第84話 一致団結起死回生!自分だけに出来る事
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翌日。
朝の空気は、まだ少しだけ夜の冷たさを引きずっていた。
通学ラッシュの最寄駅は、制服姿の生徒たちで溢れ返っている。
いつもと変わらないはずの朝の風景が、陽向にはひどく遠く、ぼやけて見えた。
そんなざわめきの中で、改札前に立つ俊輔の姿を見つけた瞬間──
胸の奥で、ずっとかろうじて繋ぎ止めていた糸が、ぷつりと切れた。
「陽向っ!?どどど、どうしたの!?何があったの!?」
俊輔の声が飛ぶ。
その声に含まれた驚きと焦りと、真っ先に自分を心配してくれる温度が、陽向の心をさらに揺らした。
「……俊ちゃん……っヒック……ごめんなさい……私……ふぇ……ぅっ……」
言葉にならない。
謝りたいのに、ちゃんと説明しなきゃいけないのに、喉の奥が詰まって、それ以上は涙ばかりが溢れてくる。
昨日からずっと張りつめていた心は、もうとっくに限界を超えていた。
必死に保っていたわずかな気力も、俊輔の顔を見た瞬間に全部崩れてしまった。
「…………。」
俊輔は何も聞き返さなかった。
ただ、泣きじゃくる陽向をそっと引き寄せ、そのままぎゅっと抱きしめた。
広い胸に包まれた瞬間、張りつめていた全身から力が抜けそうになる。
俊輔の手が、宥めるように優しく髪を撫でた。
何度も、何度も。
大丈夫だと、言葉より先に伝えるみたいに。
周囲では、登校中の生徒たちが次々と足を止めかけ、ちらりと視線を向けて通り過ぎていく。
(え、やば……)
(わー……朝からアツイねぇ)
(どんだけラブラブなの 笑)
そんな冷やかし混じりの空気も、視線も、今の俊輔にはまるで届いていないみたいだった。
人目なんてどうでもいいとでも言うように、俊輔はただ陽向を抱きしめ続ける。
朝の改札前。
人で溢れた駅のど真ん中で。
それでもそこだけは、二人きりの場所みたいに静かだった。
陽向は、途切れ途切れの呼吸の合間に、ようやく昨日の出来事を打ち明けた。
自分で話しながら、胸の奥に沈めていた不安がまたじわじわと浮かび上がってくる。
言葉にしてしまったことで、現実がさらに輪郭を持って迫ってくるみたいだった。
それでも俊輔は、最後まで一度も咎めなかった。
責めるような色も、呆れるような空気も、一ミリも見せなかった。
「わかった。もしかしたら職員室に届いてるかもしれないし……持ち出したつもりで、無意識に生徒会室へ置きっぱなしになってる可能性もあるから、一緒に見に行こう。」
落ち着いた声だった。
状況を整理しながら、でも決して陽向を追い詰めない声。
彼は咎めない。
そんなことは、陽向だって最初からわかっていた。
この人が、自分の失敗ひとつで失望したり、突き放したりする人じゃないことくらい、知っている。
だからこそ、胸の奥には別の痛みが滲んだ。
余計な心配を、かけたくなかった。
余計な迷惑を、背負わせたくなかった。
ただでさえ受験で大変な彼に、これ以上、自分のことで何かを抱えさせたくなんてなかった。
その申し訳なさが、泣き止めない涙の底で、鈍く鈍く疼いていた。
────────。
俊輔と陽向は、共に生徒会室へ向かった。
まだ朝の空気が校舎に残っている時間帯。
廊下には人影もまばらで、窓の外から差し込む光だけが、静かに床を照らしている。
──そして。
ガラッ
扉を開いた、その瞬間。
「え?」
「あれ?なんで…みんな居るの?」
二人の声が、ほぼ同時に重なった。
朝のはずの生徒会室は、静けさとは程遠かった。
資料の紙が擦れる音。
