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セカンドシーズン ─好きな人を、真っ直ぐに。─ 〜第二章〜高2編〜  作者: 波方 真季


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第77話 今と未来の天秤


指導室には、夏の終わり特有の静けさがあった。


窓の外では、運動部の掛け声が遠く反響している。

けれどこの部屋の中だけは、別の時間が流れているようだった。


「……素晴らしいほど上出来だな。いや〜この内容なら、EDではなくEA出願に切り替えたとしても恐らく十分に合格圏内で、かなり高い確率で通ると思うぞ」


「……ありがとうございます」


担任と進路指導教員が、俊輔の仕上げたエッセイを机の上に広げている。

紙をめくる音。

ペン先で細かな表現に印をつける音。

その一つひとつが、未来に直接触れているみたいで、俊輔は自然と背筋を伸ばしていた。


夏休みをほとんど捧げるようにして書き上げた文章だった。

何度も直して、何度も削って、ようやく辿り着いた最終稿。

褒められているはずなのに、胸の奥はどこか落ち着かない。


その理由を、俊輔はもう分かっていた。


この言葉は“終わり”ではなく、多分ここからまた何かが始まる合図なのだと。




思考は、自然と一学期の三者面談へ遡っていく。




────────。




教室の中は、放課後の熱をまだ少しだけ残していた。


向かい合わせに並べられた机。

三つの椅子。

そのうちの一つに、俊輔は制服の背筋をきっちりと伸ばしたまま座っていた。


隣には母親。

正面には担任教師。


机の上には、開かれた成績表と進路資料。

薄い紙なのに、それが妙に重たく見えた。

窓の外から差し込む西日が紙の端を照らして、数字や評定の欄をやけにくっきりと浮かび上がらせている。


「……改めて見ると、かなり安定してますね」


担任が、成績表へ目を落としながら穏やかに言った。


「高1、高2の評定もトップクラスで問題ない。中でも英語は特に申し分ないし、課外活動の実績も十分です」


指先で書類を軽く叩く。

その仕草には、感心と確信が混ざっていた。


「海外出願としては、かなりいい位置にいると思います」


俊輔の母親は、短く頷いた。


「ありがとうございます」


いつも通りの、母親の簡潔で無駄のない受け答え。

その声は落ち着いていたが、俊輔の膝の上に置いた指先には、わずかに力が入っていた。


担任は、成績表からゆっくりと視線を上げる。

そして、俊輔の顔をまっすぐ見た。


「志望校は、ここで間違いない?」


机の上のリスト。

そこには、俊輔がこれまで第一志望として準備してきた大学名が記されている。


「はい。Early Decisionで出す予定です」


迷いのない俊輔の返答。

少なくとも、声だけを聞けばそうだった。

けれど、その言葉を聞いた担任は、小さく息を吐いた。


「……うん」


一拍の沈黙。

外から、野球部の掛け声が遠く聞こえる。

教室の中だけが、少しずつ重くなっていく。


「悪くない選択だと思う」


そう前置きしてから、担任は続けた。


「ただ……」


その瞬間、俊輔の母親が僅かに姿勢を正した。

空気が、目に見えない形で変わる。


「藤崎なら、もう一段上を狙える可能性があると思うんだ」


俊輔の視線が、ほんの僅かに揺れる。


「……と言いますと?」


「この成績、この実績、この英語力」


担任は一つひとつ、確認するみたいに指で数えていく。


「正直に言って、今考えている第一志望では少しもったいない。もう一段上のランクの大学でも、十分射程圏内に入ってる」


その言葉に、母親も静かに頷いた。


「私も……そう思っています」


俊輔は、すぐには何も言わなかった。

ただ、黙って聞いている。

その沈黙の奥で、自分の中にある“決めていたはずの進路”が、静かに輪郭を揺らし始めているのが分かった。


「もちろん、今の志望校を否定するわけじゃない」


担任は言葉を選びながら続ける。


「ただ、EDでそこに固定してしまうのは、少しもったいない気がするんだ」


ペン先が資料の上を、軽くなぞる。


「EAに切り替えて選択肢を残す。そのうえで、Regularでワンランク上に挑戦する」


一つひとつ、逃げ道を塞ぐようではなく、

けれど確実に未来の幅を広げる提案だった。


「この戦い方の方が、藤崎には合ってると思う」


