第87話 絶対的な全肯定
「………………今から僕は……最低な事を言う。」
陽向を抱きしめたまま、その声は耳元に静かに落ちた。
「だから、陽向がこれから聞く事は、明日には全部忘れて欲しい。」
まるで、それはその場限りの毒のようだった。
口にしてはいけない言葉を、今日だけ許して欲しいと願うような。
明日になれば、また元の自分に戻るための、ほんの一瞬の崩壊。
陽向は、その意味を理解する。
ただ、壊れないための“解毒”だと。
その一線を、必死に守ろうとしているのだと。
「……うん…わかった。」
小さく頷く。
その声は、驚くほど静かで、揺れがなかった。
俊輔の胸に預けたままの額に、彼の体温がじんわりと滲んでくる。
そのぬくもりが、余計に胸を締めつけた。
「Regular受験…やっぱり辞めたい。」
吐き出された言葉は、あまりにも脆くて、あまりにも重かった。
未来を切り捨てる代わりに、今に縋りつこうとする声。
「うん。」
陽向は、迷わず返す。
否定もしない。
引き止めもしない。
ただ、そのまま受け止める。
「それで、陽向と毎日ずっと一緒にいる。」
子どものような願いだった。
理性で押し込めてきたもの。
正しさの中に閉じ込めてきた感情。
「いいよ。」
ずっと、プレッシャーと戦って。
期待に応えるために。
自分で決めた理想を裏切らないために。
誰よりも正しくあろうとして。
きっと、私には想像もできないほどの重圧の中で、息をすることすら許さずに、ここまで歩いてきたんだよね。
「親の会社なんて…どうでもいい…」
その一言は、まるで長い間押し殺してきた何かが、ようやく外へ出たみたいだった。
その裏にある苦しさが、声の震えに滲んでいる。
「…うん…っ」
陽向の喉が、きゅっと締まる。
返事をした瞬間、胸の奥から何かが込み上げてくる。熱くて、痛くて、どうしようもなくて。
「……ニューヨークなんて…っ…行きたくない…っ」
掠れた声が、胸の奥から無理やり引き剥がされるみたいに零れ落ちた。
誰にも言えなかった。
期待も、責任も、未来も。
“藤崎俊輔”であるために必要だった全部を、自分の手で壊すことになるから。
だから、見ないふりをしてきた。
認めないふりをしてきた。
そのはずの感情が、今、堰を切ったみたいに溢れ出す。
ぐしゃぐしゃに崩れた声の中で、涙と一緒に、止めどなく。
「……っ……うん……っ」
陽向の瞳からも、ぽろりと涙が零れた。
腕の中で震える俊輔は、こんなにも弱くて、こんなにも必死で。
その姿が、痛いほど伝わってきた。
「陽向と…っこれから先も…っずっと……」
言葉が途切れる。
続けてはいけないと、わかっている。
それは二人の間で、言ってはいけない言葉。
「…一生……っ一緒に居たい………っ」
その願いは、あまりにも愚かで。
二人の間で決めたはずの未来を、簡単に踏み越えてしまう言葉。
別れる約束。
いつか、お互いを忘れる約束。
全部なかったことにしてしまいたいと願う、どうしようもなく弱い、願ってはいけない、儚い夢。
「………っ…グス……うん…っ」
陽向は、頷くしかなかった。
こんな俊輔を、知らなかった。
こんなふうに、誰かに縋る姿を。
こんなふうに、自分を投げ出すほど追い詰められていたことを。
今まで、どれだけ一人で抱えてきたんだろう。
どれだけ自分を押し殺してきたんだろう。
その時間の重さが、今この瞬間に全部流れ込んでくるみたいで、胸が苦しい。
「……受験も辞めて……っ…家出して……グス…僕に…っぅ……全部…何も無くなっても……」
嗚咽に途切れながら紡がれる言葉は、もう理性の形をしていなかった。
未来も、立場も、誇りも。
全部を捨ててでも、ただ一つだけを掴みたいという衝動。
「…………………陽向は……僕が好き……?」
震える声。
それは縋るような祈りだった。
たった一人の女の子に。
ここまで心を奪われて。
ここまで溺れて。
ここまで狂って。
完璧だったはずの自分は、もうどこにもいない。
堕ちるところまで堕ちて。