キーボードを叩く軽快な音。
誰かが小さく確認を取り合う声。
現在時刻は、始業開始30分前。
いつもの“放課後の戦場”が、そのまま朝に持ち込まれたみたいに。
役員たちが、それぞれの持ち場で動いていた。
「おはよう陽向ちゃんっ!」
ぱっと弾ける声と共に、相田桜子が駆け寄ってくる。
その笑顔が、あまりにもいつも通りで、逆に陽向は現実感を失いそうになった。
「なんで…みんな、何してるの……?」
かすれた声が、ようやく出る。
自分の状況と、目の前の光景が、うまく繋がらない。
「昨日、黒川くんから電話貰ったの。陽向ちゃん大変だったね。」
「え!?朔也が……?」
思わず目を見開く。
自分の知らないところで、状況が動いている。
その事実に、胸の奥がわずかに揺れた。
「えーと……結論から言うと……陽向の荷物は生徒会室にあったってこと?」
俊輔が状況を整理するように問いかける。
「いや、ありませんでしたよ。」
その声は、落ち着いていて、迷いがなかった。
「職員室へも既に確認済みです。」
パチンッ、と。
瀬戸晴翔がエンターキーを弾く音が、小さく室内に響く。
そして──
「星野さんに渡した僕のまとめ資料……」
机の上に置かれていた紙の束を、ひらりと持ち上げた。
「手元にコピー控え、取っておかないわけないじゃないですか。」
「…………!」
時間が、止まったみたいだった。
次の瞬間──
「神ーーーーーーーーー!!!!」
陽向の声が、弾けた。
同時に、溜め込んでいたものが一気に崩れる。
ぽろ、ぽろ、と。
今度は恐怖じゃない涙が、頬を伝っていく。
全身の力が抜ける。
張り詰めていた糸が、やっとほどける。
「さすが……晴翔だね。」
俊輔も、ほっとしたように小さく息をついた。
その声には、確かな信頼が滲んでいる。
「星野さんに渡すものですから」
瀬戸晴翔は、肩の力を抜いたまま、淡々と続ける。
「破損、汚損、紛失。全部、想定内ですよ」
その言葉は、冗談みたいでいて、どこか本気だった。
そして、さらに一歩先へ。
「橘さんに、今全部Wordに落として貰ってますから」
カタカタ、と。
一定のリズムでキーボードを叩いていた書記の橘梨愛が、視線を上げずに答える。
「あと3割……いや4割くらいかな」
画面を見たまま、指は止まらない。
「昼休みか、放課後ちょこっとやれば、今日の締め切り間に合うと思う。」
現実的で、正確な見積もり。
「タイムテーブルは?」
俊輔はすでに次へ進んでいた。
状況を把握し、素早く修復のルートを最短で組み立てていく。
橘の隣に立ち、画面を覗き込む。
「それなら…水野くんが組んでみたいで」
その言葉に応えるように、会計の水野彗が軽く肩をすくめた。
「星野さんが組むタイテーブルなんて不安じゃないですか」
さらっと、遠慮なく。
けれど、その声に棘はない。
「進行表が上がってきた時に、すぐ修正依頼できるようにと思って。念の為、晴翔から各クラスの競技時間の資料貰って、一応計算しといて正解だったね」
「……陽向は……本当に信用されてないね……」
俊輔が、ぽつりと漏らす。
その声には、ほんの少しの苦笑。
けれど──
「まぁ…それが今回、結果的に救いだったね」
橘梨愛は、即答した。
視線は画面のまま。
感情を挟まない、事実だけの言葉。
けれどその一言が、何よりも優しかった。
「あ……」
張り詰めた空気の中で、ほんの小さく、けれど確かに場を揺らす声が上がった。
振り向くと、橘梨愛に駆り出されていた新役員書記の一年生、阿久津孝明が、少しだけ戸惑った顔で手を挙げている。
「今、開会式のアナウンス原稿打ってるんですけど……」
