第85話 マイナスレベルの宣戦布告
その日の昼休み──。
俊輔、陽向、相田桜子、阿久津孝明の四人で最後の仕上げをした体育祭進行表は、無事に顧問へ提出され、驚くほどすんなりとチェックを通った。
最後に「これで出していいよ」と言われた瞬間、全身から力が抜けそうになった。
放課後には、その進行表は各教員、体育祭実行委員、放送委員の手へ次々と配布された。
ようやく形になった紙が、校内のあちこちへ運ばれていくのを見ながら、陽向はぼんやりと思う。
あれほど壊れると思っていたものが、たくさんの手に支えられて、ちゃんと動き出している。
その事実が、胸の奥にじんわりと沁みた。
そして翌日。
体育祭まで、あと三日。
明日はリハーサル。
朝の校舎には、行事直前特有の慌ただしい空気が満ちていた。
廊下にはすでに登校してきた生徒たちの声があふれている。
笑い声、上履きの擦れる音、誰かを呼ぶ声。
窓の外から差し込む朝の光は明るいのに、校内にはどこか張りつめた熱があった。
朝、体育祭準備の仕事を終えた陽向は、教室へ戻るため、俊輔と並んで廊下を歩いていた。
連日の疲れはまだ身体に残っていたけれど、それでも昨日ひとつ山を越えた安心感が、少しだけ足取りを軽くしていた。
隣を歩く俊輔の存在も、自然と心を落ち着かせる。
張りつめていたものが少しずつやわらいでいくようだった。
その時だった。
バシッ
「いて!」
不意に、背後から頭を何かで叩かれる。
乾いた衝撃が、ぽん、と後頭部に走った。
「………!」
驚いて振り返る。
そこに立っていたのは、つい今しがた登校してきたばかりらしい朔也だった。
少し乱れた前髪。
息はまだわずかに上がっていて、いかにも急いできたような空気をまとっている。
そしてその手には──
見覚えのありすぎる、あの手提げ袋。
「手提げーー!!!!!!」
陽向の声が、廊下に派手に響いた。
一瞬で目が見開かれる。
胸が跳ねる。
次の瞬間には、身体の芯から一気に熱が駆け上がった。
二日前、自分をどん底まで突き落とした張本人みたいなあの袋が、今、朔也の手の中にある。
「お前が乗ってた電車の終着駅の遺失物保管所まで、昨日わざわざ取りに行ってやったんだからな!」
朔也は、いかにも不機嫌そうに吐き捨てる。
でもその声の奥には、昨夜からここまでの手間と疲労が、しっかり滲んでいた。
「うっっそ!!ガチ!?」
陽向は、半ば悲鳴みたいな声を上げる。
その横で、俊輔も思わず息を呑んだ。
目の前の光景を理解するまで、一瞬時間が止まったようだった。
「よりによって、別路線に接続する電車に忘れて来やがって。郊外の! 僻地に! 部活終わってそのまま! 夜に! わざわざ行ったんだからな!」
言葉を重ねるたび、朔也の怒りはどんどん具体性を帯びていく。
その一つひとつに、“どれだけお前のために”という感情が詰まっていた。
電車に揺られて、見知らぬ終着駅まで行って。
夜の遺失物保管所まで足を運んで。
それを何でもないことのように言わず、ちゃんと取り返して、こうして朝一番で持ってきてくれたのだ。
その事実が、陽向の胸にドン、と落ちる。
「えーーー!!! 言ってよ!! 自分で行ったのにーーー!!!」
「いつ行くんだよっ!? 体育祭の準備で放課後遅くまで残って! 今日も朝早く先に行ったじゃねーかよ!」
「すいませんすいませんっ!! 本当にありがとうございますっ!! 神様仏様朔也様っ!!」
思わず、拝むように両手を合わせる。
涙が出そうなくらい、本気で嬉しかった。
助かった。
パソコンも。
USBも。
全部、戻ってきた。
あのまま見つからなければ、学校指定のパソコンとUSBは買い直しだった。
八万円。
高校生の自分にはあまりにも重すぎる額。
何より、また母親に迷惑をかけることになる、その現実が怖かった。
だから今、手提げがここにあるというだけで、胸の奥にしこりのように残っていた恐怖が、ようやく溶けていく。
「お前、ラーメン奢れよ」
朔也が、ぶっきらぼうに言う。
その物言いが、かえって救いだった。
過剰に恩着せがましくもしない。
でも、何もなかったことにもさせない。
そういうところが、いかにも朔也らしい。
