第66話 二人きりの特別な対価報酬
伊豆高原駅、到着。
「暑い!!」
思わず陽向の声が弾ける。
正午に向かう八月の太陽は容赦なく、陽向が朝の八時過ぎに家を出た時とは比べものにならない程に強く、高く、真っ直ぐに本気を出していた。
アスファルトから立ち上る熱気。
蝉の声。
潮の匂いが混ざった風。
避暑地という言葉から想像していた涼しさとは、少し違う。
俊輔は肩に掛けたバッグを持ち直しながら、穏やかに言った。
「山の方はもう少し涼しいよ」
その声を聞くより早く、陽向の手がパーカーのジッパーへ伸びた。
ガッ。
「……っ!!」
俊輔の心臓がドキリと跳ねる。
次の瞬間——
陽向はパーカーをガバッと脱いだ。
(ちょ…ちょっと待って!)
「陽向…!いきなり脱がないでよ!」
思わず声が出る。
「暑くて着てらんないよっ」
陽向はケロッとしている。
肩から滑り落ちる黒いパーカー。
白いトップス。
日差しに照らされて突然あちこち露わになる肌。
そして、浅いデニムの腰元から——
ちらりと覗く、ピンクの紐リボン。
俊輔の視線のやり場が迷子になる。
慌てて顔を逸らす。
(……も〜〜〜〜…………)
暑いと言っている彼女に、“着ろ”と言うのは理不尽。
自分は涼しげなTシャツ一枚なのに、彼女だけ厚着を強いるのは可哀想で。
…………頑張ろ。
なにを頑張るのか自分でもよくわからないが、俊輔は精神に気合いを入れて、なにかを振り払うように次の話しへ。
「そこの駅前のスーパーで、今日と明日の食材買い出してから行こう。その前にこの辺でどっかでお昼食べようか?」
なるべく普通の声を出す。
陽向はすぐに笑顔になる。
「うんっ!」
彼女の笑顔を見るだけで、胸の奥のざわつきが少し落ち着いた。
駅から少し歩いた先。
海の前にあるカフェレストラン。
窓の外には、きらきら光る海。
潮風に揺れる旗。
観光客の笑い声。
「伊豆来たら海鮮丼っしょー!」
陽向はメニューを見ながら目を輝かせる。
運ばれてきた丼は、まるで宝石箱みたいだった。
赤いマグロ。
オレンジのサーモン。
透き通るイカ。
きらりと光るイクラ。
「うわぁ…えぐ!」
陽向はスプーンを持ったまま、しばらく見惚れていた。
旅の始まり。
その全部が、少しだけ特別に感じられる。
昼食を終え、二人は駅前のスーパーへ向かった。
店内は観光客も多く、カゴを持った人たちで賑わっている。
バーベキューの食材に、朝ごはん。
二日分の食材をあれこれ選ぶ。
俊輔が言う。
「調味料や家電や調理器具は部屋に全部あるから、食材だけでいいよ」
「カレー作る?」
「陽向って普段料理するの?」
「しないよ」
「え…カレー作れるの?」
「んー…作った事はない!」
「僕もないんだけど…なんか作った事あるやつにしようか………」
「俊ちゃんなんか作った事ある?」
「えーと……ないかも。」
「えー?お坊ちゃんだなぁ」
「陽向はなに作ったことある?」
「おにぎり!」
「陽向…おにぎりは料理じゃないよ」
「おにぎりメーカーあるんだ!ご飯入れて具入れて、8個くらい一気に作れるんだよ!」
「おにぎりメーカーはペンションに無いなぁ…」
笑い合って、ふざけ合って。
結局。
バーベキューで焼く肉と野菜。
そして、電子レンジでチンするだけの冷凍メニューやお惣菜をいくつか選んで。
料理が出来ない二人なりの、バーベキューセットが完成した。
そして、レジへと向かう。
陽向がお財布を取り出そうとしたその瞬間。
「いいよ。」
俊輔は、スマホを取り出す。
「カード、タッチでいけますか?」
「はい大丈夫です。一回で宜しいですか?」
「一回で。」
ピッ
有無も言うタイミングを与えられない程、一瞬で全額決済を終わらせた。
「俊ちゃんっ!」
陽向は慌てて俊輔に千円札を数枚差し出した。
「いいってば。」
俊輔はそのまま袋詰めカウンターへカゴを運んでいく。
「高校生なのに…カードあるの?」
「入ってるのは親のカードだよ」
「だったら駄目だよ…私バイトしてるから」
「陽向は自分で働いて一生懸命稼いでるお金なんだから、そんなの使えないよ」
陽向は真面目な顔で言った。
「逆だよ。自分で働いて稼いでるならともかく…親のお金なら尚更大事にしないと……」
陽向のその言葉に、袋を詰めている俊輔の手はピタリと止まった。
「僕はね、ずっと親の望みも期待も全部忠実に応え続けてる。そのために努力も我慢もしてきたしこれから先もずっとそう。」
声は落ち着いている。
袋へ商品を入れながら続ける。
「自由に使えるカードは僕がこれまで築き上げてきた信頼と実績による働きで得ている対価報酬だから。」
淡々と冷静に、理屈が述べられる。
「陽向は、僕の日々の仕事のモチベになる仕事として重要な働きをしてるから、これは陽向がウチの親から当然に得られる対価報酬。」
袋の口を閉じながら、さらっと言った。
「…………。」
俊輔の理詰めに、陽向はなにも言えずに言葉を失った。
(なんという……屁理屈…!!)
