第70話 星に願いを
陽向は、ただならぬ空気を無理やり断ち切るように口を開いた。
「さ…蠍座……っ」
声が少しだけ裏返る。
「蠍座の女の子って、めっちゃ一途だって知ってた?」
言いながら、重なっていた頬をぱっと離す。
そのまま身体を少し引いて、振り向いた。
俊輔の顔が、すぐ近くにある。
月明かりに照らされた顔は、昼間よりずっと大人びて見えた。
「まさに陽向だね。」
俊輔は、優しい声で言う。
「陽向は蠍で……僕はオリオン。」
オリオンと蠍の神話。
それは、ギリシャ神話の中でも有名な星座の物語のひとつだった。
星の話が好きな陽向は、その物語を当然知っている。
俊輔を見ながら、少しだけ眉をひそめた。
「私は俊ちゃんを殺したりなんかしないよ?」
陽向の困り顔に、俊輔は小さく笑う。
オリオンは、美しく強い伝説の狩人。
誇り高く、勇敢で、どんな獣でも倒すことができると自信を持っていた。
「ずっと……僕は、自分が何でも出来ると思ってた。」
俊輔は、少しだけ切なそうに夜空を見上げる。
月明かりが、その横顔を静かに照らしていた。
「自分がやると決めたことは全部実現してきたし…なんでも完璧じゃないといけないって思ってた。そうであるべきことが…当然だと思ってた。」
ある時、オリオンはこう言ったという。
“この地上のすべての獣を、私は狩り尽くしてみせる”
地上の生き物はすべて自分が倒せるというその言葉は、神々にとって危険だった。
それは、地上の生き物は神々のものであり、自然の秩序を壊すほどの傲慢だったからだ。
「恋をしないと決めたなら……当たり前のように完遂できると思ってた。」
その言葉を聞いた神は怒る。
そしてオリオンを止めるために、一匹の蠍を送り込んだ。
蠍は、とても小さな生き物だった。
それでも——
その毒は、深く鋭かった。
小さな尾が振り下ろされた瞬間、毒はオリオンの身体に突き刺さった。
どんな猛獣も倒してきた狩人だったのに。
小さな蠍の毒には、勝てなかった。
そしてオリオンは、命を落とした。
夜空に輝く星々の中で、俊輔はゆっくりと視線を落とす。
その目は、まっすぐ陽向を見ていた。
「慢心していた優等生のオリオンは……」
夜風が二人の間をすり抜ける。
星の光の下で、言葉がゆっくり落ちた。
「陽向という蠍の……恋の毒に殺された。」
柔らかく、優しく、でもどこか降参したみたいに。
俊輔は、静かに微笑んだ。
オリオンの勇敢さを惜しんだ神々は、彼を夜空の星座にした。
そしてオリオンを倒した蠍もまた、星座として空に置かれた。
しかし──
蠍座は夏の星座。
オリオン座は冬の星座。
オリオンが昇ると蠍座は沈む。
蠍が昇るとオリオンは沈む。
夜空の上では、二つの星座は決して同じ季節に肩を並べない。
同じ空に生まれながら、同じ夜を生きることは叶わない。
まるで──
永遠に追いかけ合っているのに、永遠に重ならない運命みたいだった。
その事実が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
俊輔は、陽向を背後から包み込む腕に、もう一度そっと力を込めた。
細い身体が、自分の胸元へきゅっと引き寄せられる。
夜風はやわらかいのに、胸の内側だけが、どうしようもなく痛かった。
見上げた空には、無数の星。
こんなにも綺麗で、こんなにも穏やかな夜なのに。
どうしてこんなに、切ないんだろう。
もしも。
もしもこのまま、時間が止まってしまえばいいのに。
もしも明日なんて来なければいいのに。
もしも離れる未来ごと、全部なかったことにできたなら。
そんな叶うはずのない願いが、喉の奥までこみ上げてくる。
悲しみが零れ落ちるように。
胸の奥に押し込めていた本音が、夜の静けさに耐えきれなくなったみたいに。
俊輔の声は、陽向の耳元へ、そっと落ちた。
「このまま………駆け落ちしたらどうなるかな…」
囁きみたいな、独り言みたいな、小さな声。
けれどその一言は、陽向の心臓を真っ直ぐ射抜いた。
ドクン、と胸が大きく跳ねる。
一瞬、息が止まる。
