第95話 在校生と卒業生、代表
《続きまして、在校生代表による送辞です。在校生代表、星野陽向さん。》
「はい。」
陽向は、司会の声にまっすぐ返事をした。
体育館に、その一音だけが凛と落ちる。
背筋を伸ばし、ゆっくりと立ち上がる。
足元の床は、いつもより少し硬く感じた。
一歩、また一歩。
壇上へ向かうたびに、胸の奥で心臓が大きく鳴る。
卒業式の体育館は、静かな緊張に包まれていた。
整然と並んだ椅子。
胸元に花をつけた三年生たち。
壁際に並ぶ先生方。
後方から見守る保護者たち。
いつもは賑やかなこの場所が、今日だけは別の場所みたいに、厳かで、少しだけ遠く感じられた。
マイクの前に立つ。
スッと顔を上げると、これまで学校生活を共に過ごしてきた三年生の先輩たちの視線が、一斉に陽向へ向けられていた。
その瞬間、胸の奥がきゅっと痛む。
喉の奥から、涙が込み上げそうになる。
胸の中にいるたった一人を見つけた瞬間全てが崩れてしまいそうで、慌てて視線を手元に落とした。
彼のことは、探さない。
そう自分に言い聞かせて、陽向は原稿を握る指先に力を込めた。
そして、息を吸った。
《本日ご卒業を迎えられた三年生の皆様、ご卒業おめでとうございます。そして、これまで温かくご指導くださった先生方、ご家族の皆様にも、在校生一同、心よりお祝い申し上げます。》
声は、思っていたよりも静かに響いた。
自分の声が、体育館の高い天井へゆっくり昇っていく。
その音を聞きながら、陽向は少しだけ覚悟を決める。
《こうして体育館に集まり、三年生の皆様の門出を見送るこの時間を迎えていることが、どこかまだ実感できずにいます。
胸に広がるのは、言葉にしきれない寂しさと、感謝の気持ちです。
ついこの前まで、廊下ですれ違い、当たり前のようにそこにいらっしゃった先輩方が、もうこの学校を巣立っていかれる。
その声も、その笑顔も、その優しさも。
全てが遠い記憶の中へと消えてしまう事が、正直自分の中で受け止めきれません。
三年生の皆様は、私たちにとっていつも少し先を歩いている存在でした。
役員活動での真剣な姿、行事に全力で取り組む姿、そして日々の何気ない学校生活の中で見せてくださった優しさや強さ。
その一つひとつが、私たちにとって大きな支えであり、目標でした。
誤った選択をしてしまいそうだった時、挫けそうな時、失敗をしてしまった時には、いつも先輩方が優しく、正しく、どんな時でもその手を差し伸べてくれて、何度でも立ち上がる事が出来ました。
先輩方がいてくださったこの学校が、私たちにとってどれほど心強い場所だったのか、今になって強く感じています。
けれど、その姿の裏に、私たちには見えていなかった努力や悩みがあったことも、少しずつ分かるようになってきました。
簡単なことばかりではなかったはずなのに、それでも前を向き続けていた先輩方の背中は、本当に大きく、そしてあたたかいものでした。
そうした先輩方の姿を間近で見て、私たちは「こんなふうに在りたい」と、思うようになりました。
これからは、私たちがその背中を追いかける番です。
先輩方が残してくださったものをしっかりと受け取り、この学校をさらに良い場所にしていけるよう、在校生一同、力を合わせて努力していきます。
三年生の皆様がそれぞれの道へと進まれるこれからの未来が、輝かしく、希望に満ちたものでありますように。
そして、この場所で過ごした時間が、思い出が、これから先の支えとなることを心から願っております。
最後になりますが、三年生の皆様のこれからのご活躍とご健康をお祈りし、感謝の気持ちを込めて、送辞とさせていただきます。
令和○年3月10日在校生代表 星野陽向》
陽向はそのまま、視線を前には向けなかった。
胸の奥で、まだ何かが揺れている。
