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セカンドシーズン ─好きな人を、真っ直ぐに。─ 〜第二章〜高2編〜  作者: 波方 真季


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第86話 失墜没落、壊れた王子様


その日の昼休み。

学食はいつも通り人で溢れていた。


トレーのぶつかる音。

食器が触れ合う乾いた音。

遠くの席から弾ける笑い声。

揚げ物の油の匂いと、スープの湯気と、ざわめきが混ざり合って、昼の校舎特有の喧騒を作っている。


けれど──


その喧騒のど真ん中にいるはずの二人の周囲だけ、まるで別の空気が流れていた。




「……はぁ〜……」




俊輔の、深い溜め息が落ちる。

陽向は、向かいの席で思わず息を呑んだ。


空気が、重い。

とてつもなく、気まずい。


普段の俊輔は、ただそこにいるだけで周囲の空気を眩しくキラキラ輝かせてしまうような人だった。

穏やかで、上品で、落ち着いていて、光の当たり方ひとつで本当に王子様みたいに見える人。


なのに、今は違う。


その輪郭の周りに、黒く重い雲が立ち込めているみたいだった。

言葉にしなくてもわかる。

機嫌が悪いとか、怒っているとか、そんな単純なものじゃない。

もっと深いところで、何かが静かに崩れたまま、まだ元に戻っていない。


陽向は唇をきゅっと結んだ。


何か言わなきゃ、と思う。

でも、何を言えばいいのかわからない。

下手なことを言えば、今にも張り詰めているその空気を、さらに壊してしまいそうで。


俊輔は何も言わないまま、黙々とサンドイッチを口に運んでいた。


小さな口で、一口ずつ。

やけにゆっくりと。

まるで喉を通らないものを、無理やり飲み込んでいるみたいに。


白い指先が、包装紙の端を静かに押さえる。

伏せられたまつ毛が影を落とし、その横顔は綺麗に整っているのに、痛々しいほど冷え切って見えた。


「……はぁ……」


再び落ちる溜め息。



こんな屈辱は……初めてだ。



俊輔の中で燻り続ける。

今朝の、あの廊下の出来事。


(さっさと、消えろ。)


これまでの人生で。

赤の他人から。

いや、親からですら。

あんなふうな物言いで、侮辱された事は一度たりともない。


自分はずっと、圧倒的に勝つ側の人間だった。


努力して、積み上げて、期待に応えて。

勉強も、振る舞いも、信頼も、評価も。

どんな場でも、自分を律して、正しく在り続けてきた。


誰よりも高く、誰よりも綺麗に。

そうやって築き上げてきた“藤崎俊輔”という像は、簡単には揺らがないはずだった。


そんな自分に対して。


誰も、あんなふうに歯向かってこなかった。

誰も、真正面から啖呵を切ったりしなかった。

誰も、自分に敵う奴なんていなかった。


それなのに──


(郊外の! 僻地に! 部活終わってそのまま! 夜に! わざわざ行ったんだからな!)


最悪の相手に。

最悪のタイミングで。

最悪な形で。

最悪なことを言われて。


しかも。


(いつも笑ってる顔の、その瞳の奥まで、ちゃんと見てんのかよ。)


朔也の一言は、俊輔の胸の一番深いところを、容赦なく抉った。


“彼氏である自分”が、見落としていたもの。

“陽向を一番わかっていたい自分”が、届かなかった場所。


そこを、他の男に指摘された。


耐え難い程の屈辱だった。

認めたくないのに、否定しきれないからこそ、なおさら痛かった。


負けた。


あの瞬間、初めて知った。

鼻っ柱をへし折られるとは、こういう感覚なのだと。


さらに、その上で──


(生徒会長って、殴れんの?)


挑発されて。

感情を、抑えきれなくなって。


(藤崎会長……なにしてるの……?)