俊輔の胸の奥で、何かが静かに沈む。


決めていたはずだった。

迷いはなかったはずだった。

自分なりに、ちゃんと現実的で、堅実で、確率の高い道を選んだつもりだった。


なのに。


「……でも」


ようやく、俊輔が口を開いた。


「EDの方が……合格率も上がりますし……」


「確実に取りにいくなら、その選択も正しい」


担任は、すぐに頷く。

否定はしない。

だからこそ、その次の問いが重かった。


「ただ、君は……なぜ海外の大学に進学する?」


その一言で、俊輔の思考は一気に内側へ潜った。


なぜ。


そんなもの、決まっている。

父の会社を継ぐためだ。

海外市場を知るため。

経営を学ぶため。

そのために、海外へ行く。


それ以上でも、それ以下でもない。

そう思ってきた。


決められた未来。

敷かれたレール。

その上を、自分はただ正しく走っていけばいい。


「……家業を継ぐ為です」


声は静かだった。

でも、自分で口にしたその言葉は、思った以上に硬くて冷たかった。


「そうだ、藤崎」


担任の声が続く。


「お前の将来は、アメリカという大規模市場を相手にする経営者だ」


その一言が、まっすぐ胸に刺さる。

俊輔は、わずかに視線を落とした。


「アメリカは日本と違う。弱肉強食の世界だ。能力のある者だけが生き残り、能力のない者は排除される厳しい世界だ」


机の上の自分の手。

その指先に、静かに力が入る。


「恐らく藤崎なら、この第一志望の大学には堅実に入れるだろう。入学後も、今と同じようにトップを走れる可能性は高い」


そこで担任は一度言葉を切った。

そして、俊輔の瞳をまっすぐ見つめる。


「ただ、世界は広いぞ。上には上が、いくらでもいる」


その言葉は、脅しではなかった。

事実として、ただ静かに置かれる。


「大学でも今までと同じように、勝ちレースを続けていくのか。それとも、もっと強者のいる環境に身を置いて、競合しながら自分をさらに高めていくのか」


教室の空気が、じわじわと濃くなる。


「そこは、ちゃんと考えた方がいい」


母親が、静かに言葉を継いだ。


「………俊輔……」


やわらかい声だった。

けれど、その声の芯には、母親としての覚悟がはっきり宿っていた。


「経営者たるもの。背負うものは、自分の人生だけではない。」


真っ直ぐな瞳で、俊輔を見つめる。


「あなたの成功は、全従業員とその家族の幸せ。あなたの失敗は、全従業員とその家族の不幸を招く。」


普通の高校生には、重過ぎるプレッシャーかもしれない。

しかし、それが現実だった。


そして、その紛れもない現実に折れないだけの自信と成功実績を、積み上げられるように息子を導いてきた確信がある。


「自分がどんな環境で、これからなにを学ぶべきなのか。しっかりと自らの判断で見極めなさい。」


その母親の一言が、俊輔の胸の奥の、普段は自分でも見ないようにしている場所へ触れた。


リスクに挑戦したい。


そんな気持ちは、とうに処理したつもりだった。

自分に必要なのは、憧れでも野心でもなく、完璧であり、失敗のない、最善の選択だと。

そうやって整理してきたつもりだったのに。


「企業競争は、アメリカ経済の知識と経営学が命だ」


担任の声が続く。


「藤崎なら、もっとレベルの高い環境で学べるだけのスキルも、価値もある」


言い切られる。

迷いなく。


「大学進学がゴールじゃない。お前のレースは、経営者になってからがスタートだ」


その言葉は静かなのに、

不思議と逃げ場がない。

押しつぶすような強さではなく、背中を押すような重さ。


俊輔は、ゆっくりと顔を上げた。

窓の外の光が、視界の端で滲む。


自分は、ずっと勝てる道を選ぼうとしていたのかもしれない。

失敗しない未来。

確実な未来。

完璧な未来。

でも──


それで、本当にいいのか。


喉の奥に引っかかったままのものが、ようやく声になる。


「……少し、考えます」


絞り出すような声だった。

けれど、その中には確かに意志があった。


担任は、満足そうに頷いた。


「うん。それでいい」


三者面談は、そこで一旦区切られた。


けれど俊輔の中では、もう何かが決定的に動いてしまっていた。


教室を出る頃には、廊下の光も少し傾いていて、いつも見慣れていたはずの校舎の景色が、ほんの少しだけ違って見えた。


“確定していた未来”だと思っていたものに、初めて、揺らぎが差し込んだ。


そしてその揺らぎは──