机の上に置かれた資料の束を、遠慮がちに、それでも急ぐようにバサバサとめくりながら続けた。
紙が擦れる乾いた音が、静かな室内にやけに大きく響く。
「各組のスローガンと、応援団長からの紹介コメントの文章って……どこかにありますか?」
「「「あ………。」」」
空気が、止まった。
三人分の声が、ほとんど同時に落ちる。
陽向、俊輔、瀬戸晴翔。
それぞれ違う方向を見ていた視線が、ゆっくりと同じ一点へ収束していく。
「……あれの担当って、広報の2人だよね?」
俊輔が、確認するように言う。
「はい。たぶん広報が応援団長から回収して、そのまま星野さんに……」
瀬戸晴翔が淡々と回答する。
その言葉が、静かに、確実に現実を形作っていく。
「陽向……ある?」
俊輔の声は、やわらかい。
けれど、その奥にあるものを、陽向は嫌でも感じ取ってしまう。
フリフリ、と。
陽向は、気まずそうに小さく首を横に振った。
さっきまで“奇跡みたいに救われた”と思っていた状況の、その外側に残っていた、もう一つの穴。
手提げの中に入っているはずの、それ。
胸の奥で、何かが音を立てて沈んだ。
「横溝くんが……もしかしたらコピー持ってるかも!私、連絡してみます!」
相田桜子が、間髪入れずにスマホを取り出す。
その動きの速さだけが、この場で唯一、止まっていないものだった。
生徒会新役員広報二年生、横溝琉嘉。
呼び出し音。
短い会話。
そして──
「あ、そうなんだ……ううん!大丈夫。わかった、ありがとう!」
通話が切れる。
その瞬間、室内の空気が、静かに重く沈んだ。
自然と、全員の視線が相田桜子へ向く。
「……控え、取ってないって……そのまま陽向ちゃんに渡しちゃったそうです……」
ぽつりと落ちる言葉。
その肩が、わずかに落ちる。
「はぁ〜……詰めが甘いな。」
瀬戸晴翔のため息が、容赦なく空気を切る。
続いて橘梨愛が、淡々と現実を並べる。
「仕方ないって。広報は二人とも今年度からの新役員なんだから……星野陽向対策が身についてなくて当然だよ」
フォローの形をしていながら、その言葉はやけに正確で、逃げ場がなかった。
「本当に…すみません……」
陽向の声が、小さくなる。
視線が落ちる。
足元の床の木目だけが、やけにくっきりと見えた。
「紙提出だったから、データなんて残ってるわけないし……」
瀬戸晴翔の言葉に対して、俊輔が思考を次へ進める。
「仕方ない。各応援団長に、もう一回提出してもらうしかない。」
止まらない。
誰も、立ち止まらない。
「そんな二週間以上前に提出した紙の内容……覚えてますかね?」
阿久津孝明が、恐る恐る口を挟む。
「覚えてなきゃ、もう一回考えてもらうしかないでしょ」
橘梨愛の即答。
「体育祭まであと4日……リハは明後日。」
水野彗が腕を組み、少しだけ視線を落とす。
「応援合戦練習も大詰めだろうけど……今日中、遅くても明日までに再提出もらわないと厳しいな」
淡々と、現実が積み上がる。
無茶だ。
誰もが、心のどこかでそう思っている。
それでも──進めるしかない。
「結構な無茶をお願いすることになるね」
俊輔が、静かに口を開く。
その声音は穏やかで、けれど覚悟が滲んでいた。
「だから僕が責任を持って、各応援団長に誠意を伝えてくるよ」
決めた声だった。
自分が背負う、と。
この場の全員が、それを理解し、納得する。
──その瞬間。
「待って。」
落ちた声は、小さかった。
けれど、不思議と全員の耳に届いた。
空気が、揺れる。
「私、覚えてるかも。」
陽向だった。
視線が、一斉に集まる。
さっきまで俯いていたはずのその顔が、ゆっくりと上がる。
胸の奥で、何かがまだ震えている。
