第75話 自分で選んでいいを、大切にします
そして、二学期が始まった──。
夏の熱をまだ少しだけ引きずった朝の空気が、校舎の白い壁にまとわりついていた。
それでも、八月の終わりとはどこか違う。
蝉の声は少し遠のき、風の匂いには、かすかに秋の気配が混じり始めている。
二学期から試験的に導入された“校則基準緩和制度”。
正門をくぐり、続々と登校してくる生徒たちの姿は、一学期までとは明らかに違っていた。
少しだけ明るくなった髪色。
その中には、一学期よりもスカート丈が少し短くなった女子生徒。
制服の定型の中に、ほんのわずかに差し込まれた色。
白か紺しか許されなかった靴下も。
黒、白、紺、グレーしか許されなかったベストやカーディガンも。
黒、茶色しか許されなかったスクールバッグも。
今はそれぞれの好みを映す小さな意思表示みたいに揺れている。
そこには、確かに“自分で選んだ”という温度が宿っていた。
それは、たった少しの変化だった。
けれどその“少し”が、生徒たちの表情を驚くほど柔らかくしていた。
昨日までと同じ校舎。
同じ教室。
同じ制服。
それなのに、自分の選んだものをひとつ身につけているだけで、世界がほんの少しだけ自分に近づいたように見える。
そんな朝だった。
廊下には、いつもより少し高い声の「おはよう」が飛び交っていた。
「それ可愛い」「似合ってる」「どこで買ったの?」
そんな、他愛ないやり取りがあちこちで弾けるたびに、二学期最初の朝特有の張り詰めた空気が、ゆっくりとほどけていく。
教室の引き戸を開けた瞬間も、空気は少し浮き立っていた。
席に鞄を置く音、椅子を引く音、笑い声。
そのざわめきの中で、陽向は自分の胸元を一度だけそっと見下ろす。
赤。
陽向は、照れ隠しみたいにカーディガンの裾をつまんだ。
師匠である最強ギャル・朱里からインスパイアを受けて選んだ色。
少し背伸びして、でもただ真似をしただけじゃなくて、“今の自分もこうありたい”と願って選んだ色。
「陽向おはよー! えっ!赤!?かわいー!」
弾んだ声とともに振り向けば、教室に入ってきた咲が、ぱっと目を輝かせてこちらを見ていた。
「おはよー! 咲もベージュにしたんだ? めっちゃかわいい!」
陽向もすぐに声を弾ませる。
二人は顔を合わせるなり、まるで示し合わせたみたいにお互いのカーディガンへ手を伸ばした。
咲のベージュはやわらかくて、どこか女の子らしい甘さがある。
陽向の赤は、ぱっと目を引くのに、不思議と嫌味がなくて明るい。
自分で選んだ。
自分で着たいと思った。
その事実が、たったそれだけで、少しだけ誇らしかった。
それを咲に真っ先に褒められて、胸の奥がふわっとあたたかくなる。
「スカートもう一個折れば?」
「えっ…私咲みたいに足細くないから!」
「全然太くないよ」
「スカート短か過ぎると朔也がうるさいんだよ」
「そこ…藤崎先輩じゃないんだ 笑」
二人の笑い声が、朝の教室に軽やかに転がる。
校則が少し緩んだだけで、こんなふうに朝から心が弾む。
自分らしさを持つって、ただ自由になることじゃない。
選んでいいと許されること。
それだけで、人はこんなにも嬉しくなるんだと、陽向は改めて思う。
教室の窓から差し込む朝の光が、赤いカーディガンの編み目をやさしく照らしていた。
その光の中で、陽向はほんの少しだけ胸を張る。
それはきっと、ただ季節がひとつ進んだだけじゃない。
この学校も。
この教室も。
そして、自分たちも。
少しずつ、昨日とは違う景色の中へ進み始めていた。
────────。
始業式を終えた日の午後。
まだ少しだけ新学期のざわつきを引きずったまま、街はゆるやかな日常へと戻り始めていた。
ディンバードーナツの店内は、いつもと変わらない甘い匂いに満ちている。
テーブルの上には、それぞれのトレーと、飲みかけのドリンク。
いつもの四人は、ドリンクのストローを口にしながら会話を弾ませる。
変わったものなんて、なにもないはずなのに。