陽向は、込み上げた動揺を見破られないように、すぐに答えた。
胸の鼓動を誤魔化すみたいに、静かだけど少し明るい声を作る。
「みんな大騒ぎだね」
俊輔も、すぐにやわらかく返した。
「生徒会長と副会長だもんね」
少しおかしくて。
少し寂しくて。
陽向は、笑うみたいに息をこぼした。
「私、海が見えるお家がいいなー。離れ小島とか」
「離れ小島かぁ…仕事あるかな…」
「私、海女さんやるよ!毎日海に潜ってウニとかアワビとかいっぱい採ってくるから、俊ちゃんはそれを料理するの!」
「えぇっ!?僕ヒモになるの?」
「ヒモじゃないよ!主夫になるの!」
二人の声は、楽しそうに弾んでいく。
「この時代なんだから…在宅でIT系の仕事とか…パソコンあればどこに居ても出来る仕事いくらでもあると思うから、主婦になるのは陽向だよ」
「レオだけ連れて行ってもいい?」
「もちろん。毎日一緒に海沿いお散歩しに行こう。」
二人の笑い声が、夜のバルコニーにふわりと溶け合う。
陽向は、すっと夜風を吸い込んだ。
胸の奥まで、冷たくて綺麗な空気が満ちていく。
そして、星で埋め尽くされた夜空を見上げる。
「空想するのって楽しいなー。私、小さい頃から空想するのが大好きなの。」
辛い現実に息が詰まりそうな毎日の中でも。
物語の世界で空想していれば、呼吸が楽になれたんだ。
俊輔も、陽向と同じ星空を見上げる。
「空想の世界では…どんな願いも叶うからね」
その一言には、優しさも、諦めも、祈りも、全部が滲んでいた。
夜空の星は、何も言わずに瞬いていた。
黒く深い空に散りばめられた無数の光は、あまりにも静かで、あまりにも綺麗で。
まるで——
叶わない願いさえも、今この瞬間だけは、そっと許してくれるみたいだった。
陽向の視線は星空から、すうっと一階の庭へ落ちた。
胸の奥に現実が、静かに落ちて来るみたいに。
本当は、ずっと一緒にいたい。
高校を卒業したら、ニューヨークまで彼を追いかけて、自分もそのまま海の向こうへ行けたらいいのにと、馬鹿みたいに本気で思ってしまう。
到底、そんな事は出来ない。
死んでも大学は卒業しろと母に言われているし、大学を卒業するのは、まだ五年も先。
そんな遠い未来に、二人の気持ちがどうなっているかなんて誰にもわからない。
仮にこの想いがずっと変わらないとしても。
海外になんて行った事もない自分は、ニューヨークで──
御曹司に縋りついて生きていく事しか出来ない。
自分が三歳の時に父と離婚した母は、ずっと仕事をしながら女手ひとつで育ててくれた。
母は言う。
“女だからって結婚したところで、いつ男に裏切られるかもわからない。誰かに縋らず自分の力で生きていけるだけの教養とキャリアを身につけろ”
父との離婚の理由は知らない。
聞こうと思った事もない。
でも、知らなくてもわかる。
きっと母は想像もできないくらい傷ついて、苦労して、それでも自分を育てるために前を向いてきたのだろうと。
父の顔は覚えてない。
会ってみたいとも思わない。
だけど。
遠い記憶の片隅に、ぼんやりと映る父親の輪郭は。
太陽みたいに笑う人──
だったような気がする。
それはぼんやりしていて、本当に記憶なのかもわからない。
無意識の奥で、そうだったらいいな、という自分の空想が作り出した、偽りの記憶かもしれない。
私は、母を一人にしない。
これから先も。
たぶん死ぬまでずっと、日本にいる。
陽向は、胸の奥に滲んでくる弱さを振り払うみたいに小さく息を吸った。
無理やりでも笑顔を作って、俊輔の方へ振り向く。
そして現実を、冗談みたいな顔で現実のものにする。
「空の反対側に居る二つの星座は、同じ夜空に存在出来ないなんて、離れ離れになっちゃう私達そのものだね!」
少し明るく言った声は、夜風の中へ軽く弾んで消えた。
俊輔は、そんな陽向を見つめて、やわらかく、でもひどく切なそうに微笑んだ。
「それでも……同じ夜空は繋がってるよ。」
その声は静かだった。
けれど、星空みたいにまっすぐだった。
俊輔はもう一度、満開の夜空を見上げる。