「え、そんなんでいいの? 食べ放奢るよ」
ほっとした勢いのまま、陽向は明るく言う。
助かったことが嬉しすぎて、財布の紐も、感情の箍も、今だけは全部ゆるかった。
「それお前が行きたいんだろ」
「朔也だって食べ放好きじゃなかった?」
「いや好きだよ。だったら焼き肉がいいな」
「焼き肉かーいいね! 行こう!」
俊輔の思考が、一瞬止まった。
その約束は、陽向にとってはただの“お礼の約束”だった。
本当に、その程度の意味しかなかった。
しかし、そのやり取りを聞いていた俊輔の胸には、別の感情が、込み上げる。
怒りだった。
理屈より先に、腹の底からせり上がってくるような、熱い感情。
焼き肉、行こう。
その言葉が、妙に生々しく胸に残る。
交わされる会話の端々に滲む距離感。
お互いをよく知る存在のような台詞。
まるで、二人で出掛ける事など当たり前の事だとでも言うような。
何気ない会話のはずなのに、耳に触れた瞬間、神経を逆撫でするみたいだった。
目の前で、自分の彼女が、別の男と当たり前みたいに約束を交わしている。
異常だ。
ありえない。
普通じゃない。
頭ではわかっている。
黒川朔也が助けてくれたのだ。
陽向が感謝するのも、お礼をしようとするのも当然だ。
そんなことは、ちゃんと分かっている。
それでも──
感情だけは、まるで納得しなかった。
陽向を助けた、その手柄。
他の男に横取りされるとは。
身体さえ空いていれば、自分も同じ行動を取り、遺失物保管所へ行ってあげたはず。
自分にも、その時間さえあれば。
自分は、今回の彼女の窮地に、なにをしてあげられただろう。
息が、苦しい。
黒い感情が、渦を巻く。
自分でも制御が出来ないほどに。
「じゃあ俊ちゃん、私、朝のうちに職員室に貸出パソコン返却してくるね!」
陽向が、くるりと俊輔へ向き直る。
いつもの笑顔。
何の曇りもない、明るい顔。
その無邪気さが、今はひどく残酷に見えた。
本当なら、もっと普通に返したかった。
“よかったね”と笑って。
“ちゃんと返しておいで”と、いつもの優しい声で言いたかった。
けれど、口を開いた時に出たのは──
「うん。早く行きな。」
驚くほど、冷たい声だった。
自分で言った瞬間、自分でもわかった。
温度が、ない。
あまりにも素っ気なく、あまりにも硬い。
陽向へ、こんなふうに冷えた声を向けたのは、初めてだった。
言葉が落ちたあと、空気がほんの一瞬だけ止まる。
(え、怖。)
陽向の表情が、かすかに揺れた。
その揺れを見た瞬間、俊輔の胸の奥で、怒りとは別の痛みが走る。
けれど、もう遅かった。
放った声は取り戻せない。
陽向は瞬間、ハッと我に返った。
そして思い出す。
優しくて、穏やかで、全部受け止めてくれるくせに。
男子が絡むと、逃げ場がなくなるくらい深くて重い──
嫉妬と、独占欲。
(これ…絶対後で怒るやつ……)
「じ、じゃあ!あとでまた昼休みにねぇ〜!」
引きつった笑顔を無理矢理貼り付けて、陽向は逃げるように立ち去った。
足音だけがやけに早く、廊下の中へ溶けていく。
残された空気が、ゆっくりと沈む。
そして、その静寂の中に残るのは──
俊輔と、朔也。
廊下に残ったざわめきは、すでに遠くへ流れていた。
行き交う生徒たちの足音も、笑い声も、どこか膜を一枚隔てた向こう側の出来事みたいに、ぼやけて聞こえる。
この場所だけ、温度が違う。
張り詰めた空気が、ピンと細く引き伸ばされていく。
目に見えない糸が、二人の間に張られているみたいに。
二人。
同時に。
逃げ場なく、互いの鋭い視線が絡み合った。
その一瞬。
朔也の脳裏に、強制的に叩きつけられるように蘇る。
──二日前の夜。
(…………………しん……どい……よぉ……っ)
震える声。
崩れた呼吸。
縋るように押し付けられた体温。
(…しんどい…めっちゃ…辛い……ひっく… 疲れたよぉ……っもう…キツイよ……っうぅ…無理だよ……っ)
思わず抱きしめた腕の中で泣きじゃくっていた、あの背中の細さ。
壊れそうなくらい、軽かった重み。
(…寂しいよ……っふ…ぅ……会いたいよ…もっと…ひっく…もっと一緒に居たいよぉ……っ)
あいつの涙。