でも……この屁理屈は、優しさだ。
陽向は小さく笑う。
「ありがとう。」
俊輔も、少しだけ照れたように笑った。
買い物袋を持ち直す。
「こちらこそだよ。いつもありがとう。」
タクシーは駅前のロータリーを出ると、すぐに坂道へ入った。
両側に別荘が並び、背の高い木が空を覆う。
しばらく走ったところで、木々の隙間からふっと青い海が見えた。
森の中から突然現れたような広がる海の景色。
伊豆高原駅からタクシーに乗る事10分。
二人は藤崎家所有のペンションの前で車を降りた。
外へ足を踏み出した瞬間──
東京とは少し違う空気が頬を撫でる。
森の匂いと、遠くの海の匂いが混ざった、柔らかい風。
「ペンションって言うか………」
思わず立ち止まり、小さな声が漏れた陽向は建物を見上げて息を呑んだ。
「めっちゃくちゃ豪邸なんだが!!!!」
小さく笑いながら俊輔が言った。
「この辺は…もっと凄い別荘なんていくらでもあるよ」
目の前に建っていたのは、想像していた“ペンション”とは少し違う建物だった。
白い壁の、大きな洋館。
三角屋根は深いブラウンで、まるで海外のリゾートホテルみたいな佇まいだった。
広々としたカースペースには背の高いヤシの木が一本立っていて、その葉が風に揺れるたび、さらさらと涼しい音を立てている。
玄関へ続く石畳のアプローチの両脇には、色とりどりの花が植えられていて、
南国のリゾートみたいな明るさがあった。
それなのに、周囲はとても静かだった。
車の音も、街のざわめきもない。
聞こえるのは、どこか遠くで鳴く蝉の声と、風に揺れる木の葉の音だけ。
「ほら、入ろ。」
俊輔は慣れたようにアプローチを進んでいく。
陽向はもう一度、目の前の洋館を見上げた。
白い壁が夏の光を受けて、まぶしく輝いている。
まるで映画の中に出てくるような、非日常の世界がそこにあった。
ピッピッという軽快な音を奏で、俊輔は玄関のキータッチパッドを操作する。
ガチャ。
玄関の扉が開いた瞬間、ひんやりとした空気がふわりと流れ出てきた。
「どうぞ」
俊輔に促されて一歩足を踏み入れると、陽向の靴音が、コツン、と静かに響いた。
玄関はそれだけで小さな部屋みたいに広かった。
白い大理石の床が、窓から差し込む光を反射してやわらかく輝いている。
壁にはシンプルな間接照明が並び、ホテルのロビーのような落ち着いた空気が漂っていた。
「…すご……」
思わず呟きながら、陽向は靴を脱いで廊下へ上がる。
そのまま数歩進むと、視界が一気に開けた。
リビングだった。
思わず足が止まる。
天井が、高い。
普通の家の倍くらいありそうな吹き抜けの天井に、大きなシーリングファンがゆっくりと回っている。
広いリビングの中央には、大きなベージュのソファがゆったりと置かれ、その前にはガラスのローテーブル。
隣には観葉植物が置かれていて、葉が光を受けてつややかに揺れていた。
床は木のフローリングで、裸足で歩くとほんのり温かい。
奥にはアイランドキッチン。
白いカウンターとステンレスの設備が並び、まるで雑誌に出てくる別荘みたいだった。
壁一面には大きな窓。
そして陽向の足取りは、その大きな窓へ吸い寄せられた。
窓の外には、広いテラスが続いている。
木のウッドデッキの上には白いガーデンソファとテーブル。
バーベキューコンロが備えつけられ、冷蔵庫まで完備している。
その先には、手入れされた芝生の庭がゆったりと広がっていた。
庭の端には背の高い木が何本も並び、その隙間の向こうに──
青い海。
きらきらと光る水平線が、遠くまで続いていた。
光が、部屋いっぱいに流れ込んでいる。
「……え、やば。ちょっと待って」
陽向はゆっくりと部屋の中を見渡す。
広い。
静か。
そして、どこを見ても綺麗だった。
