第94話 忘れがたき、ふるさと
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そして——
陽向と俊輔は、残された時間をひとつも取りこぼさないように、丁寧に、噛み締めて、確かめるように過ごしていた。
学食で笑い合う昼休み。
スイーツを食べに行く放課後。
週末は、ショッピングや本屋さん、映画館やプラネタリウム、水族館や動物園。
二人きりでくっつき合う学校の図書室。
同じ帰り道を歩くことも、同じ空気の中で笑うことも、その全部が、もうすぐ“終わるもの”だと知っているから——
何気ない一日が、やけに重く、やけに愛おしかった。
放課後の図書室。
西日が、長机の上に細く差し込んでいる。
ページをめくる音と、遠くの部活の掛け声だけが、静かに重なっていた。
その中で。
「え?regularの結果って、3月中旬なの?」
陽向の声が、小さく空気を揺らす。
「そうだよ。言ってなかったっけ?」
俊輔は、手元の本から視線を上げる。
「3月とは聞いてたけど、勝手に3月頭かと思ってた!中旬だったら卒業したあとじゃん!」
「そう…なるね」
その一言で。
“その時、もう隣にいない”という現実が、はっきりと輪郭を持つ。
陽向の指先が、机の上でわずかに止まった。
「引っ越しの日って決まった?」
何気ないふりをして、問いかける。
けれど声の奥は、少しだけ固い。
「卒業式の日、当日夜の便で行く事になった。」
「えぇっ!?」
思わず声が跳ねる。
「そんなすぐっっ!!??」
現実を拒むみたいに、言葉が速くなる。
「だったらregularの合否、向こうに行ってからじゃん!!」
俊輔は、少しだけ間を置いた。
その沈黙が、やけに長く感じる。
「……結果…LINEする事も出来るけど………」
言いかけて、ほんの少しだけ、迷う。
「………陽向が……………連絡していいなら………」
その言葉は、許可を求めるような形をしているのに。
どこか、なにかに恐れているような響きだった。
——別れたあと。
メッセージが届く。
たったそれだけで、きっと。
画面越しに、彼の存在が、現実を侵食してくる。
文字を見れば、声を聞きたくなる。
声を聞けば、会いたくなる。
会いたくなれば——
戻れない距離を、突きつけられる。
もう会えない現実の中で、“まだ繋がっている錯覚”だけが、心を締め付ける。
それが、どれだけ苦しいか。
彼の居ない日常で、彼の影が差し込んだ瞬間、それに縋りついて、心が押し潰されるのは既にわかっている。
それがもう、あまりにも鮮明に想像出来てしまうから。
だから——
「それはやめておこう。」
「だよね。」
落とした声は、きっぱりとしていた。
その奥にある覚悟を、俊輔はちゃんと受け取っていた。
陽向が抱えている恐怖は、俊輔も同じだった。
「僕も…全落ちしてたら気まずくて連絡出来ないよ。」
空気を軽くするように、少しだけ冗談めかして言う。
「えーーー!!でも気になるーーー!!」
陽向が、いつもの調子で声を上げる。
明るく、さっきまでの空気を壊すみたいに。
俊輔は、いつも通りの穏やかな声で続ける。
「学校にはすぐに知らせが行くから、始業式の日に先生に聞いてくれればわかるよ」
「まじ!?本当に?」
「……落ちてても暴れないでね」
「なんでそんな消極的なの?俊ちゃんならどこかしら受かってるっしょ」
迷いのない言葉。
俊輔は、小さく笑う。
「……だと思うんだけど。結果が出るまではわからないからさ。」
窓の外では、夕焼けがゆっくりと沈んでいく。
橙色から、群青へ。
その移ろいみたいに。
二人の時間も、静かに、確実に——
終わりへと近づいていた。
「陽向……」
俊輔は、少しだけ間を置いてから名前を呼んだ。
いつもよりも低くて、どこか慎重な声。
「卒業式当日は、二人でゆっくり過ごせないと思うから…」
言葉を選ぶみたいに、ひとつずつ区切っていく。
「前の日に最後、学校終わってからどこか出掛けようか?」
「……………。」
陽向は、すぐには返事が出来なかった。
“最後の日”
その言葉が、胸の奥に静かに落ちてくる。
今までずっと、遠くにあるものみたいに思っていた“別れ”が、急に、目の前の距離まで近づいてきた気がした。
喉の奥が、少しだけ詰まる。
握り合う手のぬくもり。
俊輔の膝の上の体温。
