握られた。
「張り込んで…取っ捕まえて……」
歯の隙間から漏れる声。
「ぶっとばしてやるーーーー!!!」
床を蹴る音が、やけに大きく響いた。
(まさか…今日も詰め込まれてたりしねーだろうな……)
嫌な予感が、背中を這い上がる。
勢いよく陽向の下駄箱を開ける。
ガチャ
バサバサバサバサーーーーー!!!!
ゴミが、朔也の足元に雪崩れる。
紙の擦れる音。
ペットボトルが転がる乾いた音。
朔也の視界が、ゆっくりと白くなる。
「…………………。」
朔也の表情は凍りつき、眉間が怒りに震えはじめた。
「えー!?またー!?」
「わっ…くそ陰険だな……」
後からついて来た咲と蒼太も唖然とする。
「えー!星野またじゃん」
「だーりぃー!!」
同級生達は、当たり前みたいにほうきやゴミ箱を取りに走る。
その光景に、朔也の胸がギリ…と軋んだ。
その直後。
「あーーーーーーっっっっ!!!!」
立ちすくむ朔也達の背後から声が響いた。
「ちょっとー!誰あけたのー!!」
陽向は慌ててしゃがみ込み、散らばったゴミを拾い始めた。
その手つきは、慌てているのにどこか落ち着いている。
「…は?」
朔也の怒りが、ついに爆発する。
「こんな事されて、平気な顔してんじゃねぇーよっっ!!!!」
声が、昇降口の天井に跳ね返った。
周囲がしんと静まり、その場の生徒が振り向いた。
「あ!違う違う!」
陽向は顔を上げて、にこっと笑った。
「これは、昨日私が自分で詰めたんだよっ!」
「「「は?」」」
その場の空気に、ハテナが浮かぶ。
「あ!ごめーんありがとー!」
ほうきとゴミ箱を持ってきてくれた同級生に陽向は言う。
「ほうきだけでいいよ!ゴミ箱いらない。ここに全部戻すから」
そして朔也は問い返す。
「お前なんでわざわざ自分でゴミ詰めてんだよ!」
「ふふふ……逆ドッキリ!!」
陽向はゴミを拾いながら楽しそうに続ける。
「誹謗中傷の手紙とかちょいちょい入ってるからさー」
淡々と、自分の下駄箱へゴミを戻していく。
「今日、私が副会長だって張り出されるでしょ?そしたら、また絶対手紙入れて来たり、ゴミ詰めてくるっしょ?」
陽向は、ニヤリと笑った。
「ゴミを詰めようと思って下駄箱開けたら逆にゴミが雪崩れてくるっていうドッキリ仰天びっくり箱!!」
弾けるように、同級生達は一斉に手を叩いて爆笑する。
「えぐー!」
「やばー!爆笑ー!」
笑い声が、悪意の温度を溶かしていく。
そして、みんなで一緒にゴミを集めて陽向の下駄箱へと戻していく。
「私以外の人が下駄箱開けるって事は、絶対それは悪意なわけ。その悪意によってそいつは私が詰めた大量のゴミを自分で掃除しなきゃいけなくなるっていう地獄!笑」
心底、楽しそうな陽向。
朔也は、怒りが空振りする。
そして小さく息をついた。
「こいつをターゲットにするやつが間違いだな…」
「陽キャの塊みたいなやつだもんな…」
朔也の呟きに続いて、蒼太の呟きも落ちた。
「みんなありがとー!みんなの鞄にお菓子のゴミとか入ってない?回収するよー!」
陽向は、パンパンにゴミを詰めた自分の下駄箱を見て、満足そうに頷いた。
誰も使っていない空き下駄箱から上履きを取り出す。
ローファーを履き替える動作は、いつも通り。
「陽向最強っ♡」
咲は嬉しそうに陽向の腕を組んだ。
「あー!楽しみだなー!早く誰か開けに来ないかなー!」
陽向は、本気で笑っていた。
悪意を“怖いもの”から“ネタ”へ変換する力。
それは立ち向かうための、彼女なりの武器だった。
昇降口の朝の光は、もう完全に広がっている。
掲示板に貼られた“副会長 星野陽向”
その肩書きは、微塵も揺れていなかった。
────────。