さっきまで必死に押し込めていた感情が、拍手の音に触れるたび、少しずつほどけていく。
俯いたまま、静かに一礼をした。
一歩、また一歩。
壇上の階段を降りるたびに、足元の感覚が曖昧になる。
ちゃんと歩けているのかもわからないまま、それでも、転ばないようにだけ意識して。
瀬戸晴翔、橘梨愛、水野慧。
そして俊輔も───
静かに手を叩きながら、微笑んでいた。
あんなに感情的で、常識破りで。
誰よりも騒がしくて、誰よりも不器用な彼女が。
崩れそうになりながらも、何度も何度も飲み込んで。
“在校生代表”として。
その役員を立派に全うしようと、最後までちゃんと立っていた。
その姿は、誰の目にも、凛としていて。
誰よりも、強く、逞しく映っていた。
——よく頑張ったね。
そんな言葉を胸に、涙が今にも零れそうになるのを、俊輔はただ飲み込む。
拍手が、ゆっくりと鳴り止んでいく。
余韻だけが、空気に残る。
陽向が列へ戻り、静かに腰を下ろした、その瞬間。
《続きまして、卒業生代表による答辞です。卒業生代表、藤崎俊輔さん。》
司会の声が、澄んだ空気の中へ落ちた。
「はい。」
短く、まっすぐな返事。
俊輔は滲んだ涙を拭い、立ち上がる。
この学校で何度も壇上に立ち、その役割を果たしてきた。
生徒会長としての、最後の役目。
その事実が、胸の奥で静かに響く。
整然と並ぶ椅子の間を抜け、視線を受けながら、ゆっくりと歩き出し、その壇上へ。
マイクの前に立つ。
視線を上げたその先には、三年間を共に過ごしてきた仲間たち。
先生方。
保護者。
その瞬間。
壇上の陽向と、視線が合わなかった理由がわかった。
陽向は俯いて、一度もこちらを見なかった。
一瞬だけ、胸の奥が揺れる。
そして決めた。
陽向がそうしたように。
自分もまた、“代表”として立つ。
巡る想いを、すべて胸の奥に押し込めて。
静かに、息を吸う。
《本日、私たち卒業生のために、このような立派な式を挙行していただき、誠にありがとうございます。
校長先生をはじめ、諸先生方、そしてこれまで私たちを支えてくださったすべての方々に、卒業生一同、心より感謝申し上げます。》
その声は、真っ直ぐだった。
揺れも、滲みも、感じさせないほどに。
陽向は在校生の列の中で、顔を上げることが出来なかった。
ただ、俯いて、目を閉じる。
それでもマイク越しに届くその声は、どこへも逃げ場を与えてはくれない。
耳に落ちると、それだけで胸の奥がほどけてしまいそうになる。
柔らかくて。
温かくて。
いつでも変わらない——大好きな声。
《振り返れば、三年間は長いようで、あっという間の時間でした。
入学したばかりの頃は、新しい環境に戸惑いながらも、ただ目の前のことに必死で、毎日を過ごしていたように思います。
やがて学校生活に慣れ、友人と過ごす時間が増え、何気ない日常が当たり前になっていきました。
教室で交わした他愛のない会話、放課後の帰り道、行事の準備で遅くまで残った日々。
その一つひとつが、今ではかけがえのない思い出となっています。》
体育館の空気が、ゆっくりと揺れる。
教室のざわめき。
放課後の笑い声。
夕焼けの帰り道。
頭の中に、光景が浮かぶ。
《楽しいことばかりではなく、悩み、迷い、立ち止まることもありました。
自分の進路に向き合う中で、不安を感じた日も少なくありません。》
苦しくて、踏み出せなくて、勇気が欲しくて。
そんな時に背中を押してくれた、その手。
“代表としての役割”の中で、胸の奥に静かに沈んでいたものが、少しずつ浮かび上がってくる。
《それでも、隣にはいつも仲間がいて、前には支えてくださる先生方がいて、そして背中を押してくれる家族がいて───》
——そこで。
ほんの一瞬、言葉が止まった。
《いつも側に、大切な人がいてくれました。》
その言葉に、陽向はハッと反射的に顔を上げた。