夕焼けに染まる綺麗な横顔。
ふと、“終わるもの”として輪郭を持つ。
「…………図書室がいい。」
ぽつり、と落ちた声は思ったより小さかった。
「放課後にどこか行くより……」
言葉を探しながら、少しだけ視線を下げる。
「最後の日は……俊ちゃんと初めて会った図書室で、ゆっくり二人で過ごしたい。」
特別な場所でも、特別なことでもない。
でも⸻
二人にとって、全部の始まりだった場所。
俊輔は、少しだけ目を細める。
あの日のことを思い出すみたいに。
陽向が、本に俯いてばかりで中々顔を上げなかったこと。
声をかけた時の、驚いた表情。
そこから、全部が始まった。
「…………そうだね。そうしよう。」
笑顔で頷いた。
図書室の中に、沈みかけた光が差し込む。
長く伸びた影が、二人の足元で静かに重なっていた。
その静けさの中に、確かにあった。
“終わってしまう時間”と。
“ずっと一緒にいたい気持ち”が。
────────。
時の流れは、どうしてこんなにも残酷なんだろう。
どれだけ願っても、どれだけ引き止めても——
止まることなんて、最初から許されていないみたいに。
そして。
ついに、“その日”が来た。
ガラッ——
いつもと同じ勢いで、図書室の扉を開く。
いつもと同じ空気。
静かで、柔らかくて、心から安心出来る空気。
「おいで。」
窓際の、いつもの席。
西日を背にして座る俊輔が、優しく両腕を広げる。
迷う理由なんて、ひとつもない。
「お待たせっっ!!!」
駆け寄って、そのまま飛び込む。
ぎゅうぅぅぅ———
触れた瞬間、息がほどける。
何度も、何度も繰り返してきたこの感触。
この温度。
この距離。
図書室で会った瞬間、すぐにぎゅっと抱きしめ合うのも、当たり前に続けてきたいつもの習慣。
そのまま、自然に膝の上に乗る。
それもまた、いつも通りの“定位置”。
「明日の卒業式、在校生代表の送辞読む時、大号泣して読めない気しかしないんだけど。」
「読めなくなるほど大号泣する人って、あんまりいないと思うけど」
「でも原稿書いてる時、既に大号泣し過ぎて書けなくなるほど嗚咽してた」
「そんなの陽向だけだよ…」
少しだけ笑う。
会話をしながらも、膝の上に陽向を抱えている俊輔の身体は、ゆっくりと左右に、ゆら…ゆら…といつものように揺れている。
付き合った当初からずっと続いてきた安心出来るこの揺れが、陽向は心底心地よい。
「陽向の書く文章や演説はすごくエモいから……それで陽向に大号泣されたら、その直後に僕が卒業生代表の答辞読む時に、僕まで大号泣しちゃうよ。」
「いいじゃん。一緒に壇上で大号泣しよ!」
「それは流石に恥ずかしいな……」
くすくすと、笑いがこぼれる。
図書室に、いつもの空気が広がる。
変わらない会話。
変わらない距離。
変わらない時間。
——このままずっと続いていくみたいな、当たり前の空間。
卒業式の話。
進路の話。
テストの話。
友達の話。
本の話。
言葉を繋ぎながら、時間を引き延ばすみたいに。
気づけば、図書室はすっかり夕焼けに包まれていた。
窓の外が、ゆっくりと橙に染まっていく。
その光が、机の上を、床を、二人の影を、長く伸ばしていく。
——沈んでいく。
胸の奥に、じわじわと影が落ちる。
その瞬間。
17:00に自治体が流す夕焼けのチャイムが鳴った。
遠くから耳に落ちる“夕焼け小焼け”のメロディ。
(……やだ………)
心のどこかで、幼い声がする。
(…やだやだ………終わらないで…………)
太陽、お願い。
沈まないで。
時間、止まって。
あと少しだけでいいから。
けれど、時計の針は、容赦なく進む。
最終下校、18:00。
その数字が、現実として、静かに近づいてくる。
こんなにも。
時間が怖いと思ったことは、なかった。
会話が、少しずつ減っていく。
さっきまで無理やり繋いでいた言葉たちが、ひとつ、またひとつ途切れていく。
沈黙が、隙間に入り込む。
それをごまかすみたいに、また言葉を探す。
夕焼けが沈むのと同じ速さで、二人の空気も、ゆっくりと沈んでいく。
「…………明後日から……」
ぽつり、と。
陽向の声が、落ちる。
「俊ちゃんがいないなんて……実感湧かないな。」
なるべく、軽く。
わざと、いつも通りに。
「だって俊ちゃんと違って、私は家も学校も変わらないし!」
少しだけ、早口になる。