さっきまで泣いていた名残が、まだ消えていない。
それでも──
その瞳の奥には、確かに“光”が戻っていた。
その一つひとつが、映像のように、ゆっくりと浮かび上がってくる。
「青組スローガンは……“諦めない青春!空に勝利を響かせろ!”で……」
言葉が、静かに零れ落ちる。
まるで、記憶の奥からすくい上げるみたいに。
ひとつひとつ、確かめるように。
「青組団長からの紹介コメントが……“今年の青組応援団は、とにかく皆が仲良く、笑顔が絶えない明るいメンバーです。まさに青春の1ページとなるような……”」
「ストップ、ストップ!」
ピシッと空気を切る声。
橘梨愛が、即座にその流れを止めた。
「孝明。このまま打ち込んで」
「は、はい!」
一拍遅れて、阿久津孝明の指がキーボードへと落ちる。
カタカタカタ、と。
さっきまでとは違う、少しだけ緊張を含んだ音が、室内に規則正しく響き始めた。
「……続いては、応援合戦です……」
橘梨愛の低く落ち着いた声が、その場のリズムを整えていく。
「……青組のスローガンは……ここまで打った?」
「はい、打ちました!星野さん、いいですよ」
阿久津孝明に促されて、陽向は小さく息を吸った。
そして目を閉じ、意識をさらに深く潜らせる。
紙に書かれていた文字の形。
読んだ瞬間に胸がきゅんと締め付けられた感覚。
その場の空気ごと、思い出すように。
「……次は……赤組のスローガンが……“闘志を燃やせ!熱血烈戦!”……コメントが……“昨年の赤組優勝の意思を引き継いで……”」
言葉は途切れない。
迷いも、淀みもなく。
まるで最初からそこに書かれていた文章を、ただ読み上げているみたいに。
その様子を、周囲の役員たちは息を飲んで見ていた。
まるで、信じられないものを見るように。
キーボードの音だけが、やけに鮮明に響く。
「……黄組のスローガンが、“疾風迅雷!轟け勝利の稲妻!”」
次々と紡がれていく言葉。
青組。
赤組。
黄組。
緑組。
紫組。
それぞれの色に込められた想い。
それぞれの団長が、言葉に乗せた熱。
陽向は、それを一つも零さないように。
大切に、丁寧に、掬い上げていく。
読んだ時の瞬間を、文章から伝わるあの熱を、そのまま、この場所へ連れてくるみたいに。
ただの文章暗記ではない。
それはまさに情景記憶。
言葉が、場の空気を変えていく。
役員達は、画面と陽向の顔を交互に見る。
さっきまでの焦りも、緊張も、いつの間にか、静かな集中へと塗り替えられていた。
全ての組の想いを紡ぐ。
やがて最後の一文が、そっと落ちた。
カタ、という小さな音とともに、阿久津孝明の指がキーボードから離れる。
「……できました」
その一言で、張り詰めていた糸が、ようやくほどけた。
誰かが小さく息を吐く。
別の誰かが、肩の力を抜く。
空気が、ゆっくりと元の温度に戻っていく。
「まさか……わざわざ全部暗記したんですか?」
瀬戸晴翔が、本気で信じられないといった声で問いかけた。
その視線の先で、陽向は少しだけ首を傾げる。
「んー、暗記したというか……」
視線だけを、ふわりと天井へ向ける。
まるで、まだどこか遠くに残っている記憶を探しに行くみたいに。
「それぞれの応援団長から上がってきた提出書類を読んだ時に……」
言葉を選ぶように、ゆっくりと紡ぐ。
「その文章から、なんか……その人たちの熱意とか、想いが、すごい伝わってきて……」
目を閉じる。
その瞬間、陽向の中で、何らの映像が再生されているのが、誰の目にもわかった。
「笑い合ってるのかな、とか……練習頑張ってるんだろうな、とか色々想像して、わー!エモー!ってなって」