我を失った。

周囲が見えなかった。

立場も。

人目も。

守らなければならないものも。


全部、吹き飛んだ。


完璧でいなければならない自分が。

誰よりも冷静で、誰よりも正しくあろうとしてきた自分が。


プライドも。

自信も。

自分が信じていた自分像すらも。


何もかも全部が、崩れた。


「…………最低。」


ぽつり、と。

ほとんど独り言みたいに落ちたその一言に、陽向の肩がビクッと跳ねた。


「……しゅ、俊ちゃん……?」


恐る恐る名前を呼ぶ。

けれど俊輔は、すぐには反応しなかった。


「…………。」


焦点の合わない目で、ポーッとテーブルの一点を見ている。

目の前に陽向がいるのに、その意識だけがまだ別の場所に置き去りにされているみたいだった。


「……っ」


陽向の胸の奥に、焦りが広がる。


このまま、黙って向かい合っているのが苦しい。

でも、踏み込みすぎるのも怖い。

どうしたらいいのかわからない。


それでも──


もう、この空気に耐えられなかった。


「あ、明日、体育祭のリハだよね?」


声が少しだけ上ずる。

けれど、止めない。

とにかく何か言わなければ、この重さに押し潰されてしまいそうだった。


「今日中に放送委員に渡すUSBのデータ、貸出しUSBに入れっぱだったから、戻ってきた自分の本チャンUSBに移し変えなきゃなんだ!」


自分でもわかるくらい、不自然なくらい明るい口調。

でも、それしか出来なかった。


さっきまでどこか遠くを見ていた俊輔の目が、ようやく陽向を捉える。

二人の視線がぶつかる。


「だから……私、昼休みのうちに一旦生徒会室行かなきゃいけなくて──」


ガタンッ


椅子が大きく鳴る。


陽向が言い終わる前に、俊輔が椅子を引いて立ち上がっていた。


「わかった。行こう。」


短い一言。


冷えた声だった。

でも、拒絶じゃない。

置いていく声でも、突き放す声でもない。


その瞳の奥には、まだ消え切らない暗い熱が残っている。

けれど同時に、そこにはちゃんと、陽向を追う意志もあった。


学食の喧騒は、変わらず周囲で鳴り続けている。

誰かが笑っていて、誰かが走っていて、昼休みはいつも通り流れていく。


なのに二人の間だけ、季節がひとつ違うみたいに冷えていた。



────────。



ピシャン──


生徒会室の扉が閉まった瞬間、昼休みのざわめきがまるで水の底へ沈むみたいに遠のいた。


二人きりの空間。


窓から差し込む光だけが静かに机の上を撫でている。

その静けさが逆に重く、息をする音さえ互いに意識してしまうほどだった。


「………。」


「………。」


どちらも、何も言葉を交わせない。


陽向はその張り詰めた空気を振り払うかのように、パソコンを開き、カチッと小さな音を立ててUSBを差し込む。

いつもなら何でもない動作がやけにぎこちない。

それでも。


このままじゃだめだ。


ゆっくり息を吸い、覚悟を決める。


「めっちゃ、怒ってるよね。」


どストレートに。

飾らない言葉が静かな部屋に落ちた。


「………。」


俊輔はようやく顔を上げるが、言葉が続かない。

視線が陽向を捉えきれずに彷徨う。


シュン…と、俊輔の肩が落ちた。


今すぐ消えてしまいたい。


そう思うほどに、自分が情けなかった。


陽向の胸がぎゅっと痛む。

強くて優しくて、いつも余裕を持って笑っていた人が、今はまるで居場所をなくしたみたいに頼りなく見える。


捨てられた子犬みたいな顔。


「……ごめんね。私……無神経だった。」


ぽつりと、陽向は言った。


今朝の光景が蘇る。

嬉しさに浮かれて、何も考えずに交わした会話。

俊輔がどんな顔でそれを聞いていたか、想像すると胸が張り裂けそうで。

嫉妬する事。

わかっていたはずなのに、それでも抜け落ちていた。


「今朝の……朔也と私の会話だよね……」


真っ直ぐに、謝る。


「嫌な気持ちにさせて……本当にごめん。」


俊輔は思う。


違う。

悪いのは陽向じゃない。

許せないのは、自分自身だ。


陽向を守れなかった自分が、情けない自分が、こんなふうに感情を抑えられない自分が──許せない。


ぎゅっ……


気づけば腕が伸びて、陽向を抱きしめていた。


「……陽向のことが……大好きなんだ……」


声がかすかに震える。

抑えきれない何かが、滲む。


「…うん……わかってる……」


俊ちゃんが、すごく嫉妬してる。

こんなふうに縋るの、初めてだ。


優しく返される声が余計に俊輔の胸を締めつける。


「……陽向は……?…僕のこと……好き?」


その問いは、いつも自信に満ち溢れている彼の口から出るには、あまりにも弱くて。


「好きに決まってるじゃん」


その言葉はまっすぐで、何も混じっていない。

それでも安心できない。

頭ではわかっているのに、心が追いつかない。


(“今”は、お前が好きかもしんねーけどな。)


あの言葉が消えない。

黒川朔也の声が、まるで呪いみたいに胸の奥に残っている。


陽向を抱きしめる腕に、ぐっと力がこもる。


胸が痛い。


「……もっと…っ…言ってよ……」


絞り出すような声。


陽向は背中に腕を回し返す。

俊輔の髪を撫でる。


俊ちゃんでも…こんなにメンヘラになること、あるんだ。


「俊ちゃんのことが好きだよ……」


安心させたくて。

ゆっくりと。

噛み締めるように。


「本当に……めちゃくちゃ大好きだよ。」


その言葉は、真っ直ぐだった。

何も混じっていない、純度の高い想い。


それでも。


(俺は、これから先もずっと、ひなの側にいるからな。)


俊輔の心臓を、朔也の言葉が容赦なく切り刻む。

刻一刻と迫り来る“陽向と別れる”現実が。

精神を抉り、容赦なく。


──心を破壊する。


「………………。」


俊輔の喉がかすかに動く。

飲み込めない感情が詰まっている。


胸の奥で、ずっと張り詰めていた糸が、音もなく軋んでいる。

壊れてはいけないと、必死に抑え込んできたものが、限界を超えて、今にも溢れ出そうとしていた。



もう、耐えられない。





「………………今から僕は……最低な事を言う。」





陽向を抱きしめたまま、その声は耳元に静かに落ちた。



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