視界に映る───俊輔。
光を受けて、静かに立つその姿。
整いすぎた輪郭。
凛とした立ち姿。
眩しい。
完璧過ぎるほど格好良い。
どんな時でも、心を奪っていく。
大好きで、どうしようもなく、好きで堪らない——私の王子様。
《何か特別なことをしていたわけじゃなく、いつも同じ場所にいて、同じように過ごしていて、同じように笑い合っていたあの時間が、ずっと続けばいいのにと、どこかでずっと思っていました。》
その言葉は…………反則だ。
胸の奥に、真っ直ぐ突き刺さる。
耐えきれない。
堪えられない。
陽向の瞳から、涙が溢れた。
今日は、泣かないと決めていたのに。
もう——無理だった。
《明るい笑顔も》
俊輔は、原稿に視線を落としたまま。
けれど、その奥では、鮮明に浮かんでいる。
《楽しそうな声も》
あの無邪気な笑い方。
ころころ変わる表情。
全部が恋しくて、愛しくて。
どうしても、抑えきれなくなった。
ゆっくりと、顔を上げて。
思わずその姿を探してしまう。
《その一つひとつに触れている瞬間が、どれだけ大切な時間だったのか》
列の中。
すぐに、見つけた。
涙で滲んだ瞳。
目が合った瞬間、それでも笑おうとする顔。
あどけなくて無防備で。
眩しい。
狂おしいほど可愛い。
どんな時でも心を奪っていく。
大好きで、どうしようもなく、好きで堪らない——僕のお姫様。
《その存在に、どれほど救われてきたか》
言葉に乗せながら、柔らかく笑って。
その瞬間。
静かに──────。
俊輔の頬から、一筋の涙が伝った。
《今それを、改めて感じています。》
真っ直ぐに。
優しい眼差しで、陽向を見つめる。
陽向も頬を濡らして、涙が溢れる瞳で、同じように俊輔へ微笑み返した。
《在校生の皆さん。私たちがこの学校で過ごしてきた時間は、皆さんへと繋がっていきます。これからもこの学校を大切に、それぞれの場所で──》
完璧な俊輔が流した一筋の涙。
それは、この場にいる生徒達全員の胸を震わせた。
《”自分らしい自分”で。“ありのままの自分”に自信を持って、歩んでいってください。》
陽向と出会って、本当の自分と出会えた。
エリートとしての「義務」ではなく、一人の人間としての「感情」を。
君が教えてくれたから。
《そして、共に過ごした仲間へ。同じ時間を分かち合い、支え合い、ここまで来ることができたことを、心から誇りに思います。》
眩しい日々に。
かけがえのない青春に。
全てに、心からの感謝を込めて。
《今日、私たちはこの学び舎を巣立ちます。それぞれ違う道へ進みますが、この場所で過ごした日々が、これから先の支えになると信じています。
最後になりますが、これまで私たちを支えてくださったすべての方々に、改めて感謝申し上げるとともに、この学校のますますの発展をお祈りし、答辞とさせていただきます。
令和○年3月10日卒業生代表 藤崎俊輔》
俊輔の最後の一音が、静かに体育館の空気に溶けていく。
言葉が終わったはずなのに、すぐには何も起きなかった。
誰も、動けなかった。
まるで、その余韻を壊してはいけないとでもいうように——
体育館全体が、息を止めている。
その静寂を破ったのは、ひとつの拍手だった。
パチ……。
それは小さくて、ためらうようで、けれど確かな音だった。
続いて、もうひとつ。
パチ……パチ……。
やがて、それは波紋のように広がっていく。
パチパチパチパチパチ———
拍手は、瞬く間に体育館全体を包み込んだ。
音が、膨らんでいく。
重なって、重なって、空気を震わせるほどに。
それは、ただの形式的な拍手ではなかった。
在校生代表と、卒業生代表の、悲痛なまでの純粋な愛。
送辞と答辞に乗せて。
誰かの胸の奥に触れた言葉への、まっすぐな返答だった。
俊輔は、その音の中で、ゆっくりと一礼をした。




