第82話 太陽と新月
《…次は───…》
くぐもった車内アナウンスが、意識の奥に、かすかに触れる。
「…………?」
浅い眠りの底から、ゆっくりと浮かび上がる。
まぶたが重い。
頭の芯が、ぼんやりと霞んでいる。
自分がどこにいるのかさえ、一瞬わからなくなる。
電車が減速する。
レールの軋む音が耳に響く。
陽向は、半ば反射的に顔を上げて、窓の外へ視線を投げた。
電車が見慣れないホームに差し掛かる。
見慣れない駅名。
「げ。寝過ごした…!」
扉が開いた瞬間、弾かれるように立ち上がる。
身体がまだ完全に起きていないのに、足だけが先に動いた。
ホームに飛び出すと、夜の空気が一気に頬を打つ。
(はぁ〜……最悪……)
溜め息が白く滲む。
頭はまだ重い。
さっきまで見ていた夢の残りカスが、思考の端にまとわりついている。
(最近多いな……寝過ごすの……)
ぼんやりとしたまま、反対側のホームへ歩く。
足取りが少しだけ不安定で、電車を待つ時間さえ、どこか現実感が薄くて。
ただ流されるままに、二駅分を戻っていく。
ほんの数分の遅れなのに、妙に重く感じた。
────────。
「ふぁ…」
こぼれた欠伸が、夜の空気に溶ける。
まだ意識のどこかが眠りの底に引っかかっていて、現実に戻りきれていない。
ぼんやりとしたまま、自転車に跨る。
ペダルを踏む足が、少しだけ重い。
(私が作ってるタイムテーブル…はるるがまとめてくれた各クラスの競技の所要時間とちょっとズレてたな…)
頭の奥で、さっきまで見ていた画面の数字がちらつく。
(そこ修正しないと……昼休みと休憩の調整して……予備時間の確保どうすっかな……)
考えているはずなのに、思考はうまく形にならない。
焦りだけが、鈍く胸に沈んでいく。
気がつけば、自宅の前だった。
ブレーキをかける。
タイヤが、アスファルトを擦る乾いた音。
自転車を止める動作さえどこか機械的で。
身体だけが先に帰ってきて、頭はまだ電車の中に取り残されているみたいだった。
「ただいまー」
玄関に入ると、いつものようにレオが尻尾を振って迎えてくれる。
「レオーっ!」
抱き上げて、ぎゅぅっと抱きしめる。
廊下を進む。
「おかえりー、遅かったね」
「やー…また今日も電車で寝落ちしちゃってさー」
キッチンに立つ母親と会話をしながらレオを下ろすと、スクールバッグをボンッとソファに投げる。
そのまま自分の体も、力を失ったように沈めた。
「あー疲れたー、今日のご飯なにー?」
天井を見上げたまま、言葉が伸びる。
「ガパオライス」
「何分後?」
「んー米炊くの忘れててさぁ、炊き上がりまで……あと30分。」
炊飯器の表示を覗き込む母の声。
「30分かぁ…」
(……この隙に…続きやるか。)
身体は重い。
そこへ、まとわりついてくるレオ。
いつもならここで全力で遊んであげるところなのに、その気力すら沸かない。
ただ、天井を見つめたままボーッと撫でる。
でも、止まるわけにはいかない。
陽向は、小さく息を吸って。
「よっこらしょ!」
えい、と上体を起こす。
視線を、ソファに放り投げたスクールバッグへ向ける。
(………ん?)
手提げ袋が………ない。
「あれ?」
陽向は立ち上がり、玄関へ駆ける。
玄関にも、ない。
掃き出し口の椅子の上にも。
床にも。
靴を引っ掛けるように履いて、扉を開ける。
自転車の籠にも、ない。
一度、家に戻る。
リビングの入口。
ソファの周り。
クッションをどかす。
床に膝をつく。
視界を這うように、探す。
(そもそも私……)
呼吸が、少し浅くなる。
(……家に入る時に手提げ持ってた?)
ゾワ…と背筋が冷える。
(電車降りた時は待ってた…?)
指先の感覚が、遠くなる。
(乗り過ごした時に降りたホームで持ってた…?)
全身から、汗が吹き出す。
(私……学校の最寄りから……手提げ持って…電車に乗った?)
ドクンッ──
心臓の音が、大きくなる。
生徒会室を出た時は、手提げを確実に持って出た筈。
一気に血の気が引いた。
(やばい……!!)
その先の、記憶がない。
どこで消えたのか。
いつまで持ってて、いつから持っていないのか。
昇降口?
改札?