「同じ場所で、同じ毎日を、同じように過ごすだけだもんっ」
同じ通学路。
同じ校舎。
同じ廊下。
同じ学食。
同じ生徒会室。
同じ、図書室。
——全部、変わらない。
でも。
いつも隣に。
当たり前にあった存在が。
ひとつだけ、消えてしまう。
そこだけぽっかりと穴が空いたみたいに。
「……陽向………」
俊輔の声が、低く落ちる。
その名前を呼んだけで、全部が崩れそうになる。
陽向が明るく笑っているその顔が、逆に苦しくて。
見ていられなくて。
気づいたら、腕が伸びていた。
ぎゅっ、と。
強く、抱きしめる。
「……………………ごめん………っ」
小さく、こぼれる。
抑えきれなかった。
もう、無理だと。
このまま、何もなかったみたいに笑っているなんて、出来ないと。
「………っ」
触れられた瞬間。
堪えていたものが、決壊する。
ぽろぽろと、涙が溢れる。
止まらない。
止められない。
陽向も、同じように腕を回す。
ぎゅう、と。
壊れそうなくらい、強く抱きしめ返す。
何度も感じてきた、この温もりに。
この鼓動に。
この距離に。
縋りつくみたいに。
離したくないと、願うみたいに。
——終わるなんて、嘘だって言って。
わかってる。
どうにもならないってことくらい——
最初から、ちゃんとわかってた。
恋人になった、その瞬間から。
この恋には、終わりがあるって。
ずっと、決めてた。
“応援する”って。
“笑顔で送り出す”って。
そうしないと、彼を困らせるから。
彼は、前に進む人だから。
未来へ行く人だから。
離れるって、約束した。
“一年で別れる”。
それが私たち二人の最初の約束だった。
だから、わがままなんて言っちゃだめ。
泣いたらだめ。
困らせたらだめ。
ちゃんと、最後まで“いい彼女”でいなきゃいけない。
……そう思ってたのに。
この時間が。
この距離が。
この温もりが。
「………俊ちゃんと……っ…」
声が、うまく出ない。
喉の奥が詰まって、息が震える。
それでも、止められない。
「……離れたく……ないよ…っ」
堪えていたものが、こぼれる。
変えられないって、わかってるのに。
こんなこと言っても、意味なんてないって。
むしろ、困らせるだけなのに。
止まらない。
涙が、頬を伝う。
呼吸が、うまく出来ない。
でも。
わかってるから。
叶わないって、わかってる。
願っても意味がないって、わかってる。
もう会えないってことを、ちゃんと理解してるから。
全部…………受け入れるよ。
だから、せめて——
最後くらい。
「…ずっと……ヒック……」
声が、崩れる。
言葉にならないまま、それでも必死に掴む。
「……俊ちゃんと……一緒にいたいよぉ…っ」
ただの——
“最後のわがまま”言わせてね。
「…グス…っ…行がないでぇ…ぅぅっ……俊輔ぢゃん…ずっど……ずっど側にいでよぉ…っ」
言うだけだから。
ちゃんと、諦めるから。
望まないから。
明日はちゃんと、約束守るから。
陽向を抱きしめる腕が震える。
それでも離したくなくて、壊れそうなほど強く、きつく抱きしめる。
胸の奥が、ギリギリと軋む。
息を吸うたびに、鋭く痛んで、吐くたびに、何かが削れていく。
心も、全身も、引き裂かれるような激しい苦しみに、喉の奥が焼けて、言葉は崩れて、俊輔は、もう嗚咽しかこぼせない。
「………っ僕だって…っ……グス……陽向の側にずっといたい……」
息がうまく吸えない。
視界が、滲んで、歪んで、何も見えない。
こんな感情を、ずっと知らなかった。
胸の奥が、焼けつくような。
一気に、火をつけられたみたいに。
触れたもの全部を焦がしていくような、どうしようもないほどの激しい恋。
ずっと誰かに求められて、選ばれ続けてきた。
それなのに。
こんなに狂おしい程に、ただ一人を。
求めて、求めて、求めて。
どんなにきつく抱きしめても。
”足りない”と、思う日が来るなんて。
「…このまま…っ…陽向と離れるなんて……嫌…だよ…っ…グス…」
当たり前に決められていた、当たり前の未来。
その全部を、今この瞬間、全部投げ捨ててしまいたいと——思う日が来るなんて。
「………ずっど…グスッ…ごの先も……陽向ど一緒じゃなぎゃ……」
運命に抗いたいなんて。
そう思う日が来ることを、想像した事もなかった。
「…陽向が……っ居てぐれなぎゃ……ヒック……無理だよ……っ……」