残っているのは、情けなくて、弱さの塊みたいで、どうしようもない落ちこぼれの負け犬。
「……好きだよ……っ当たり前じゃん……」
陽向は、そっと俊輔の胸から離れた。
二人の距離が、ほんの少しだけ開く。
涙に濡れた瞳で、俊輔を見つめる。
そのまま、震える指で彼の頬に触れ、流れ落ちる涙を優しく拭った。
「いつも言ってるでしょ……どんな俊ちゃんだって……大好きだよ……」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐで。
逃げ場がないくらい優しくて。
俊輔の心を、簡単にほどいてしまう。
壊れていたはずの感情が、ぐちゃぐちゃのまま、もう一度形を持とうとする。
どうしようもなく。
理屈も、未来も、全部越えて。
優しい笑顔に、骨抜きにされる。
心が全て、奪われる。
この子が欲しくて堪らない。
その瞬間だった。
胸の奥に、どす黒い波が打ち寄せる。
静かに、けれど確実に。
理性の岸辺を呑み込んでいく。
「……だったらなんで、黒川朔也と約束したの?」
声の温度が変わった。
さっきまで震えていたそれとは違う。
低く、湿った熱を帯びた声。
「………!」
陽向は息を呑む。
目の前にいるのは俊輔のはずなのに、その瞳の奥に、先ほどまでとは違う影が揺れていた。
「……僕が……どれだけ陽向を大切にしてきたか……わかる?」
ゆっくりと、頬に触れる指。
触れ方は優しいのに、そこに滲む感情は重い。
「この顔も……」
背中を抱きしめていた腕が、肩を撫でる。
「この身体も……」
指先が髪に触れる。
丁寧に、確かめるように。
所有物のように。
「指先から……髪の毛一本一本まで……」
声が掠れる。
「陽向の全部が……」
そして、顎を掴まれた。
視線が逃げられない。
「欲しくて堪らない。」
空気が、一瞬で変わる。
強い瞳。
あまりにも真っ直ぐすぎて、逃げ場がない。
「誰にも……指一本触れさせない。」
嫉妬。
独占欲。
不安。
崩れかけた自尊心。
全部が混ざり合って、そこにあった。
俊輔の親指が、そっと陽向の唇に触れる。
「この唇も……」
柔らかさを確かめるように。
触れた瞬間、陽向の呼吸が止まる。
距離が、急に近づく───
「僕のだよ」
一気に唇を寄せた。
「……待っ──」
本能が警鐘を鳴らす。
陽向は咄嗟に身を引くが、背中にテーブルの感触が当たる。
「俊ちゃん……待って……!」
ビーッ!ビーッ!ビーッ!
いつもの警戒アラートが、頭の中で鳴り響く。
ぐらり、と視界が揺れた。
バランスを崩して、そのまま背後のテーブルにもたれかかった。
「そうやって……何回お預けするの?」
俊輔は、そのまま更に距離を詰めてくる。
声は静かなのに、内側が荒れている。
「陽向をずっと大切にしてきたから……」
優しく、そっと腕を掴まれる。
でも、逃がさない意志がある。
腕を掴み上げたまま、どんどん迫られる距離。
「陽向の気持ちを、一番に考えてあげたくて……」
その言葉の裏にあるのは、“欲しい”という叫び。
ドサッ
生徒会室のテーブルの上に体が預けられる。
視界の上に、俊輔の影が落ちる。
「ずっと我慢してるんだよ?」
両手首をテーブルに押し付けられる力が思ったより強くて。
心臓が、暴れる。
バクン。
バクン。
バクン。
「僕が今ここで……」
ガタンッ
俊輔の片膝が、机の上に乗る音。
逃げ場が消える。
「陽向の気持ちを全部無視して……」
さらに覆いかぶさる影。
遮られる光。
詰められる、距離。
「僕が陽向をどれだけ好きなようにしても……」
警戒は鳴り止まないのに、一切の身動きが取れない。
「……陽向は……………それでも僕が好き……?」
その瞬間の表情は、自分で自分を見失った人間のそれだった。
悲しい目。
強がってきた分だけ、崩れる時は、こんなにも脆い。
弱い自分。
駄目な自分。
崩れそうな自分。
ずっと、その受け皿がなくて。
完璧でいなければならなかった。
弱さを見せる場所がなかった。
限界まで張りつめて。
今、壊れかけている。
陽向の中で、何かが静かに決まる。
私が……
その受け皿になるよ。