学校の駅のホーム?
最初の電車?
乗り過ごした駅のホーム?
戻りの電車?
いくら記憶を辿っても、そこだけ真っ白に霞んでいる。
ぽっかりと空いた穴だけが、現実を侵食していく。
「ちょっと出てくる!!」
「えっ!ひな!?どこいくのー!」
母親の問いは、耳には入らなかった。
とにかく戻ろう。
記憶を辿って、来た道を辿って、最悪学校まで戻らなきゃ。
玄関を飛び出す。
(どうしようどうしようどうしよう)
あれが無くなったら。
思考が、一気に悲劇へ傾く。
最悪のパターンが勝手に再生されていく。
あの手提げは、体育祭の全て。
各クラスの競技の詳細。
配置図。
放送アナウンス原稿。
役員割り振り表。
イベントの核。
あれが無いと体育祭は回らない。
体育祭は5日後。
今から全学年や体育祭実行委員や放送委員から資料を全てかき集め直してゼロから作り直すのは物理的に不可能。
体育祭の現場は──壊れる。
「……はっ…はぁ、…はっ……はっ……」
呼吸が苦しい。
喉が焼ける。
涙が勝手に溢れる。
全身が震える。
震える手で、自転車に手をかける。
スタンドを蹴り上げようとして──
ガシャ…ガシャン…
外れる。
力が入らない。
ガシャン…!
足がガクガクしていて、言うことをきかない。
酸素が足りない。
視界がぐらりと揺れる。
音が消えていく。
……世界が……………遠くなる……………
(……や…ば………パニッ………ク………)
その瞬間────────。
「ひな!!」
名前を呼ぶ声が、夜を裂いた。
「……!」
反射的に振り向くと、部活帰りのリュックを肩にかけたまま、隣家の前で自転車を止めている朔也の姿。
そのシルエットを認識した瞬間、張り詰めていた何かが、一気に崩れそうになる。
朔也は、陽向の姿を視界に捉えた瞬間に理解していた。
様子が、明らかにおかしい。
「……っ!?」
陽向の元へ急いで駆け寄ると、その顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
呼吸は浅く、速く、喉の奥で空気が引っかかるように震えている。
焦点の合わない瞳。
過呼吸。
パニック発作だ。
幼い頃から、何度か見てきた光景。
朔也は一歩踏み込んで、迷いなく陽向の肩を支える。
「前かがみになって…!鼻から吸え。ゆっくり…!」
ぐらりと揺れる身体を引き寄せる。
背中に触れた掌の温度を、逃さないように。
「吐いて……口から。大丈夫、もっとゆっくり……」
背中を一定のリズムで摩る。
呼吸の速度を、こちらのペースに引き戻すみたいに。
荒れていた呼吸が、少しずつ、少しずつほどけていく。
詰まっていた空気が抜けるように、
陽向の胸が、やっと上下し始める。
夜の冷たい空気が、ようやく肺の奥まで届く。
「……っ……は……」
陽向の震えていた肩が、ゆっくりと落ちていく。
やがて──
呼吸は、静かに整った。
「……ごめん……朔也…っ…ありがと……私…っ行かなきゃ……」
その言葉と同時に、陽向は体を離す。
ガシャン!
強引に、自転車のスタンドを蹴り上げる。
「行くって……こんな状態でどこ行くんだよ!」
朔也の声が、今度は低く強くなる。
「……体育祭の……進行資料が入った手提げ、無くして……っ……パソコンも……USBも……どこで忘れてきたのか……わかんなくって……」
言葉が、途切れ途切れに零れる。
そのたびに、呼吸が乱れそうになるのを必死に堪えている。
涙は止まらない。
頬を伝って、顎からぽたぽたと落ちていく。
「……明日締切なのに……終わってなくて……っ……家でやろうと思って……全部、手提げに入れてて……っ……あれが無くなったら……」
喉が詰まる。
その先の言葉が、怖くて言えないみたいに。
ただ、涙だけが溢れ続ける。
朔也は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
その様子だけでわかる。
どれだけ追い詰めてたか。
どれだけ一人で抱えてたか。
こんな限界になるまで、張り詰めて。
それが、痛い程に伝わってくる。
「学校からは、確実に持って出たの?」
声は落ち着いている。
焦りを乗せない、確認の声。
「……わかんない……っ……生徒会室からは……確実に……」
「寄り道は?」