腕に込める力が、さらに強くなる。
逃がさないみたいに、縋りつくみたいに。
止めどなく溢れる涙は、お互いの頬を、首を、肩を、胸を濡らしていく。
避けられない運命。
残酷な未来。
交わした約束。
全部、わかっているのに。
全部、受け入れると決めていたのに。
それでも——
どうしても、手放したくない。
何もかもを捨てる程の勢いで、二人は想いの全てをぶちまけた。
「あああぁぁぁぁぁ──────」
抑えきれなかった感情が、喉の奥から溢れ出す。
声にならない叫びが、静かな図書室に響いて、夕焼けの光の中で、ゆっくりと、崩れていった。
時刻は、18:00。
最終下校のチャイムが遠くで鳴り終わり、その余韻だけが、静まり返った校舎にかすかに残っていた。
図書室の窓の向こう、遠くの空は、まだわずかに暁を残しながらも、ゆっくりと群青へと沈みかけている。
夕方でも夜でもない、境界の色。
その曖昧な光が、長机と本棚の間に細く差し込み、二人の影を、静かに、長く引き伸ばしていた。
静寂の中、二人は動けない。
俊輔の膝の上。
陽向は抱きしめられたまま、力無く身体を預けている。
俊輔の腕は、それを一切離す気配もなく、むしろ時間が経つほどに、わずかに強くなっていくようだった。
二人とも、同じ方向を見ていた。
遠くの、もうすぐ消えてしまう空を。
言葉は、なかった。
けれど、その静けさの奥で、互いの呼吸だけが、かすかに重なっていた。
やがて——
「…………うーさーぎーおーいし………かーのーやーまー……」
陽向の声が、ぽつりと、空気に落ちた。
それは、童謡の「ふるさと」だった。
これは、遠くの夢として。
時が流れて、二度とは戻れない昔のふるさとを、そっと想い出の中で抱きしめる歌。
途切れそうで、でも途切れないその声が、図書室の静寂に、ゆっくりと溶けていく。
うさぎ追いしかの山
小鮒つりしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき故郷
ずっと待ってるなんて言わない。
いつか帰ってきてなんて言わない。
ただ、大人になった先の未来で、いつかふと私のことを思い出して。
懐かしんでくれたら嬉しいな。
「………わーすーれーがーたきー……ふーるーさーとー……」
最後の一音が、静かに消えていく。
陽向が歌い終わると、再び図書室に静寂が落ちた。
「……どうして…ふるさと?」
俊輔は優しく問いかけた。
「…私は……俊ちゃんのふるさとになれたら嬉しいなって…思って…」
柔らかく笑って、俊輔の瞳を見つめた。
その笑顔は、儚い。
「陽向の全部を、忘れない。」
俊輔の手が、ゆっくりと陽向の頬へ伸びる。
「明るい声も、元気な笑顔も、不器用だけど誰よりも真っ直ぐなところも………いつまでもずっと思い出す。」
陽向も、同じように手を伸ばした。
指先が、俊輔の頬に触れる。
「……忘れないで………俊ちゃんとの全部が、私の一生の宝物だから……」
そのままそっと、ゆっくり立ち上がる。
「……ずーっと……ずっと………」
陽向の言葉が、ほどける。
頬に触れた手は、そのままに。
ゆっくりと——
顔を、寄せていく。
「大好きだよ」
静かに。
そっと。
唇が、重なった。
二人が想いを通わせて、初めてのキスだった。
ずっと遠くて。
届かなくて。
もどかしくて。
それでも堪らなく欲しかった。
俊輔の腕が、きつく陽向を抱き寄せる。
離したくない、と言葉にする代わりに。
陽向も、応えるように俊輔の首に腕を回す。
胸を激しく燃やし尽くすような焦げる感覚。
あんなに怖かったはずの距離が、こんなにも温かいだなんて。
信じられない。
離れたくなくて。
求めるように。
何度も、何度も。
互いの唇の感触を刻み込むように、繰り返し重ねる。
俊輔が離せば、陽向が追いかける。
陽向が離せば、俊輔が引き寄せる。
言葉よりも正直な、触れ方。
陽向の頬に、涙が伝う。
俊輔と交わす初めての。
夢にまでみた、幸せなキスなのに。
これは──別れのキス。
最後のキス。
離れられない二人。
長く、長く続いたその時間は、まるで世界から切り離されていたみたいで。
やがて——
静かな廊下の奥から、用務員の見回りの遠い足音が近づいてくる。
現実が、ゆっくりと戻ってくる。
それでも、二人は。
最後まで——
お互いの唇を、離さなかった。