意識に、指先がわずかに強張る。
「…………。」
対する俊輔は、何も言わない。
ほんの一瞬だけ、その視線の奥に、何かが揺れた。
次の瞬間には
フィッ──と。
強引に視線を切る。
このまま彼の顔を見ていたら。
自分が正気を保てなくなる。
足を前に出す。
一歩。
もう一歩。
床を踏みしめる感覚だけを頼りに、無理矢理前へ進む。
喉の奥で、なにかが焼ける。
冷静で、穏やかで、誰よりも理性的であろうとする自分が、内側から音を立てて軋んでいる。
自分が、自分でいられなくなる。
黒く、悍ましい感情に飲み込まれる前に、この場を離れようとする。
そのまま、険しい表情を崩さないまま、押し上げてくる衝動を必死に押し殺しながら。
朔也の横を通り過ぎた──
その、瞬間。
「待てよ。」
背後から、低く、抑えた朔也の声が飛んだ。
呼び止めるというより、引き止める声。
逃がさない、とでも言うように。
俊輔の足が、ぴたりと止まる。
廊下の空気が、もう一段、重く沈んだ。
俊輔は、足を止めたまま、背中だけを向けていた。
呼び止められたその一言が、まだ首筋のあたりに冷たく残っている。
ゆっくりと、顔だけを横へ向ける。
「……なに?」
短い声。
けれど、その平坦さとは裏腹に、胸の内側では心臓が嫌なほど強く脈打っていた。
ドクン、ドクン、と、感情の正体を暴くみたいに。
それでも俊輔は、必死に呼吸を整える。
ここで感情を見せたくない。
見せた瞬間、自分が自分でいられなくなる気がしたから。
朔也は、そんな俊輔へゆっくりと身体ごと向き直った。
朝の光が、二人の間に短い影を落としている。
廊下を行き交う生徒たちの気配は、もう遠い。
まるでこの一角だけ、別の温度を持った空間に切り離されたみたいだった。
「お前……最近あいつの顔、ちゃんと見てんのかよ。」
低い声。
その声音には、先輩を敬う色など欠片もなかった。
いつも表面上だけ取り繕っていた敬語も、遠慮も、礼儀も、今は一切ない。
そこにあるのはただひとつ。
剥き出しの敵意。
「…………。」
俊輔は、そこでようやく身体ごと振り返る。
真正面から、朔也を見据える。
その態度も。
その口調も。
ただの挑発ではないと、瞬時にわかったからだ。
本気で言っている。
本気で、自分に牙を剥いている。
「陽向のことは、毎日見てる。」
俊輔は、感情を一つひとつ押し潰すようにして言った。
静かに。
平然と。
そうでなければならないと、自分に言い聞かせるように。
けれど朔也は、間髪入れずに返す。
「いつも笑ってる顔の、その瞳の奥まで、ちゃんと見てんのかよ。」
その一言が、俊輔の胸の奥に鈍く刺さる。
「黒川くんには……それが見えてるの?」
問い返した声は、冷静を装っていた。
けれど自分でもわかる。
その奥に、抑えきれない苛立ちが滲んでいることを。
朔也は、まっすぐに俊輔を見た。
迷いもなく。
揺らぎもなく。
「俺はいつも、ずっと、ひなを見てる。」
──ひな。
その呼び方が、ひどく癪に障る。
無遠慮で、当たり前みたいで、長い時間の中で自然に馴染んだ響き。
俊輔の胸の奥で、黒いものが一気にせり上がる。
その呼び方も。
遠慮のない距離も。
陽向の事を、自分より先に知っているその立場も。
何もかもが、全部。
いちいち癪に障る。
気づけば、俊輔の指先には力が入っていた。
握った拳が、じわりと熱を持つ。
爪が掌に食い込むほど強く握り締めて、どうにか感情を押し留める。
このままでは何かが壊れる。
そんな危うさが、自分の内側に確かにあった。
そして、朔也は。
一歩も引かずに、言った。
「ひなのことが、好きだから。」
ドクンッ──
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。
耳を疑うような言葉だった。
あまりにも真っ直ぐで。
あまりにも躊躇がなくて。
黒川朔也が、陽向を好きな事くらい当然気づいてた。
自分から陽向に告白をして、付き合って間も無くの頃。
黒川朔也が、剥き出しの感情をぶつけて来たあの日。
(お前のしてる事が、一年後のあいつをどんだけ傷つけるか…あいつがどんだけ苦しむか……そんな事もわかんねぇのかよ!!)