もう二度と、元の形には戻らないのだと、

俊輔はまだ、うまく言葉に出来ないまま、静かに理解し始めていた。



────────。



二学期初日の指導室に、担任の声が落ちた。


「まだ…迷ってるのか?」


机の上には、夏休みをかけて仕上げたエッセイ。

何度も推敲を重ねた文章の束。

その横に置かれた出願スケジュール表には、十一月、十二月、一月と、未来が数字になって並んでいる。


十一月に迫るEarly出願。

合否は十二月。


Early Decision──EDで出願すれば、合格した時点で進学先は確定する。

入学は義務。

迷いも、寄り道も、もう許されない。


対してEarly Action──EAなら、合格しても拘束はない。

その後、一月のRegular出願で別の大学にも挑戦できる。

もっと上を狙うことも出来る。


机の上に並んだその文字列は、ただの制度説明のはずなのに、俊輔にはまるで、自分の未来の分岐点そのものみたいに見えていた。


「…………。」


俊輔は、押し黙ったままだった。


担任は、そんな彼をじっと見ている。

急かすでもなく、追い詰めるでもなく、ただ、言葉を待つように。


「怖いか? EAに切り替えるのが」


担任の声は、静かだった。


「この藤崎のエッセイは、そんな仕上がりじゃない」


評価ではなく、確認するような口調。

実力は充分で、迷う必要なんて微塵も無いとはっきり言い切る響きがあった。


「いや………」


短く返した声は、自分でも驚くほど弱かった。

それだけで、胸の奥にある本当の理由が、自分の中ではっきりと輪郭を持ち始める。


脳裏に浮かぶのは──



陽向。



EDで出願すれば、十一月には受験が終わる。

そういうスケジュールで動いていることを、もう伝えてある。


文化祭が終わって。

体育祭が終わって。

秋を越えて。

少しずつ受験が本格化しても。

“十一月でひと区切りつく”という見通しがあるからこそ、二人はその先の時間をなんとなく数えられていた。


けれど、EAに切り替えて、さらにRegularで上のレベルへ挑戦するとなれば。


この戦いは、もっと長くなる。


気持ちも、時間も、生活も、全部をもう一段深く、受験の方へ傾けなくてはならない。


そうなった時──



陽向との“今”は、どうなるんだろう。



それだけじゃない。

もし、陽向との時間を犠牲にしてまでRegularで挑戦した大学に受からなかったら?

結局、Earlyで堅実に抑えた大学に行く事になったとしても。



失った彼女との時間は、二度と取り戻す事なんて出来ない。



その考えが浮かぶたび、胸の奥に小さな痛みが走った。


「そんなに臆病になるなんて藤崎らしくないな……自信が無いか?」


担任の言葉が、静かに続く。


「…………。」


普段なら、どんな質問にも問いかけにも、素早く的確に切り返す。

それが、担任の目に映る藤崎俊輔という人間だった。

それなのに今日は、何も答えない。

沈黙が、そのまま迷いの形になっている。


担任は、その違和感を見逃さなかった。

少しだけ目を細めて、俊輔の瞳をまっすぐに見つめる。


「……星野陽向か?」


その名前が、何の前置きもなく口にされた瞬間。


「え…!?あ、いや……」


俊輔の心臓が、はっきりと大きく跳ねた。


図星だった。


自分でさえ、あえてはっきり認めないようにしていた理由を、あまりにも簡単に、見透かされたような気がした。


進路の話だ。

将来の話だ。

本来なら、もっと大きくて、もっと理性的であるべき選択のはずなのに。


その中心に、ひとりの女の子がいる。


その一般的にはしょうもないような、あまりにも今までの自分らしくもない事実を突きつけられたみたいで、喉の奥がひどく乾いた。


「星野は知ってるのか?藤崎が海外に行く事。」


「はい。伝えてます。」


「それについてはなんて?」


俊輔は、ほんの少しだけ視線を落とした。


思い出すのは、陽向の顔。

最初に伝えたときの、あの表情。


(会えなくなるなら……っせめて1年間だけでも、先輩の隣で、1秒でも一緒に時間を過ごしたいです!!)


(ここから先の1年間を、毎日先輩でいっぱいにしたいです!!)


(…先輩の今を…っ全部私にくださいっっっ!!!)


涙を溢れさせながらそう叫んで、必死にしがみついた。


それでも───


(先輩がニューヨークへ行っても、ずっと日本から先輩の事、推して、推して、応援し続けます!!)