──どこか、昨日までとは違う空気があった。
「戒斗と別れた!」
唐突に、咲の声がテーブルの上を跳ねた。
一瞬、時間が止まる。
ストローをくわえかけていた陽向の動きが止まり、朔也の指先で回されていたスマホも、ぴたりと動きを止めた。
「また? ゆーてもどうせすぐヨリ戻すでしょ」
陽向は、少しだけ眉をひそめて言う。
その声には、心配よりも呆れが勝っていた。
これまで、何度も繰り返されてきた光景。
別れて、怒って、また戻って。
その度に「今度こそ終わり」と言いながら、結局は同じ場所に戻っていく。
今回も、きっとそうなんだろう。
「ううん。もう戻さない。決めた。」
咲の声は、思ったよりも静かだった。
どこか、底の方で固まったものを、そのまま掬い上げたみたいな声音。
「前もそんな事言ってただろお前」
朔也が、いつもの調子で返す。
咲の話しを間に受ける様子は微塵もない。
「今回は絶対絶対なの!まじ蛙化!」
少しだけ強くなる声。
そのわずかな強さが、逆に本気の証明みたいだった。
空気が、ほんの少しだけ変わる。
「で…今回はなんで絶対なの?」
蒼太が、ゆっくりと咲へ視線を向けた。
その目の奥に、一瞬だけよぎるものがある。
夜の公園。
街灯の下。
泣き腫らした瞼。
震える声で、零れた言葉。
あの時の咲の顔が、鮮明に蘇る。
「咲の事…好きじゃないってわかったから。」
咲は、まっすぐに蒼太を見た。
逃げも、濁しもなく。
「ただのアクセサリーで、戒斗は咲の事を周りに自慢したいだけだって思ったから。」
静かに、言い切る。
その言葉は、軽く聞こえるようでいて、実際はずっと胸の奥に沈んでいたものを、ようやく引き上げたみたいに重かった。
その“気づき”が、誰によってもたらされたのか。
咲も、蒼太も、言葉にしなくても分かっている。
「今更かよ…気づくの遅くね?」
「うるさいな!前からわかってたよ!」
朔也のツッコミに、咲はすぐに噛みつく。
でもその反応すら、どこかいつもより柔らかい。
怒っているというより、照れ隠しみたいで。
そのまま、咲はするりと体を寄せた。
「だから私…」
隣に座る蒼太の腕に、両手を回す。
くっつく、というよりは、預けるみたいに。
体温が、じわりと伝わる。
「蒼太と付き合おっかなーって思って」
あまりにも自然に。
あまりにも軽やかに。
───とんでもない言葉が、放たれた。
「「「はっ!!!???」」」
三人の声が、綺麗に揃う。
店内のざわめきの中で、その一角だけが不自然に浮いた。
「さささ、咲!?ガチで言ってんの?え、蒼太の事好きなの!?」
陽向が身を乗り出す。
驚きと混乱が、そのまま声に乗っていた。
「お前やめろよ!こんな身近なところに被害者出すなよ!」
朔也もすぐに被せる。
冗談めかしているのに、どこか本気で止めようとしている。
でも───
そのどちらの声も、咲には届いていないみたいだった。
「えーだめー?」
飄々とした声。
まるで、アイスでも選ぶみたいな軽さで。
咲は、腕を絡めたまま、蒼太を見上げる。
「蒼太なら浮気しなさそうだし、真面目だし、誠実だし、女子と付き合った事ないんだから、女慣れもしてないし新鮮じゃん!」
並べられていく“理由”。
それは、好きという感情というよりは、条件の良さを挙げていくみたいで。
でも咲の中では、それが“ちゃんとした選択”だった。
──もう、間違えたくない。
その思いが、どこかにある。
朔也は、視線を蒼太へ向けた。
「いやー…そうかもしんねぇけど……」
固まったまま、動かない。
何も言わない。
いや──言えない。
「……蒼太は…どうなの?」
逃げ道を与えるみたいな朔也の問い。
でも、その問いすら、咲は待たなかった。
「ね、良くない?いいでしょ?」
ぐっと距離を詰める。
「私の事、好きって言ってくれたでしょ?」
あの夜の言葉を、当たり前みたいに引き出してくる。
確かめるように。
腕に絡む力が、ほんの少しだけ強くなる。
咲のその一言に、陽向と朔也の時間が一瞬だけ止まる。