「…………好きだよ。」
真っ直ぐに。
逃げずに。
信じてるから。
例えあなたが壊れても。
どんなに崩れても。
自分を見失っても。
あなたは。
「どんな俊ちゃんだって、絶対に大好き。」
あなたをわかってる。
そんな酷い事、絶対出来ない。
私を絶対傷つけない。
その瞳を見て。
俊輔の中で、何かがほどけた。
絶対的な、全肯定。
張りつめていた糸が、ぷつりと切れる。
「……ふ……っ……」
涙が零れた。
それは敗北の涙でも、嫉妬の涙でもない。
自信を失い、幻滅し、何もかもが真っ暗闇に包まれた世界を一瞬で明るく照らす太陽に。
救われた人の涙だった。
「…………陽向……愛してるよ……」
その言葉は、祈りのように落ちる。
それと同時に、俊輔の顔がゆっくり沈む。
「……………。」
陽向は、全てを信じて。
全てを委ねるように。
そっと目を閉じる。
近くて。
遠くて。
欲しくて。
怖くて。
届かなくて。
それでも。
逃げない。
そんな二人の唇が。
ゆっくりと近づいて。
二人の呼吸が、重なり。
揺れていた影が、静かに溶けていき。
そして。
ついに触れ合う────────。
その1ミリ寸前。
ガラッ
「ギャーーーーー!!!!なにしてるんですかーーーーーーー!!!!!」
瀬戸晴翔の絶叫が、生徒会室の静寂を真っ二つに裂いた。
張りつめていた空気が、一瞬で砕け散る。
重なりかけていた呼吸も、溶けかけていた視線も、その声によって強引に現実へ引き戻された。
陽向と俊輔はほとんど同時に、ハッと我に返ったように顔を上げる。
扉のところに立ち尽くしていた瀬戸晴翔は、この世のものではないものを見てしまったように、顔を引きつらせていた。
開いた扉を握る手はわなわなと震え、眼鏡の奥の瞳は、これ以上ないほど大きく見開かれている。
「こ、ここ、ここは生徒会室ですよ!!」
声が裏返る。
普段は冷静で、理屈と秩序で世界を整えている男の、その秩序が今、目の前で粉々に吹き飛んでいた。
「こんなところで!!そそそ、そんな……ハ、ハレンチなっ……!!」
言葉がうまく続かない。
衝撃が大きすぎて、頭の中で警報だけが鳴り響いているのが、その取り乱し方だけで痛いほど伝わってきた。
そして次の瞬間、瀬戸晴翔は、さらに恐ろしい可能性へと思考を飛躍させる。
「……はっ……!!」
バッと、思わず驚愕するかのように両手で口元を覆う。
そして、俊輔と陽向をわなわな震えながら指差す。
「……まさか……これまでも何度も……ここで……」
その声には、戦慄と絶望がたっぷり滲んでいた。
神聖であるべき生徒会室が、彼の中で一瞬にして穢された場所へと変わりかけている。
「晴翔……落ち着いて……」
俊輔が、まだ少し熱を残した声で宥める。
さっきまであれほど張りつめていたはずなのに、今は逆に、その冷静さがどこかちぐはぐだった。
けれど瀬戸晴翔は、落ち着けるわけがなかった。
「あ、ああ、あなた生徒会長ですよっっっ!!!」
悲鳴のような声が、さらに高くなる。
「そんな……高校生で……っ、しかも……学校で!! 神聖な生徒会室で!!!みみみ、淫らな!!わいせつな!!卑猥な!!処分ものですよ!!!」
言葉を重ねるたびに、顔がみるみる赤くなっていく。
怒っているのか、照れているのか、動揺しているのか、自分でも最早わからないのだろう。
ただ、自分の理想と信じていた“生徒会長・藤崎俊輔”の像が、ものすごい音を立てて崩れ落ちていくショックだけが、全身から噴き出していた。
「ちょっと冗談でふざけてただけだよ……」
俊輔がそう言っても、まったく説得力がない。
生徒会室の空気にはまだ、さっきまで確かにそこにあった熱が残っていた。
「あ”ーーーーーーーっっっ!!」
瀬戸晴翔は、しゃがみ込んで頭を抱えた。
「あの生徒会長がーーーーーっっっ!!全校生徒の憧れの存在がーーーーーーっっっ!!いやぁぁぁーーーーーーーっっっ!!」
その嘆きは、もはや断末魔に近い。
生徒会室の天井にまで響いて跳ね返りそうな勢いだった。
「うるっせーよ!!」
バシッ!!