「僕と陽向は…離れ離れになったって、この同じ空の下はずっと繋がってる。」
その言葉が優しすぎて、陽向は胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「アンタレスは……ニューヨークからも見える….?」
陽向は、南の空に輝く赤い一等星を見上げた。
「よく見えるよ。緯度も、季節も、日本から見える星空は、ニューヨークからも同じ星空が見えるから。」
俊輔は、優しい声で続けた。
「……アンタレスを見る度に…きっと陽向が頭に浮かんでくる。」
陽向の瞳に瞬く星たちが、ぼやけそうになる。
だめだ、と思った。
ここで泣いたら、きっと全部が崩れてしまう。
ぐっと奥歯を噛んで、込み上げる涙を押しとどめる。
私は泣いたりなんかしない。
泣いたら、彼を困らせるだけだってわかってるから。
行かないで、なんて言わない。
最初に約束したから。
ちゃんと別れるって、二人で決めたから。
胸の奥で何かがきゅっと締めつけられる。
陽向は、バルコニーの柵から手を離した。
そのまま後ろへ振り向いて──
正面から、ぎゅっと俊輔に抱きつく。
叶わない未来を思いながら。
それでも確かに今ここにある、この恋の温度だけは、
絶対に嘘じゃないと確かめるみたいに。
俊輔の胸に顔を埋めると、心臓の鼓動がすぐ近くで聞こえた。
トクン。
トクン。
それは、陽向の胸の奥と、まるで同じ速さで鳴っている気がした。
俊輔は、そんな陽向を包み込むように、
そっと髪を撫でた。
指先が、柔らかな髪をすくう。
その仕草は、まるで大切な宝物に触れるみたいに優しかった。
愛しさを溢れさせた瞳で見下ろしたとき、ふと、陽向の首元にキラリと光るものが視界に入る。
「………。」
俊輔は静かに手を伸ばした。
月明かりの下で揺れていたのは、星座のネックレス。
指先で、そっとペンダントトップを包み込む。
小さな蠍座のモチーフ。
その中心で、アンタレスの石が赤く瞬いていた。
俊輔は、ゆっくり顔を寄せる。
そして──
指の中の蠍座へ、そっとキスを落とした。
声は、夜の中へ静かに溶ける。
「陽向の心臓アンタレスは……今だけは僕のもの。」
その言葉に、陽向の胸が大きく跳ねた。
ドクン。
いずれ訪れる未来がどうであれ。
この瞬間だけは、間違いなく──
お互いの想いは、ひとつだった。
陽向は顔を上げる。
そして、少しだけ照れたように笑って言った。
「優等生くんオリオンの心臓も……今だけは私のもの。」
月明かりに照らされたその笑顔は、あまりにも幸せそうで。
俊輔の胸の奥を、まっすぐ射抜いた。
トクン、と鼓動が強く脈を打つ。
次の瞬間。
俊輔は、堪えきれないみたいに陽向をぎゅっと強く抱きしめた。
恋しくて。
愛しくて。
どうしようもないほど胸が締めつけられる。
腕に込めた力から、その想いがまっすぐ陽向へ伝わっていく。
陽向も、ぎゅうっと腕に力を込めて抱き返す。
まるで溺れるみたいに、二人は頬をすり寄せ合った。
髪を撫でて。
肩を抱き寄せて。
何度も何度も、体温を確かめ合う。
星空の下で、二人の影がひとつに重なっていた。
「陽向……」
俊輔の声は、かすかに震えていた。
パイル生地のふわふわした布越しに、彼女の柔らかな肌の温もりが伝わってくる。
同じシャンプーを使っているはずなのに、どうして彼女からはこんなに甘い香りがするんだろう。
胸の奥が、じわじわと痺れていく。
蠍の毒は──
静かに、確実に、優等生の身体をじわじわと巡っていく。
理性はまだ残っているはずなのに、それでも思考が霞んでいく。
視界の中心には、陽向の顔しか映らない。
その笑顔も。
温度も。
声も。
全部が、欲しい。
“彼女の全てが欲しい”
その欲望は、理性を越えていく。
強く、勇敢だったはずのオリオンの心臓に、蠍の毒が、深く深く突き刺さる。
俊輔は、陽向の顔をすぐ近くで見つめた。
そして、息をこぼすみたいに言う。
優等生は、殺された。
「………………キスが……したい……」
震える声が、夜の静けさの中にぽとりと落ちた。
その瞬間、世界が止まった。
(………え……?)