首を横に振る。
「電車に乗る時は?」
「……わかんないよ……っ……」
記憶が抜け落ちている。
その事実が、さらに陽向を追い詰めていく。
朔也はスマホを取り出した。
迷いなく画面を操作し、そのまま耳に当てる。
数秒の呼び出し音。
夜の静けさの中で、それだけがやけに大きく響く。
鉄道会社へ、淡々と簡潔に状況を伝える。
駅名、路線、時間、特徴。
一つも無駄のない声。
しかし、すぐに答えは返ってこない。
「……あぁ、はい。……お願いします」
通話を切る。
「まだ時間もそんな経ってねぇからな……電車が終点に着くか、誰かが拾って届けるかしねぇと、確認は出ねぇってよ」
静かにそう告げる。
「日本だし、金目のもんでもねぇし。大抵は出てくる。だから落ち着け」
その言葉は、慰めというより、事実の提示だった。
それでも──
陽向の視線は、地面に落ちたまま動かない。
呼吸は戻っても、心がまだ戻ってきていない。
「…………。」
力が抜けたみたいに、ただ立っている。
朔也は、少しだけ眉を寄せた。
「だいたい、そんな大量の仕事をなんでお前が1人で全部抱えてんだ。」
低く、吐き出す。
その言葉に、わずかな苛立ちが滲む。
「2学期入ってから毎日朝早くに家出て、帰りも遅いの知ってんだぞ。無理ばっかしてっからそんなヤバい案件で事故ってんだろ」
一学期まで、同じ時間に家を出ていた頃。
隣を歩くのが当たり前だった日々。
ここ最近、“生徒会の仕事”と言って陽向が毎朝先に学校へ行く事を心配していた。
中学まで遅刻の常習者だった筈なのに。
その背中が少しずつ遠くなっていくのを、何も言えずに、ただ見ていた。
「1人で全部じゃない。他の役員は私よりもっと沢山の仕事量をこなしてる……私より短い時間で、私より正確に、私より要領良く仕事を片付けてる。」
陽向の声が、小さく揺れる。
言葉を並べるたびに、自分の位置を確かめるみたいに。
「私は…みんなより早く学校行っても、みんなより遅くまで残っても、私はそれでも終わらないんだよっ!」
夜に弾ける声。
その一言に、積み重ねてきた時間の重さが、全部乗っていた。
「だったら手伝って貰うとか、もっと仕事配分を軽くして貰うとか、仕事なんて出来る奴に振って貰えばいいだろーが!」
朔也の声は、責めているようでいて、どこか悔しさに近かった。
「出来るわけないよ!!副会長だよっ!?」
陽向の声が、鋭く夜風を裂いた。
「副会長には副会長のやるべき仕事があって、他の役員には無い、副会長としての責任があるの!」
それは、言い聞かせでもあった。
自分がここに立っている理由を、自分で崩さないための、必死の言葉。
「只でさえ…これまでもミスやトラブルでみんなに迷惑ばっかりかけて……それでも既に充分、仕事の量も……受験生の瀬戸副会長に比べてだいぶ軽くして貰ってるのに……」
ぎゅっと握りしめた拳が、震えている。
指先が白くなるほどに力を込めて、
それでも止まらない震えを押さえ込もうとしている。
「これ以上弱音なんて吐いたら……もうそれは甘えだよ…俊ちゃんの受験の足枷になるし……俊ちゃんが……また彼女を甘やかしてるって言われちゃう。」
自分が押した背中を、自分で引っ張るわけにはいかない。
頼るわけにはいかないし、未来へ向けて頑張る彼の努力を邪魔する事なんて出来ない。
「私のせいで、俊ちゃんに迷惑が掛かるんだよ!!」
叫びは、どこかで砕けた。
その破片だけが、夜に散っていく。
その場に残るのは、張り詰めすぎて、今にも切れてしまいそうな空気と。
必死に、倒れないように踏ん張っている、小さな背中。
静寂が落ちる。
その中で──
「出来ない事が……悪い事か…?」
低い声が、静かに差し込まれる。
さっきまで何も言わずに黙って聞いていた朔也の口が、ようやく開く。
その声音は、怒鳴るでも、責めるでもなく。
ただ、真っ直ぐだった。
「出来ない理由はお前の怠慢か?お前がどんなに努力したって無理したって、お前のそれは生まれつきだ。」
夜の空気が、ぴんと張り詰めた。
言葉が、深く沈む。
「それはお前のせいなのか?お前が選んで、そんなふうに生まれてきたのか?」
陽向の中で、何かがひび割れる音がした。
それは、陽向がずっと握りしめていた“自己責任”。