次の瞬間には、ぱっと表情が弾ける。
両手が大きく動いて、いつもの陽向に戻っていく。
「ひとつひとつ思い出してみたら、なんか勝手に覚えてたわ!」
ニカッ、と。
何事もなかったみたいに笑う。
そのあまりにも無邪気な結論に、一瞬、全員の思考が止まった。
「……それで本当に合ってます?」
瀬戸晴翔の声は、疑いというよりも、もはや確認だった。
この人の“普通”は、普通じゃない。
それが、なんとなく分かってきてしまっているからこそ。
「多分、合ってるよ」
その不安を断ち切るように、別の声が差し込む。
俊輔だった。
穏やかで、迷いのない声音。
「陽向は、小説でも古典でも……自分が感動した場面や台詞、和歌なんかも、いつも一字一句間違いなく覚えてる」
視線は、まっすぐ陽向へ向けられている。
「本の感想を言う時に、モノローグですら、そのままの文章を全部、正確に言ってくるんだよ」
興味があるものや、胸を震わせた瞬間の情景への異常な記憶力。
過剰な集中力。
感情移入の深さが、記憶としてそのまま残る。
それは意識していない。
努力していない。
まるで、呼吸のように。
「……嘘だろ……まじかよ……」
水野彗が、ぽつりと漏らす。
「いちいちそんな…深読みするか?」
彼女は、どんなに重要な連絡事項でもいつもすぐに抜け落ちる。
抜け落ちるどころか、直前に伝えた事すら“はいっ!”と返事だけはやたら元気にしておいて、秒単位で綺麗サッパリ忘れている事など日常茶飯事で。
自分が取った行動すら覚えていない事もあるというのに。
彼女は、記憶が出来ない生き物だと。
捉えていた。
計算も、構造も、論理も。
そういう世界で生きてきた水野彗にとって、それはまるで理解出来ない領域だった。
「さすがっ!文系学年トップ!」
相田桜子が、ぱんっと手を叩く。
その音が、空気を軽くする。
正確な事務処理や管理能力は、長く仕事をして慣れていけば誰だって出来るようになる。
──この人は。
誰よりも不器用で。
誰よりもミスも多くて。
誰よりも危なっかしいのに。
誰もが、当たり前に出来ることが驚くほど出来ないのに。
どうしてこんな時だけ、誰にも出来ないことを、当たり前みたいにやってしまうのか。
その場にいた全員が、同じことを思っていた。
「てかさ、そもそも……」
橘梨愛が、画面から視線を外さないまま口を開いた。
「別に一字一句合ってなくたって、大体合ってりゃいいのよ、こんなもん」
あまりにも現実的で、あまりにも冷静な言葉。
「どうせ提出した本人たちだって、文章なんて暗記してないでしょ」
「そーだそーだ!固いこと言うな!」
即座に乗っかる陽向。
さっきまで泣いていた人間とは思えない軽さで、拳を振り上げる。
空気が、一気に日常へ戻る。
「そんな事でドヤらないで下さい!」
瀬戸晴翔のツッコミが、ぴしっと入る。
「そもそも最初から星野さんが資料を紛失しなければ、わざわざ役員達がみんなで朝早くからこんな余計な仕事を──」
その瞬間。
キーンコーンカーンコーン──
乾いたチャイムの音が、室内に響き渡った。
時間が、現実へ引き戻される。
「やば!予鈴!」
陽向の声が、弾ける。
「あと続きは昼休みにやろう。孝明頼んだよ」
橘梨愛が、すでに次の段取りへ移っている。
「えっ俺!?」
阿久津孝明の声が裏返る。
「あと少しなんだからすぐ終わるでしょ。昼休み中に仕上げて、PDF化と顧問提出までよろしくね」
「橘先輩……後輩扱い荒いっすよ……」
「1年生なんて暇でしょー。こちとら受験生なんだから」
容赦ない会話。
けれど、そのやり取りすら、どこか温度を含んでいる。
「阿久津くん……私も手伝うよ」
