第93話 青かろうと若かろうと、男だ
生徒会室の扉が、静かに閉まる。
さっきまで満ちていたざわめきがそこでふっと断ち切られて、廊下には、冬の静けさだけが残った。
白い光が、長く伸びる廊下を斜めに照らしている。
窓の外の空は、もう夕方の色に沈みかけていて、どこか時間が急かしてくるような冷たさを帯びていた。
橘梨愛は、その光の中を歩きながら、ぐっと背中を反らして小さく伸びをする。
「はぁ〜あ、追い出されちゃったし。ポンコツ副会長の言う通りにラピスカフェのプリンパフェでも食べに行こうかな」
一歩後ろを歩いていた阿久津孝明が、すぐに応じる。
「いいですね。橘先輩の青春に付き合いますよ」
あまりにも自然に言われて、梨愛の足がほんの一瞬だけ止まりかける。
一瞬の間。
そして、首だけ振り返る。
「…………奢らないよ?」
「わかってますよ!!」
橘梨愛はふっと小さく笑って、そのまま歩き出した。
ラピスカフェ。
ガラス越しに差し込む夕焼けの光が、店内を柔らかく染めている。
温かい照明と、食器の触れ合う小さな音。
外の冷たさとは別の、ゆるやかな時間が流れていた。
向かい合って座る二人の間には、食べ終えたプリンパフェのグラス。
底に残ったカラメルが、光を受けて静かに揺れている。
ストローで氷を軽くかき混ぜながら、橘梨愛は何気なく視線を落としていた。
「てか橘先輩って……」
阿久津孝明は、素朴な疑問をぶつけた。
「星野先輩に意地悪とかしないんですね」
「はっ!?」
思わず顔を上げる。
そして、すぐに目を細めながら肩をすくめた。
「なんでわざわざそんなことすんの?」
「…いや…女子って嫉妬とかで僻んだりするじゃないですか」
その言葉を受けて、梨愛はグラスの中の氷を、くるりと回した。
カラン、と小さな音が鳴る。
胸のどこかが、ちくりと疼いた。
「…………そんなことしたって…なんの得になるの?業務に支障が出るし、仕事がスムーズにいかないでしょ。」
視線は、まだグラスの中。
淡々とした言葉。
「わざわざそんな生徒会の輪を乱すような事しないでしょ」
綺麗に整っていて、隙がない。
そんな中、阿久津孝明はケロッと続ける。
「でも瀬戸副会長の星野さんへの厳しさは、藤崎会長ラブから来る嫉妬ですよね?」
「…ぶっ!!」
橘梨愛は、思わず口にしていたドリンクを吹き出しそうになった。
「瀬戸くんには…相田さんがいるでしょ!」
「いや、俺どっちにも恋してると思ってますよ」
「それは多分ワンチャンそう。」
二人の席には、笑いが弾けた。
「それに比べて…橘先輩はかっけぇな〜」
素直に感心されて、梨愛は少しだけくすぐったい。
そして照れ隠しのように淡々と言う。
「ま、私に乗り換えるなら喜んで大歓迎だけど」
「それは流石に気まずいです!」
間髪入れないツッコミ。
そこで橘梨愛は、手にしていたグラスをガンッと置いた。
「あのね!私は!言っとくけど、三年前の入学式の日からずーっと藤崎くんだけを想い続けてきたの!星野さんがこの学校に来る前から!」
「え!!そんなに長い間片想いしてるんすか!?」
阿久津孝明の声が跳ねる。
「そ。それをあとから入学してきた後輩に、横からある日突然好きな人を掻っ攫われたわけ。わかる?」
言いながら、ソファの背もたれに背中を預けて腕を組む。
阿久津孝明は、少し気まずそうに肩を縮めた。
「それはキツイですけど……藤崎会長が乗り換えたりなんかしたらそれこそ生徒会の輪が壊滅ですよ」
「しないよ。星野さんと私はお互い恨みっ子なしって約束だったの!私が普通に接してあげたんだから向こうにもそうして貰わないと約束が違うって話し。」
星野陽向と初めて出会った日。
あの時の会話が、橘梨愛の頭の奥で蘇る。
「そんな理屈、あの人に通用します?」
「まぁしないだろうね。多分大暴れ。」
「生徒会室破壊しそう」
「学校ごと破壊するんじゃない?」
手を叩きながら、二人に笑いが弾けた。
軽くて、くだらなくて、いつも通りのやり取り。
なのに。
その奥にあるものだけが、どうしようもなく本物だった。
「でも……」
ひとしきり笑いが落ち着いたあと、阿久津孝明はぽつりと零した。
「次行こーって……ならないんですか?」
軽く言ったつもりだった。
でも、自分でもわかるくらい、声の奥が少しだけ固い。
橘梨愛は、グラスの中の氷をストローでくるりと回しながら視線を落とす。