「え、まじ?」
「蒼太が?好きって?」
軽く聞き返したはずの言葉が、どこか現実味を持たずに宙に浮く。
先週、あの夜。
街灯の下。
泣き腫らした目で、全部を吐き出した咲の前で──
“俺は好きだ”
確かに、言った。
迷いも、誤魔化しもなく。
男に二言は無い。
あるわけがない。
あの瞬間の気持ちに、嘘なんてひとつもない。
だけど──
その言葉が、突然こんなふうに。
こんなにもあっさりと。
こんな形で“返事”として返ってくるなんて、思っていなかった。
覚悟も、準備も、何もないまま。
ただ目の前に差し出されたみたいに。
咲は、変わらない調子で笑っているのに。
その奥にあるものが、どうしても読めない。
陽向は、じっと咲を見つめる。
ふざけて流してはいけない気がした。
今ここで、ちゃんと確かめなければいけない気がした。
「咲は…ちゃんと、本気で蒼太の事が好きなの?」
真っ直ぐな問いだった。
さっきから咲が口にする理由は、どれも“条件”みたいに聞こえていたから。
しかし咲は、一瞬の間もなくあっさりと答えた。
「大好き♡」
ニッコリと。
わざとらしいくらい綺麗に、首をコテンと傾げて笑う。
その笑顔は完璧で、眩しくて、あまりにも“咲”だった。
ボンッ!!と音がしそうな勢いで、蒼太の顔が耳まで真っ赤に染まった。
まるで心臓をそのまま外側に晒されたみたいに、隠しようもなく。
視線が揺れて、呼吸が一拍遅れる。
そんな蒼太を見上げたまま、咲はふわりと笑って、甘えるように言った。
「蒼太なら…私の事、大切にしてくれるよね?」
その言葉は、軽く聞こえるのに。
本当は、どこよりも重かった。
試すみたいで。
縋るみたいで。
でも、それを隠すように笑っている。
愛されたい。
ちゃんと、大切にされたい。
その願いが、形を変えて、そこにあった。
豪快で。
大胆で。
あまりにも真っ直ぐで。
そして──どこか、危うい告白。
「……………………。」
蒼太の中で、言葉が渦を巻く。
嬉しいのか。
戸惑っているのか。
分からない。
あるのは、不安。
彼女は本気なのか。
あれだけ彼氏に依存していたのに。
まさか、この恋が叶うなんて。
現実味が沸かない。
自分の想いが本気なだけ、その真実が怖くなる。
それをどう言葉にすればいいのか、分からない。
腕に絡む温もり。
すぐ近くで感じる呼吸。
期待するような視線。
全部が、逃げ道を塞いでくる。
心臓が、うるさいくらいに暴れている。
喉が、乾く。
それでも──
断る理由なんて、ある筈ない。
咲が好きだ。
俯いたまま。
テーブルの上に、ぽとりと落ちる。
「……………………大切に………しま……す…」
声はかすれていて、途切れ途切れで。
絞り出した言葉は、自分でも驚くほど、小さくて、弱かった。
その一言だけが、やけに重く、場の中心に残った。
「「「……………………。」」」
誰も、すぐには反応出来なかった。
目の前で起きていることに、理解が追いつかない。
「…………ヒュー♪」
その静寂を、軽く裂いたのは朔也の口笛だった。
その音が、ぴんと張り詰めた空気に、わずかな亀裂を入れる。
「まじで!?やった!よろしくねっ蒼太♡」
咲は、ぱっと顔を輝かせた。
さっきまでの重さなんて、なかったみたいに。
腕に絡めていた力を、ぎゅっと少しだけ強めて。
その声は、無邪気で、明るくて、あまりにも軽かった。
蒼太の返事の重さと、あまりにも釣り合っていない。
「おい、ひな行くぞ」
間を置かずに、朔也が立ち上がる。
椅子の脚が、床を擦る音が、妙に大きく響いた。
「え、ちょ…朔也どこ行くの!?」
陽向は、慌てて声を上げる。
「いいんだよお前は!空気読めよ!」
「えっ!あ、そゆこと!?」
一拍遅れて理解する。
その意味を。
一瞬迷うも、もう朔也の手は陽向の首元にかかっていた。
半ば首根っこを引きずられるように席を立たされ、そのまま店の出口へと連行される。
ドアのベルが、カランと鳴る。
外の光が、一瞬だけ差し込んで、すぐに消えた。