この日、俊輔は放課後に“海外進学ガイダンス”へ出席していた。
正門へ続く並木道には、部活帰りの笑い声と、砂埃の匂いが混ざっていた。
俊輔がいない帰り道。
陽向は、どこか肩の力が抜けている自分に気づいていた。
朔也、咲、蒼太と四人で並んで歩く足音は、いつもより少し揃っている。
他愛ない話。
軽い笑い。
その空気が、穏やかに流れていた──その時。
「えっ!?戒斗!?」
咲の声が、急に鋭く跳ねた。
正門の横。
校章の入った石柱にもたれ、スマホを見下ろす男子が一人。
他校の制服。
見慣れないブレザーの色。
午後の日差しを背にして立つその姿は、場違いな存在感を放っていた。
名前を呼ばれ、彼は顔を上げる。
「咲…!」
その声には、焦りと苛立ちが混じっている。
陽向は小さく息を飲んだ。
名前だけを知っていた存在が、急に現実になる。
「えっ、戒斗って…確か咲の彼氏!?」
陽向が思わず声を上げる。
「えっ、まじ!?」
朔也が半歩前に出る。
「……………。」
蒼太だけが、無言だった。
胸の奥が小さくざわつく。
その視線は、戒斗の立ち姿から、咲の硬直した肩へと静かに移る。
「…咲……お前──」
戒斗が言いかけた瞬間。
「わざわざ学校まで来ないでよっ!!」
咲の声は、思ったよりも強かった。
その足取りは止まらない。
戒斗の横を、視線も合わせず通り過ぎようとする。
「だったら電話くらい出ろよ!お前が一切LINEの既読もしねーからだろ!」
語尾が荒い。
感情が、抑えきれていない。
「もうあんたから聞く話しなんてなんも無いから!」
その言葉は、切り捨てるようだった。
空気が一瞬、ヒヤッと冷える。
「待てよっ!!」
ガシッ。
咲の腕が掴まれる。
指の食い込む力が、制服越しにもはっきりわかるほど強い。
「やめて…離してよ!」
咲の声が震える。
身体を捻るが、戒斗の腕は離れない。
「ふざけんなよ…俺がここまで来てんのに、その態度はねぇだろ!!」
怒りと焦燥が混ざった声。
握る力が、さらに強まる。
「いた…痛い痛い…!まじ離せって…!」
咲の眉が歪んだ瞬間。
グイッ。
「やめろよ。痛がってんぞ」
蒼太の手が、戒斗の肩を抑えた。
咲に背を向け、そこに壁を作るような動きで静かに間に入った。
声は低いが、感情を削ぎ落としている。
余計な熱を持たない、柔らかみすら帯びた落ちついた声。
「なんだよお前…」
戒斗の目が細くなる。
冷静な蒼太とは対局的に、戒斗の声は鋭い。
「関係ねぇだろ!」
「人んちの学校の前で、痴話喧嘩すんな」
その一言は、淡々としているのに、妙に重い。
陽向の喉がひくりと鳴る。
朔也の拳が、無意識に握られている。
正門付近の空気が揺れた。
通り過ぎる生徒が、足を緩める。
「何様だてめぇ…なんでお前にそんな偉そうに言われなきゃなんねーんだよ!」
戒斗の声が荒くなる。
蒼太は首を横に向け、背後の咲に視線だけを向ける。
「おい咲。こんな奴、今すぐさっさと行って全部話しつけて来いよ。」
その言い方は、突き放すようでいて、守っている。
「お前にこんな奴呼ばわりされる筋合いはねぇし、人の彼女に指図してんじゃねーよ!!」
怒号が弾ける。
空気が、ピリッと張り詰める。
次の瞬間。
「はいはーい!わかったわかった!行く!行くから落ち着いて!ね!」
咲が、慌てて戒斗の腕を引いた。
その手は、強がっているのに、ほんの少し震えていた。
蒼太の目が、一瞬だけ揺れる。
「じゃあ私今日はここで!陽向も朔也も、また明日ねー!」
わざとらしく明るい声。
笑顔も、少しだけ不自然だ。
そして咲は、戒斗と腕を組んで駅の方へ歩いていく。
背中は真っ直ぐ。
でもその歩幅は、少し早い。
四人だった影が、三つになる。
夕陽が、長く伸びる。