陽向の思考も、一瞬で真っ白になる。
さっきまで満天の星がきらめいていたはずの夜空も、
吹き抜けていた夜風の感触も、全部が遠くへ引いていく。
聞こえるのは──
自分の心臓の音だけ。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
俊輔もまた言葉を口にした瞬間、ハッと自分の鼓動の大きさに驚いていた。
言ってしまった。
でも、胸の奥で揺れているこの気持ちは、間違いなく本物だった。
一瞬だけ視線が揺れる。
それでも俊輔は、ゆっくり息を吸い込んだ。
意思を固めたみたいに。
抱きしめていた腕をそっとほどく。
そして──
陽向の肩に手を置き、正面から向き合った。
月明かりが二人の間に落ちる。
「……前にした時は……」
俊輔の声は、少し震えていた。
「……不意打ちで……陽向の気持ちも考えないで……その……強引に……しちゃったから……」
言葉が途中で詰まる。
俊輔は勇気を振り絞るように、まっすぐ陽向の瞳を見つめた。
「……お互いに気持ちがこもった、ちゃんとしたキスを……陽向としたい。」
その言葉が届いた瞬間──
陽向の心臓が、バクンッ!!!!と爆発した。
(ひえっっっ!!!)
「……ちょっと待ってっ!!!」
反射だった。
両手のひらを突き出して、思いきりストップをかける。
俊輔の動きが、ぴたりと止まった。
(やば……!!!)
陽向は我に返る。
今のは傷つけたかも、と焦る。
慌てて言葉を探す。
「い……一瞬!待って……!!」
慌てて付け足した。
“一瞬”。
その言葉だけで、自分でも少し救われた気がした。
しかし。
顔が。
とんでもない勢いで熱くなっていく。
ビーッ!ビーッ!ビーッ!
脳内でいつもの警戒アラートが爆音で鳴り響く。
「すーーーっ……はぁーーー………」
深呼吸。
もう一度。
「すーーー……はぁーーーー……」
……ダメだ。
全然ダメだ。
心臓は暴れ続けるし、顔は燃えてるし、耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。
思わず両手で顔を覆う。
「………〜〜〜〜っっっ」
そのままパタパタと、手のひらで必死に顔を仰ぐ。
何をやっても、全然冷めない。
陽向の大騒ぎの一連の様子を見て、俊輔は思わず笑いそうになった。
胸の奥がじんわり温かくなる。
キスする準備を、こんなに一生懸命に整えてくれているその姿が、どうしようもなく可愛くて。
俊輔は何も言わず、ただ静かに待ち続けた。
夜風が、ふわりと吹く。
バルコニーの柵が、小さくきしむ音を立てる。
遠くの森の葉が揺れて、さらさらと音を立てた。
そして──
ついに。
「……はい……いいよ。」
小さな声。
まだ顔は真っ赤だったけれど、陽向はなんとか覚悟を決めた。
正直なところ、心の準備なんて全然整っていない。
でもこれ以上待たせるのは申し訳ないし、いくら時間をかけたところで、この心臓の暴走が止まるとは思えなかった。
「……大丈夫……?」
俊輔の最後の確認。
「……うん。」
陽向は、恥ずかしそうに目を閉じた。
俊輔の視線が、ゆっくりと陽向の唇へ落ちる。
夜の静けさの中で、呼吸の音だけが近くなる。
そして──
俊輔は、そっと手を伸ばした。
髪をかきあげるように、優しく陽向の頬へ触れる。
俊輔の手のひらの温もりが、陽向の頬に触れたその瞬間。
陽向の脳内で。
ピーーーーーーーーーーーーーー(心停止音)
俊輔が顔を寄せるのと同時に──
「……む……無理…………」
ヒュ〜ンッ!
陽向はそのまま、背後へ思いきり倒れ込んだ。
「おわっ!?陽向!?」
俊輔は慌てて腕を伸ばし、倒れる身体を抱き止める。
陽向の目はぐるぐる回り、顔はゆでダコみたいに真っ赤で、頭の上から今にも煙が出そうだった。
「わー!陽向ー!しっかりしてー!!」
星空の下。
満天の星がきらめくバルコニーで。
倒れた陽向を抱えながら、俊輔の叫び声だけが静かな夜空へ響き渡った。
優等生を毒で殺した蠍は、自ら返り討ちに合い、その毒で自分の心臓までをも殺された。




