第83話 また、電話していいですか?
鉄道会社の問い合わせ窓口は、夜八時まで。
その時間の区切りが、ひとつの可能性を閉ざす音みたいに、やけに重く胸に残る。
朔也は、ベッドにもたれかかるように腰を下ろしていた。
ただ、手の中のスマホだけが、わずかに光を持っている。
薄い可能性に縋るみたいに、もう一度だけ電話をかける。
呼び出し音。
一定のリズムで鳴る電子音が、やけに遠く感じる。
けれど──
「……ちっ……今日は追えないか……」
通話を切ったあと、低く吐き捨てる。
案内の声は丁寧で、淡々としていて、何の感情もなかった。
だからこそ、その内容だけが、まっすぐに突き刺さる。
最寄りの路線は、終点に着いても折り返し運行。
もしくは、そのまま別路線へと流れていく。
つまり──
今この瞬間も、あの手提げはどこかを走り続けている。
誰にも気づかれずに。
親切な誰かが拾い上げて、窓口に届けてくれない限り。
終電を迎えて、車庫に入るその時まで。
確認は、取れない。
(ホームか電車内の謎の手提げなんて……)
朔也は、視線を落とす。
(……普通…放置か)
自分が乗客の立場でもそうする。
見知らぬ荷物に、わざわざ関わる理由なんてない。
善意なんて、そんなに都合よく転がってない。
「……………。」
静寂が、部屋の中に沈む。
時計の秒針の音だけが、やけに耳に残る。
───出てこないかもしれない。
その可能性が、ゆっくりと形を持つ。
考えないようにしても、勝手に浮かんでくる。
あのまま、見つからなかったら。
体育祭はどうなる。
陽向はどうなる。
朔也は、無意識にスマホを握り直した。
(……俺に出来るのは…ここまでだな)
手提げを追うことは出来る。
でも、その先は違う。
資料が出てこなかった時、どうするか。
それは、生徒会の領域だ。
朔也は再びスマホを操作した。
クラスLINEを開く。
スクロール。
迷いなく、ひとつの名前で止まる。
相田桜子。
自分のクラスメイトで、陽向と仲も良い。
そして──生徒会役員。
それから、通話ボタンを押した。
呼び出し音が、短く鳴る。
「………あ、相田?夜分に申し訳ない。今大丈夫か?」
声は低く、落ち着いている。
焦っていないように聞こえるように、無意識に抑えているだけで。
胸の奥は、静かに急いていた。
状況を、端的に説明する。
無駄なく、正確に。
「俺は生徒会役員の連絡先を相田しか知らないから、本当ごめんけど……」
ほんの一拍、言葉を選ぶ。
「そーゆうわけだから。相田、動けるか?」
その一言には、全部乗っていた。
数秒の沈黙のあと──
《うん…!わかった。こっちで連絡してみる。黒川くんありがとう!》
その声は、思っていたよりも強くて、迷いがなかった。
────────。
相田桜子は、朔也との通話が切れたあともすぐにスマホを操作する。
「えっとー……連絡……」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
指先が、スマホの画面をなぞる。
少しだけ、冷たい。
生徒会LINEを開いた、その瞬間──
ふっと、ひとつの顔が浮かんだ。
(…瀬戸先輩….…)
反射みたいに思い浮かんでしまったその存在に、ほんの一瞬、指が止まる。
そして、慌てて頭の中で理由を並べる。
(……陽向ちゃんと…っ同じ副会長だし!)
そう、自分に言い聞かせる。
(陽向ちゃんの仕事内容、一番把握してるだろうし!)
けれど──
その言い訳が、心のどこかで少しだけ不自然なことに気づいてしまう。
「……………。」
小さく、息を飲む。
そのまま、画面をタップする。
瀬戸晴翔のトーク画面が開く。
見慣れた名前。
これまでのやり取り。
整った文字の並び。
それだけで、胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
「………電話するの……初めてだな……」
ぽつりと漏れる声は、やけに静かで。
指先が、わずかに震える。
ドクン、と心臓が鳴る。
(……なんで……こんなに……)
戸惑う。
これは、緊急事態だから。
焦ってるから。
そう思うのに、鼓動は収まらない。
(…き…緊急事態だし!)
再び、自分に言い聞かせる。
(メッセージでやり取りしてる場合じゃないし!)
理由を重ねる。
(緊張してる場合じゃない!)