相田桜子が、ふっと寄り添う。
「はい。みんな急いで教室行かないと、揃って全員遅刻になるよ」
そして。
俊輔の声が、場を締めた。
「10秒以内に全員、生徒会室出て。10、9……」
カウントダウン。
その一言で、空気が一気に切り替わる。
次の瞬間、椅子が引かれ、紙がまとめられ、足音が弾ける。
役員たちは、一斉に動き出した。
まるで、ひとつのチームとして。
扉が開く。
朝の光が、流れ込む。
そして──
それぞれの教室へと、駆け出していった。
(お前にしか出来ない事が、絶対たくさんあるはずだ。)
廊下を駆ける陽向の頭に、朔也の声が響いた。
体育祭は回る。
誰かの力だけじゃなく。
この場にいる全員の力で。
ガラッ──
二年二組の教室の扉が勢いよく開いた。
入口に相田桜子の姿が現れた瞬間、ひとりの男子生徒が弾かれたように顔を上げた。
そして次の瞬間には、迷いなく彼女のもとへ駆け寄ってくる。
「相田…どうなった!? 大丈夫そうか!?」
「黒川くん!」
黒川朔也の声には、焦りや不安が隠しきれていない。
まるで自分のことみたいに落ち着かないまま、結果だけを真っ先に知りたくてたまらなかったのだと、ひと目でわかるくらいに。
相田桜子は、そんな朔也の顔を見た瞬間、胸の奥がふっと緩むのを感じた。
その安堵をそのまま伝えるみたいに、すっと指を立てて、朔也の前でブイサインを作った。
「先輩達がシゴデキ過ぎで一瞬で作り直して、今日の締め切り間に合いそう!」
その言葉が届いた途端、朔也の顔から強張りがほどけた。
「よし…っ!」
ぐっと握られた拳。
思わず漏れたようなガッツポーズは、あまりにも素直で、あまりにもわかりやすかった。
その姿を見て、相田桜子の胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
クラスの中での黒川朔也の印象は、正直あまり穏やかなものではなかった。
口調は乱暴で、チャラチャラして見えて。
ノリと軽さで生きているような顔をしていて。
ギャルっぽい子たちにモテていて、囲まれていることも多くて。
なんとなく“軽い人”“ちょっと怖い人”というイメージで。
クラスの中で大人しいタイプの自分と無縁な人だと思ってた。
でも──
違かったんだね。
こんなふうに、誰かのことを本気で心配して。
自分のことみたいに慌てて。
見えないところで動いて、ちゃんと人のために必死になれる人だったんだ。
今回、生徒会を襲ったあのピンチを、表には出ないところで最初に動かして、結果的に救った功労者は──
(……間違いなく、黒川くんだな)
そう思った瞬間、相田桜子の中で彼を見る印象が、静かに形を変えた。
相田桜子は、わざと口元をゆるめて言った。
「よっぽど陽向ちゃんの事、心配なんだねっ!」
すると朔也は、反射みたいに眉をひそめる。
「バカか! 俺が心配してんのは体育祭だ!」
言い返す声はいつも通り荒っぽい。
けれど、その速さが逆に、図星を隠したいみたいにも見えてしまって、相田桜子は余計におかしくなる。
「えー、そんなキャラじゃないじゃん。学校行事とかダルってタイプでしょ?」
少し首を傾げてわざとらしく言うと、朔也の目つきがじろりと鋭くなる。
「ぶっ飛ばすぞ」
「ねー、怖いんですけど」
教室の窓から差し込む昼の光が、二人の足元にやわらかく落ちていた。
さっきまで胸の奥に張りついていた緊張は、もうほとんど溶けている。
その代わりに残ったのは、少しだけあたたかくて、少しだけくすぐったい感情だった。
黒川朔也という人を、ほんの少しだけ、昨日までより近く感じた気がした。