その後には、自分をちゃんと応援すると言ってくれた、あの子の笑顔。


「応援すると……言ってくれてます。」


「…………そうか…。」


担任の声も、少しだけ落ち着いた。

短い沈黙が流れる。

進路指導室の壁時計が、かすかに時を刻んでいる。

その音だけが、妙に大きく聞こえた。


やがて担任は、何かを巡らせたあとで、静かに口を開いた。


「お前達に残された時間が少ない中で、早く受験を終わらせたい気持ちも……よくわかる。」


責めない。

冷笑しない。

“そんなことに左右されるな”とも言わない。

ただ、そこにある気持ちに寄り添い、ちゃんと受け止めてくれる声だった。


その瞬間、俊輔の胸の奥に熱いものが込み上げる。

ぐっと、奥歯を噛み締める。


言葉にしてしまえば簡単すぎて、逆に壊れてしまいそうだった。


陽向が好きだ。

陽向といる時間が、大切だ。

受験を早く終わらせて、その先の時間を少しでも長く彼女と過ごしたい。


そんな感情が、自分の将来に関わる選択をここまで揺らしていることを、後ろめたいと思う気持ちも、どこかにある。


でも同時に──


それを“よくわかる”と言われたことで、

胸の奥の何かが少しだけ、救われた気もした。


「Regularの事、星野に相談は?」


「まだ…してません。」


「そっか。」


担任は、小さく頷いた。

それから、少しだけ笑いを含んだ声で続ける。


「なんて言うと思うか?笑」


その問いに、俊輔の頭の中には一瞬で、ひとつの光景が浮かんだ。


眉をきゅっと寄せて。

絶対に一回は爆発して。

不機嫌になって。

たぶん、むくれて。

拗ねてそっぽを向く陽向。


その姿が、あまりにも鮮明で。

思わず、口元が少しだけ緩んだ。


「多分…怒るんじゃないですか?笑」


つられるように、俊輔も笑った。


「あはは、そうか〜星野は反対するかぁ」


担任のその言い方も、どこか親しみがあって、指導室の空気は一気にやわらいだ。

この場に居ないというのに、どんな堅苦しい空気も変えてしまう陽向の存在感には、改めて脱帽する。

張りつめていたものが、少しだけほどける。


「………でも……話してみます。」


その言葉は、ゆっくりと、でもはっきり出てきた。


陽向との今も、大切だから。


ちゃんと彼女の気持ちも聞かなきゃいけないと思った。

陽向のことを大切に思うなら、なおさら。


受験をどうするかという話だけじゃない。

その選択の中に、彼女との時間が確かに存在していることも含めて、ちゃんと向き合わなきゃいけない。


「そうだな。まずは聞くだけ聞く事からな。」


担任は、やさしく頷く。

押しつけではなく、答えを任せてくれる響き。

一歩だけ背中を支えるみたいなその言葉に、俊輔は小さく息を吐いた。


「ありがとうございました。失礼します。」


丁寧に頭を下げて、俊輔は立ち上がる。

ドアノブを回し、指導室の扉を閉める。

廊下へ出た瞬間、教室棟の空気が少しだけ軽く感じた。

さっきまで閉じ込められていた緊張が、ふっと外へ逃げていく。


俊輔は、ふぅ…と小さく息を吐く。


そして、静かな足取りで廊下を進みながら、ひとり胸の中で思う。


(…………陽向……怒るだろうなぁ〜………)


浮かぶのは、あの子の顔ばかりだった。


でも──


陽向は、きっとわかってくれる。

そんなことで自分を嫌いになったりなんて、絶対にしない。


陽向は、そういう子だ。


その確信があるからこそ、余計に怖い。

甘えてしまいそうになるから。

彼女なら受け止めてくれると、どこかで信じきっている自分がいるから。


そして、やっぱり揺れてる自分もいるから。


だって自分も、陽向とたくさん一緒にいたい。


経営者以前に、今は彼女とイチャイチャしたいのが当たり前である普通の高校生男子。


そんな“今の自分”と“未来の自分”の天秤が、グラグラと揺れ動いていた。


廊下の窓から、午後の光が差し込んでいる。

文化祭前の校舎は少しだけ慌ただしくて、遠くからは、部活の声や誰かの笑い声が薄く届いてくる。


そんな日常の中にいながら、俊輔の胸の内側だけが、少しだけ別の熱を持っていた。


(……今は文化祭前で忙しいし……)


歩きながら、頭の中でタイミングを探る。


(……様子見て……切り出そう……)


その結論は、少し先延ばしで、でも逃げではなかった。


今すぐには言えない。

けれど、言わなきゃいけないことだと分かっている。

その重さごと、胸の内に抱えたまま、俊輔はゆっくりと廊下を進んでいった。


二学期の始まりの光が、その背中を静かに照らしていた。


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