ぐっと、唇を結ぶ。
胸の奥が、きゅっと熱くなる。
「……っ……」
小さく息を吸って。
ぎゅっと指先に力を込めて、通話ボタンを押した。
呼び出し音が、静かな部屋に響く。
その音が、やけに長く感じる。
一秒ごとに、鼓動が大きくなる。
出るかな。
今、大丈夫かな。
どう説明しよう。
頭の中で言葉がぐるぐる回る。
相田桜子は、無意識に自分の胸元をぎゅっと握りしめていた。
────────。
静まり返った瀬戸晴翔の自室に、唐突に呼び出し音が鳴り響いた。
「えぇっ!?ななな、なんで!?」
反射的に声が漏れる。
表示された名前に、心臓が跳ね上がった。
(相田さんが……こんな時間に電話っ!?)
一気に血が巡る。
身体の奥から、ドクンと大きく鼓動が鳴る。
スマホを持つ手が震えているのがわかる。
ゴクリ、と唾を飲み込む喉の音が、やけに大きく響いた。
スライドさせた指は、迷いなく通話ボタンを押していた。
「はい……」
声は、出来る限り平静を装った。
震えを抑え込んで、いつも通りのトーンに寄せる。
副会長としての自分を、無理やり前に出すみたいに。
《あっ……こんな時間にすみません……先輩……今、大丈夫ですか……》
その声が、耳に届く。
電話越しに響く音は、紛れもなく相田桜子本人の声だった。
全身から、ぶわっと汗が滲む。
自分の心臓の音が、うるさい。
「大丈夫だよ。なにかあった?」
どうにか言葉を整える。
期待と不安が、同時に膨らむ。
そして、相田桜子が状況を話し始める。
その一言一言が、現実として積み上がっていく。
(……は?)
一瞬、思考が止まる。
そして次の瞬間──
「あのポンコツ副会長があぁぁぁーーーー!!!」
抑えきれなかった感情が、そのまま口から飛び出した。
静かな部屋に、声だけが強く響く。
しまった、と思った時にはもう遅い。
《あ…でも……流石の陽向ちゃんも今、結構メンタルやばいっぽくて……本人動けないかもしれないからって、その黒川くんが言ってたから……》
電話越しの声が、少しだけ慌てている。
“怒らないで”
そんな気配が、はっきりと伝わってくる。
「…………。」
瀬戸晴翔は、息をひとつ、吐く。
胸の奥で荒れていたものが、彼女のそんな雰囲気にゆっくりと鎮められていく。
「わかった。まぁ……こっちでなんとかするよ。」
声は、落ち着いていた。
さっきまでの動揺が嘘みたいに、平坦で、冷静で。
副会長としての判断だけを、そこに乗せる。
《本当ですか!?私も……手伝います!!》
その言葉に、ほんの少しだけ空気が和らぐ。
「ああ…ありがとう。」
短く返してから、すぐに次の段取りへ思考を移す。
「明日、朝少し早く学校来られる?」
間髪入れない確認。
《大丈夫です!》
「じゃあ、生徒会室に来てくれたら助かる。あとはこっちで、他にも連絡入れておくから。」
段取りを整えるように、言葉を置いていく。
その時──
《えっと……生徒会長には……?》
ふと、差し込まれたその問い。
「…………。」
瀬戸晴翔は、わずかに言葉を止めた。
──藤崎会長。
頭に浮かぶのは、あの背中。
迷いなく決断を下す人間。
誰よりも正確で、誰よりも速い。
それでも。
「……いや。」
短く、答える。
「藤崎会長は今、出願の真っ只中だから。余計なノイズを入れるのはやめよう。」
声は、落ち着いていた。
感情ではなく、判断として。
星野陽向が絡むと、自分の全てを投げ出してしまう可能性も否定出来ない。
間違いなく、その傾向懸念がある。
あの人の為に──今、自分が出来る事。
「僕らで何とか出来る案件だから。」
言い切る。
その一言に、責任が乗る。
電話の向こうで、わずかに息を呑む気配がした。
《…瀬戸先輩………》
その呼び方が、少しだけ柔らかくなる。
「報告はするけど、事後報告にする。」
一拍置いてから、続ける。
「大丈夫。明日中に解決して、明日中に報告出来るから。」
未来を確定させるように。
言葉で、状況を引き寄せるみたいに。
短い沈黙。
そして──
《………瀬戸副会長を…頼って良かったです。》
その言葉が、静かに落ちた瞬間。
ドクン、と。
心臓が、大きく鳴った。
一拍遅れて、その意味が染み込んでくる。
“彼女から、頼られた”
その実感が、突然、胸の奥へ落ちてきた。
一気に熱が上がる。
顔が、ボッと熱い。
「……相田さんに……頼って貰えて嬉しいな…」
気づいた時には、もう言葉が出ていた。
(急になに言ってんだーーーー!!!!)