次の瞬間、テーブルから飛び降りた陽向の手刀が、容赦なく瀬戸晴翔の頭頂部へと振り下ろされた。
乾いた音が響き、瀬戸晴翔は「いっ……!」と小さく呻いて、その場で頭を押さえる。
けれどすぐに、ギロッと鋭い目で陽向を睨み上げた。
その瞳には、もはや副会長としての冷静な理性ではなく、“尊敬する生徒会長を穢された怒り”だけが燃えている。
「星野陽向……!」
低く、しかし怒りで震える声。
「真面目で清廉潔白で、誰よりも公正な生徒会長を……たぶらかして…悪い道に誘惑して……許さないぞ!!絶対!!!」
「いや襲われたの私だわっ!!」
「そんなの信じられるかーーー!!」
瀬戸晴翔の叫びは、もうほとんど条件反射だった。
ぎゃあぎゃあ、と騒がしい声が飛び交う。
ついさっきまで、あれほど張りつめて、息を飲むほど危うかった空気が、今は嘘みたいにぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
「悪女!!淫女!!戯女!!」
「いや酷っ!」
「生徒会長と別れろ!!近づくな!!!」
「絶対無理ー!」
静まり返っていたはずの生徒会室に、怒鳴り声とツッコミと絶叫が反響する。
昼休みの光が窓から差し込み、その騒がしさをやけに明るく照らしていた。
その真ん中で、俊輔はただ、黙ってその光景を見ていた。
「…………。」
さっきまで、自分の中には黒い感情しかなかった。
弱い自分も。
駄目な自分も。
足りない自分も。
受験も、未来も、誇りもかなぐり捨てて、ただ陽向だけが欲しいと願ってしまう、醜くてどうしようもない自分も。
そんなもの、全部。
自分で自分を許せない。
けれど──
(いつも言ってるでしょ……どんな俊ちゃんだって……大好きだよ……)
陽向の声が、胸の奥で静かに蘇る。
その声は、まだ体温を持ったまま、俊輔の心のいちばん柔らかいところに残っていた。
目の前では、陽向が全力で言い返している。
「強制的に破局させてやるーーー!!!」
「なんではるるにそんな権利あるわけ!?別れるとか死んでも無理ーーー!!」
その言葉が、やけにまっすぐ胸に入ってきた。
どんな自分でも。
みっともなくても。
醜くても。
情けなくても。
それも含めて、全部が自分なんだってわかった。
「なに言ったって離れませーん!」
それでも陽向は、離れないと笑って言う。
それが、どうしようもなく嬉しくて。
どうしようもなく、救いだった。
俊輔の唇から、ふっと力が抜ける。
騒がしい声の渦の向こうで。
黒く塗り潰されていた世界に、少しずつ光が戻ってくる。
そして──
その表情に、静かに笑みがこぼれた。
目を逸らさない。
背を向けない。
逃げない。
自分で自分を許せなくても。
まだ、こんな自分が嫌いでも。
(どんな俊ちゃんだって、絶対に大好き。)
陽向が好きでいてくれるなら。
──それで、いっか。