「お前……自分を見誤るなよ。」
その一言は、叱責じゃなかった。
引き戻すための声だった。
「出来ない事は出来ない事。抗ったって苦しんだって限界がある。だけどお前には、他の奴には出来ないことがあんだろ。」
少しだけ、声の温度が変わる。
断言する。
迷いなく。
「お前にしか出来ない事が、絶対たくさんあるはずだ。」
その言葉は、押しつけじゃなくて。
ただ、わかっているという事実だった。
一歩、踏み込む。
「人を頼って何が悪い。自分じゃ出来ない事を人に甘えて何が悪い?それは、諦めなんかじゃない。自分を殺してじゃないと出来ない副会長なんて、今すぐ降りろ。」
言葉が鋭くなる。
空気が、震える。
「背伸びしてなきゃ一緒に居られないような彼氏なんて、今すぐ別れちまえ!」
その一言は、刃みたいだった。
でも──
その刃の向きは、陽向じゃない。
陽向を縛りつけているもの、その全部を切りつけるかのように向いていた。
「………………。」
音が消えた。
夜の気配も、風の冷たさも、何もかもが一瞬、遠のいたみたいに。
鋭く、容赦なく、陽向の胸の奥深くへ、真っ直ぐに突き刺さる。
ADHDだから。
発達障害だから。
それを、言い訳にしたくなかった。
ちゃんと意識すれば。
人より努力すれば。
誰よりも頑張れば。
“普通の人並みレベル”は、出来るって。
高校に入って。
自分を変えて。
自信を持てて。
やっと、自分を好きになれて。
出来ない事から、逃げたくなかった。
なりたい自分になる事を、絶対諦めたくなかった。
「…ひなはもう……充分頑張ってるよ。」
ぽつりと落ちたその一言は──
驚くほど静かで。
驚くほど、優しかった。
その瞬間、陽向の中で何かが崩れた。
ずっと張り詰めていたものが。
必死に保っていた輪郭が。
音を立てて壊れていく。
込み上げるもので視界が滲んで、世界が歪んだ。
「しんどいならしんどいって言え。無理なら無理って言え。イキんなよ。それも含めて、自分なんだから。」
夜風が、頬を撫でる。
その冷たさに、ようやく自分の体温を思い出すみたいに。
涙が、ポロっと頬を伝う。
次の瞬間には──
止めどなく溢れていた。
「……………………しん……どい……よぉ……っ」
声が震える。
言葉が形にならない。
喉の奥で、崩れる。
「…しんどい…めっちゃ…辛い……ひっく… 疲れたよぉ……っもう…キツイよ……っうぅ…無理だよ……っ」
押し込めていた胸の内側は、堰が外れたように全て零れ落ちる。
呼吸が乱れて、苦しい。
それでも、止められない。
「…グス…寂しいよ……っふ…ぅ……会いたいよ…もっと…ヒック…もっと一緒に居たいよぉ……っ」
ぎゅっ……
朔也は、泣きじゃくる陽向を静かに抱きしめた。
抱き寄せられたその腕は、何も言わずに、ただ、包み込む腕。
逃げ場を与えるみたいに。
壊れてもいいと許すみたいに。
「…あいつの代わりには、ならないかもしれない……」
低く、落ちる声。
でも、その腕は離れない。
むしろ、壊れそうなものを守るみたいに、静かに力強くなる。
「だけど俺は絶対あいつより、誰よりもひなの事を知ってるから。」
俊輔は。
陽向の“陽”を見抜いて、導き、信頼する光。
朔也は。
陽向の“陰”を見抜いて、救い、支える影。
陽向は。
太陽は、沈む。
明るく高く昂る時があれば、地平線の下に隠れて、夜に入り、見えなくなる時間がある。
太陽が、地平線へ沈んだその時に。
闇夜に静かに昂る月。
満月のような強い輝きではない。
表立って報われるわけでもなく、目立つ形で照らされ、選ばれるわけでもない。
でも確かにそこにあって、太陽の裏側を一番知りながら、暗い闇の中で、いつも必ずその場所にいる。
朔也は。
陽向と一直線に並んで。
陽向と同じ高さで
陽向と同じ方向に居て。
そんな、太陽の影に生まれる新月。
「…ぅ…ふぇ〜〜〜〜……っ」
言葉にならない声が零れる。
陽向は、朔也の胸に顔を埋めた。
本当は。
ずっと、言いたかった。
強くなりたかった。
でも──
本当は、弱いんだ。
その全部を、ようやく、自分で認めた瞬間だった。
抑えていたものも。
守ってきたものも。
取り繕っていた全部も。
そのまま、全部、ぶちまけるみたいに。
夜の中で。
ようやく、息ができた。