只の幼なじみという範囲を超えた、陽向への想いが痛い程に伝わってきた。
だからと言って。
今。
陽向と順調に恋人関係を続けている最中のその相手に。
普通は、そんな事言わない。
一瞬、理解ができない。
頭の中が、真っ白になる。
廊下のざわめきも、遠くの声も、全部がすっと消えていく。
ただ、その言葉だけが異様な鮮度を持って、何度も何度も胸の内側で反響した。
──ひなのことが、好きだから。
そんなの、もう。
間違いなく──
「……僕に…………宣戦布告?」
ようやく吐き出したその声は、自分でも驚くほど低い。
胸が、焼けているみたいに痛い。
心臓の鼓動が、うるさい。
それでも、目だけは逸らさない。
真正面から、朔也を射抜く。
ほんのわずかな沈黙のあと──
「だけど、ひなが好きなのはお前だ。」
あまりにもあっさりと、言い切られた。
その一言が、胸の奥に、鈍く沈む。
言葉にすると、惨めで。
苦しくて。
悔しくて。
朔也自身、それを誰よりもわかっていた。
今、ひなが好きなのは、藤崎俊輔だ。
笑う顔も。
触れる距離も。
“好き”という言葉も。
全部、こいつのものだ。
藤崎俊輔が隣にいる今、自分を好きになる可能性なんて最初からない。
0%どころか、マイナスレベルで。
存在すらしていない。
そんなことは百も承知で。
── だから。
ひなの“今”は全部、こいつにくれてやる。
「“今”は、お前が好きかもしんねーけどな。」
声が、少しだけ低くなる。
ひなの寂しさを、軽く扱うなら。
俺は黙らない。
「俺は、これから先もずっと、ひなの側にいるからな。」
その言葉は、未来を奪いにいく宣言だった。
朔也の胸の奥で、なにかが焼ける。
ズタズタの感情を、そのまま言葉に乗せるみたいに。
敢えて、深く刺しに行く。
血を吐く程の地獄の中で、お前に捧げてやってる“あいつの今”を。
大切に出来ないお前を許さない。
「さっさと、消えろ。」
ブチッ──
音がした。
それは、外じゃない。
俊輔の中で、何かが完全に切れた音だった。
視界が、狭くなる。
音が遠のく。
呼吸の感覚さえ、一瞬消える。
気づいた時には──
ガシッ──
自分の手が、黒川朔也のブレザーを掴んでいた。
頭のどこかで、冷静な声がする。
でも、止まらない。
「……!」
朔也は一瞬だけ目を見開いた。
けれど、次の瞬間には──
「生徒会長って、殴れんの?」
わざとらしく、口角を上げる。
馬鹿にするような、笑み。
俊輔が朔也のブレザーを掴む手が、ギシ…ッと音を立てるほど強く握られる。
血が滲みそうなほど、力がこもる。
その瞬間。
「藤崎会長……なにしてるの……?」
「……!」
振り返る。
そこにいたのは、橘梨愛だった。
信じられないものを見るような、目。
その視線が、現実を一気に引き戻す。
ざわっ
ざわさわっ
周囲の空気が、一気に動き出す。
(え……なに?)
(喧嘩……?)
(まさか……生徒会長が……?)
ヒソヒソとした声が、波のように広がる。
「……くっ……」
奥歯を、強く噛み締める。
煮えたぎる感情を、無理やり押し殺す。
喉の奥に、焼けた鉄を飲み込むみたいに。
ゆっくりと。
俊輔は、掴んでいた手を離した。
「大丈夫?……なにかあった?」
橘梨愛が、慌てて二人の間に入って朔也に問いかける、
その背中が、まるで境界線みたいに立つ。
「………。」
俊輔は、一度だけ目を閉じた。
そして、開く。
もうそこにあるのは──
いつもの“藤崎俊輔”だった。
「……今回の生徒会の窮地は、君に救われた。」
淡々と。
整った声で。
「相田さんに連絡をくれて、ありがとう。黒川くん。」
口元に、完璧な笑みを貼り付ける。
けれど──
「俺が助けたかったのは生徒会じゃなくて、ひなだ。」
間髪入れずに、挑発で返される。
空気が、また軋む。
俊輔は、一歩踏み出した。
すれ違いざま。
視線も向けずに。
温度のない声で、落とす。
「……“それも含めて”、礼を言うよ。」
そのまま──歩き去る。
「藤崎くん……!」
橘梨愛が、慌ててその背中を追う。
廊下に残されたのは、ざわめきと──
重く沈む、ひとつの言葉。
“それも含めて”
それは。
“彼女のことも含めて、お前の行動は僕の領域に触れている”
そう言われた気がした。
まるで。
──陽向のことは、本来お前の役目じゃない。
そう突きつけられたみたいに。
「……ひなの件に…関しては……っ」
胸の奥に、鉛が落ちる。
熱いはずなのに、冷たい。
ぐちゃぐちゃな感情が、行き場を失う。
「お前に礼を言われる筋合いねぇんだよ……っ!」
ガンッ!!
朔也は、思い切り廊下の壁を蹴り上げた。
鈍い衝撃音が、空気を震わせる。
誰もいないはずの内側で。
まだ、戦いは終わっていなかった。