「まぁ、流れでしょ。次行ける相手がいれば、なったんだろうけど……」
ほんの少しだけ間を置いて。
「そんな良い男もいないしね。」
あっさりとした言い方。
その言葉が落ちた瞬間——
阿久津孝明の胸の奥が、ざわ…と揺れた。
喉の奥が乾く。
指先に、じんわりと汗が滲む。
視線を逸らすことも出来ずに、ただ彼女を見てしまう。
「………意外と…………」
息を整えるように、一度飲み込んでから。
「……身近なとこに……いるかもですよ……?」
声が、ほんの少しだけ震えた。
「は?どこに?」
間髪入れずに返ってくる声は、いつも通り淡々としている。
その瞬間——
脳裏に、さっきの生徒会室の光景が、フラッシュバックする。
(あと何日、高校生活過ごせますか?あと何回、友達や後輩と、くだらない話しや恋バナして、バカみたいに盛り上がれますか?)
陽向の声が、胸の奥で反響する。
——残り、二ヶ月。
逃げても、何も変わらない。
やらなかった後悔の方が、きっと長く残る。
なら。
どうせ砕けるなら、ちゃんと砕けたい。
「…………俺…………とか…………?」
空気が、止まった。
店内のざわめきも。
隣の席の会話も。
遠くの食器の音も。
全部が、ワンテンポ遅れて聞こえる。
「……………。」
「そんな嫌そうな顔しないで下さいよっ!!」
橘梨愛は、露骨に眉をひそめていた。
まるで軽蔑するかのような、冷たい表情。
それに耐えきれなくなった阿久津孝明の声が弾けた。
「なに?からかってんの?」
すっと、目が細くなる。
「それともガチのナンパ?孝明ってそーゆうチャラいタイプ?」
言葉は軽いのに、目はまったく笑っていない。
阿久津孝明は、逃げなかった。
「ガチって言ったらどうします?」
「いや、ないでしょ。書記業務やりづらくなるから、そーゆうのやめてくれる?」
現実的で、合理的で、そして冷たい。
でも——
まだここで引きたくはない。
「2人で書記やるのなんて、もうほぼ終わりじゃないですか」
「まだ2ヶ月もあるよ」
「もう2ヶ月しかないじゃないですか!」
食い下がる。
思ったより強く出た声が、少しだけ店内に響く。
橘梨愛の眉が、わずかに動いた。
「それでもその期間そういう感じで来られたら困るっつってんの」
「なんでですか?年下とか恥ずいですか?でも俺は——」
ガタンッ
音が、会話を切り裂いた。
橘梨愛が、ソファから立ち上がるとテーブルがわずかに揺れ、グラスの中の氷が音を立てる。
「好きな人の話した直後でそれガチで言ってんなら、あんたどーかしてるわ。」
低く落ちる声。
その言葉は、突き放すようでいて。
どこか、逃げるようでもあった。
スマホをスクールバッグにしまい、肩に抱える。
「冗談にしても、私そういう軽い感じのやつ無理だから。」
「橘先輩……!」
呼び止める声。
それでも、彼女は止まらない。
テーブルの横を回り込み——
阿久津孝明のすぐ横に立つ。
ほんの一瞬だけ、視線が落ちてくる。
「一年生って、若くていいね。無鉄砲で、空気読めなくて…」
ふっと、少しだけ笑う。
一歩、距離が開く。
「……本当、青くて可愛いわ。」
その言葉を残して——
橘梨愛は、そのまま店を出ていった。
ドアベルが、チリンと鳴る。
冷たい外気が一瞬だけ流れ込んで、すぐに閉じる。
——静寂。
テーブルの上には、食べ終えたグラスと、ぬるくなった空気だけが残る。
さっきまでそこにあったはずの気配が、もうどこにもない。
「……くそ……っ……青いって、なんだよ……」
低く、押し殺した声が、テーブルの上に落ちる。
次の瞬間——
ガンッ、と鈍い音が店内に響いた。
拳が叩きつけられたテーブルが、わずかに揺れる。
グラスの中の氷が、遅れて小さく鳴った。
「……ガキ扱いしてんじゃねぇよ……」
視線を落としたまま、吐き捨てる。
悔しさが、遅れて込み上げてくる。
喉の奥が焼けるように熱い。
本気だったのに。
ちゃんと、言ったのに。
まともに取り合ってすら、もらえなかった。
二学年下。
ただそれだけで。
軽く見られて、笑われて、“男”としてすら、立たせてもらえない。
「……はぁー……最悪……」
背もたれに体を預ける。
視界がぼやける。
逃げたい。
全部、なかったことにしたい。
そんな考えが、頭をかすめた——その瞬間だった。
(…友達も……好きな人も…)
ハッと、顔を上げる。
陽向の声が、胸の奥で反響する。
(一緒にいられる時間は、あと少しですよ!!)