数秒の沈黙。
「…………咲の彼氏…ビジュ良!」
「バカかてめー」
陽向が呑気な声で空気を戻し、朔也の乾いたツッコミが飛ぶ。
けれど蒼太の瞳の奥には、さっきの空気のざらつきが、まだ少し残っていた。
────────。
次の日の昼休み。
弁当の匂いと、あちこちで飛び交う笑い声。
ざわざわとした日常の音の中で、朔也、蒼太、咲の三人は、お互いの中間地点である朔也のクラス、二年二組で机を寄せ合って座っていた。
咲はストローをくるくると指で回しながら、ため息まじりに話し出す。
「それでさー、もう何回目だよって。浮気やめられないんだったら、もういい加減別れよ!って言って、インスタもLINEも全部ブロックしたんだよ?それで学校まで来るとか怖くない!?」
怒っているはずなのに、どこか芝居がかっている。
けれど、その奥にはほんの少しだけ、本物の傷が滲んでいた。
「それで?あの後結局どうなったの?」
朔也が箸を止めて聞く。
視線は弁当に落としたまま、声だけが淡々としている。
咲は一瞬、目を逸らした。
「ごめんって言ってきて…それで色々話して………もうしないって約束した」
その言葉に、空気がぴたりと止まる。
「は?どゆこと?」
蒼太が眉をひそめる。
咲は小さく肩をすくめ、笑顔を見せた。
「え、だから、仲直りした♡」
「「はぁーーーーー?」」
二人の声が見事に重なり、周囲の数人が一瞬こちらを振り向く。
呆れと苛立ちが混じった視線を向けながら、朔也は額に手を当てた。
またか。
咲はいつもこうだ。
派手に怒っておきながら、でも最後には許してしまう。
蒼太は小さく舌打ちし、低い声で言った。
「そんな男、咲の事大切にしてねぇだろ。」
その言葉に、咲の視線が揺れる。
「わかってるけど……でも…咲って可愛いしスタイルもいいし超絶モテるけど……それしか取り柄ないからさ」
冗談めかして言ったはずなのに、最後の語尾はわずかに震えていた。
「自分で言うの流石だわ」
朔也がすかさず突っ込むが、その軽さでは誤魔化せない空気がそこにある。
「美人は3日で飽きるって言うし…」
咲は俯いた。
「咲、中身空っぽだから……つまんない女なのかも」
明るくて、強くて、いつも笑っている咲が、ほんの少しだけ小さく見える。
その姿を見た瞬間、蒼太の胸の奥が熱くなる。
言葉にできない苛立ちと、衝動が混ざり合う。
「そんな事ねぇよ!」
思わず声が強くなる。
教室の喧騒が一瞬遠のいたように感じる。
「美人に3日で飽きるやつなんて、相手の中身の本質に興味も持たずに外見しか見てない証拠だろ。」
蒼太はまっすぐ咲を見て続けた。
「大前提として、付き合ってる彼女がいるのに他の女と浮気するなんて、男の風上にも置けないような筋道の通ってねぇやつが、咲と付き合う資格なんかねぇ。」
ビシッと、人差し指が咲に向けられる。
「だってお前は空っぽじゃない。ちゃんと一途で、自分の気持ちをしっかり持ってる。」
真剣な目だった。
茶化しも、照れもない。
咲の胸の奥に、じわりと温かいものが広がる。
今まで自分を“外側”でしか評価されてこなかった気がしていた。
可愛いとか、スタイルいいとか、モテるとか。
でも今、蒼太は自分の“中身”を見てくれている。
「蒼太……」
咲の声が、少しだけ柔らかくなる。
そして。
「“顔が可愛い上に”が抜けてる。」
その空気を壊すように、朔也がさらっと言う。
「頭はバカだけどな。」
「だる!!」
咲が即座にツッコミ、三人の間に笑いが戻る。
けれど、さっきまでとは少し違う。
咲の胸には、小さな灯りが残っていた。
“空っぽじゃない”と言ってくれた声。
それは、浮気男の甘い謝罪よりも、ずっと真っ直ぐで、ずっと強かった。