次の瞬間、自分で自分にツッコミを入れる。
頭の中が、一気に真っ白になる。
しまった。
今のは違う。
違うだろ。
言い直そうとしても、もう遅い。
言葉は、空気に溶けてしまっている。
電話の向こうが、一瞬、静かになる。
──ドキンッ!
相田桜子の心臓が、大きく跳ねた。
(えぇっ!?)
一気に、鼓動が早くなる。
さっきまでの緊急事態の緊張とは違う、別の熱。
(…今の……どうゆう意味だろう……)
頭が、うまく回らない。
言葉を選ぼうとすると、逆に何も出てこない。
それでも。
何か返さなきゃと、必死に口を開く。
「…私も……嬉しい……です。」
かすれるような声。
震えを、隠しきれない。
その一言に、自分でも驚く。
《……え……なに……が……?》
瀬戸晴翔の声も、少しだけ揺れている。
同じように、戸惑っているのがお互いにわかる。
その温度が、距離を一気に近づける。
言わなきゃ。
でも、うまく言えない。
心の中の言葉が、そのまま溢れそうになる。
「……先輩と……話しが………出来て…………」
途切れる。
最後まで、言い切れない。
言葉になりきらなかった想いだけが、二人の間に、そっと落ちていた。
「……………。」
………へ?
瀬戸晴翔の世界が、一瞬、止まった。
音が消える。
さっきまで確かにそこにあった、夜の静けさも、
自分の呼吸音すらも、どこか遠くへ引いていく。
彼女の言葉が、まだ耳の奥に残っているのに、それが現実のものとして、うまく形にならない。
(今……何て……?)
理解しようとした瞬間、逆に全部がぼやける。
「そそそ、そんな!…っ相田さんなら…いつでも!また……何回でも!」
反射だった。
考えるよりも先に、口が動いた。
空気を掴むみたいに、慌てて差し出した言葉は、自分でも驚くほど、必死で。
一拍遅れて、我に返る。
(今の……めちゃくちゃキモくないか……?)
頭の中で、自分の発言が再生される。
“いつでも”
“何回でも”
重い。
いや、普通にキモい。
自分で自分が気持ち悪い。
顔が一気に熱を持つ。
言い直そうとしても、もう遅い。
言葉は、取り消せないまま、夜の中に放たれてしまっている。
その時──
《…また……電話してもいいんですか……?》
小さく、確かめるような声。
一瞬、息が止まる。
彼女は、引いていない。
むしろ──
少しだけ、期待しているような。
その温度に気づいた瞬間、胸の奥が、ぎゅっと掴まれた。
「当たり前だよ!大歓迎だよ!」
今度は、迷いなく返す。
さっきのような焦りじゃない。
もっと、シンプルで、まっすぐな声。
その言葉を口にした瞬間──
(…これ自分……ほぼ告ってないか?)
冷静な自分が、横から刺してくる。
けれど。
不思議と、後悔はなかった。
《ありがとうございます!また電話しますね。》
弾むような声。
その一言だけで、空気の色が少し変わる。
「うん。また電話しよう。」
自然に出たその言葉は、ほんの少しだけ、未来を含んでいた。
顔が、柔らかくほどけているのが自分でもわかる。
それから。
「それじゃあ明日、生徒会室で。おやすみなさい」
「うん、よろしく。おやすみ」
短い挨拶を交わして、通話は静かに途切れた。
部屋に、再び夜が戻る。
けれど。
さっきまでとは、少しだけ違う夜だった。
「……………はぁ……」
息を吐く。
胸の奥で鳴り続けている鼓動が、まだ収まらない。
スマホを持つ手が、じんわりと熱い。
「……ったく……星野陽向は毎回毎回……」
相田桜子との通話が切れて、思わずぽつりと零れる独り言。
苛立ち半分。
呆れ半分。
でも、その奥にあるのは──
(本当……いつもやらかしてくれるけど……)
苦笑が、滲む。
きっかけは全部、あいつだ。
巻き込まれて。
振り回されて。
気づけば、こんなところまで来ている。
さっきの声が、まだ耳に残っている。
《また電話してもいいんですか……?》
あの遠慮がちな響き。
それを思い出すだけで、
胸の奥が、じわりと温かくなる。
椅子の背にもたれ、天井を仰ぐ。
白い天井が、ぼんやりと滲む。
頬に残る熱が、なかなか引かない。
「また……いい仕事してくれた…な。」
ぽつりと落ちた言葉は、
呆れでも、皮肉でもなくて。
どこか──
ほんの少しだけ、嬉しそうだった。