あと少し。
その言葉が、やけに重く、現実を突きつけてくる。
そうだ。
あと少ししか、ないんだ。
馬鹿にされてもいい。
貶されてもいい。
嫌われてもいい。
本気だ。
———卒業したら。
その先は…………もう関係ない。
「……冗談なわけ……ねぇだろ……!」
椅子を蹴るように立ち上がる。
足が、勝手に動いた。
店のドアを押し開けると、冷たい空気が一気に肺に流れ込む。
夕焼けが、街を橙色に染めていた。
息を切らしながら、駅の方へ駆ける。
アスファルトを蹴るたびに、胸の奥の何かが、確かな形になっていく。
若かろうと。
青かろうと。
———男だ。
「梨愛っ!!!!!!」
声が、空気を裂いた。
「……っ!?」
橘梨愛が、足を止めて振り返る。
夕焼けを背にしたその姿が、一瞬、遠く見えた。
「はぁ!?今なんつった?」
眉を寄せる。
突然の呼び捨てに、耳を疑うような顔。
その前に、息を切らしたまま駆け寄る。
胸が上下して、呼吸が荒い。
それでも、目だけは逸らさない。
「軽い男が嫌なら、重い男になります!」
真っ直ぐに、ぶつける。
逃げない。
「チャラい男が嫌なら、真面目な男になります!」
言葉が、空気を震わせる。
夕焼けの光が、横顔を照らしていた。
「絶対……梨愛が卒業するまでに……」
一歩、距離を詰める。
そして、少しだけ——笑った。
「俺のこと、好きになってもらうから。」
その笑みは、どこか無鉄砲で。
でも、嘘がなくて。
真っ直ぐすぎるほどに、真っ直ぐだった。
「……っ!?」
胸が、跳ねる。
思わず視線を逸らしかけて、止める。
頬が、じわりと熱を帯びる。
「………………なんでそんな上からなの?」
平静を装って、声を落とす。
「えっ?」
一瞬だけ、間の抜けた顔。
「一年のくせに、なに様なの?」
突き放すように言う。
でも、その声はどこか完全には冷えきっていなかった。
「あ……っじゃあ……」
言い直そうとする。
少しだけ迷って、言葉が揺れる。
「…卒業までに好きになってもらいたいです…お願いします……」
「なんかナヨナヨしいなぁ…もっと男らしい人がいい」
「梨愛っ!俺を好きになれ!」
「偉そうだな。却下。」
「弱キャラが好きなんですか?」
「いや?弱キャラは嫌だけど優しいキャラがいい。」
「男らしくて優しいか……むずいな」
「男らしくて優しくて、尚かつ頼りがいあって謙虚で真面目で誠実がいい」
「わがままだな!そんなやついねーよ!」
「いるよ?藤崎くん。」
「いやそれはナシ。」
「ありだよーっ!」
夕焼けの中で、笑い声が弾ける。
さっきまで張り詰めていた空気が、ふっとほどける。
並んで歩き出す帰り道。
冷たい風が頬を撫でていく。
空はゆっくりと夜へ沈みかけていて、街の灯りがひとつ、またひとつと点り始めていた。
その隣を歩く距離が———
ほんの少しだけ、さっきより近くなっていることに。
まだどちらも、気づいていなかった。