窓の外では、木々の隙間から海がきらきらと光っている。
「……ここ……」
信じられない、という顔で振り返る。
「ガチで……泊まっていいの?」
俊輔は少しだけ笑った。
「うん。どうせ誰も来ないから。」
その言葉に、陽向の胸がトクンと鳴る。
静かな山奥。
誰も来ない二人きりの空間。
豪華で甘すぎる一泊二日を彩る二人だけの愛の巣。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
東京から、たった二時間。
なのにここは、まるで別の世界。
静かな別荘のリビングに、夏の光と海の青さが、ゆっくりと満ちていた。
────────。
静かな伊豆高原の山奥に、不釣り合いな声が響いた。
「ちょっとー!!なんでこんなところに来てまで勉強してんの!?」
リビングに戻ってきた陽向の抗議だった。
ペンションに到着してから、二人はまず駅前で買った食材をキッチンへ運び、冷蔵庫にしまった。
そのあと陽向は広い庭に、もう我慢できなくなったように外へ飛び出し、芝生の上を子どもみたいに駆け回っていた。
その様子を、俊輔はリビングのソファから眺めていた。
大きな窓の向こうで、風に揺れる芝生。
その中を、陽向がくるくると回るように走り回っている。
楽しそうだな、と微笑ましく思う。
口元が自然に緩む。
そのまま背もたれに体を預け、ふっと息をつくと、俊輔は荷物の中からパソコンを取り出した。
ノートと筆記用具もテーブルの上に並べる。
エッセイの推敲作業。
ニューヨーク出願用の最後の仕上げ。
「……よし」
作業に取り掛かろうとした、その瞬間だった。
庭から戻ってきた陽向がリビングの入口でその光景を見つけて、さっきの叫びである。
俊輔は苦笑いを浮かべた。
「いや……一応親に“終わらせる”って言って来たわけだから……多少はやらないと。まだお腹減ってないでしょ?」
「えーーーー!!」
陽向は大げさに肩を落とす。
「それあとどんくらいで終わるの?」
「いやもうほぼ終わってるから……ほんの少しだけだよ」
「やーだー!!つまんなーい!!一緒に遊ぼうよー!!」
そう言いながら、陽向はそのまま俊輔の隣へドサッと座り込んだ。
俊輔の身体に腕を回してぴったりと距離を詰める。
さっきまで庭を走り回っていたせいで、頬がほんのり赤くなっている。
夏の光を浴びた髪が、柔らかく揺れていた。
スリットの網から除く胸元。
デニムの切り込みから露出する太もも。
陽向の身体が、ゼロ距離で密着している。
「……〜〜〜っっ!!」
俊輔は反射的に立ち上がった。
ソファが軽く揺れる。
「そ、そう言うと思ったから……っ」
慌てて言葉を探しながら、俊輔は無理やり笑顔を作った。
「陽向が喜ぶもの、見せてあげるよ……!」
「え?」
俊輔はそのまま陽向の手を引いた。
「来て。」
リビングを抜けて、廊下を進む。
階段を上がり、二階の広い廊下を歩いていく。
木の床が静かにきしむ。
そして廊下の突き当たりの扉の前で、俊輔は立ち止まった。
ガチャ。
扉が開く。
足を踏み入れた瞬間、陽向の目が大きく見開かれた。
「わぁ……すごー!!」
そこは書斎だった。
壁一面の本棚。
天井近くまでぎっしりと本が並んでいる。
古い装丁の本。
革張りの背表紙。
外国語のタイトル。
窓から入る柔らかな光が、本棚の木の色を静かに照らしていた。
「父の書斎。」
俊輔は少しだけ肩をすくめる。
「古い本ばっかりだけど、今は書店や図書室に置いてないような本も結構あると思う。外国人作家の本も多いよ。」
陽向の瞳が、キラキラと輝く。
本棚を見上げながら、ゆっくり歩き回る。
指先が本の背表紙をなぞる。
「……え……ここにある本……どれでも読んでいいの……?」
「うん。」
俊輔は笑った。
「でも陽向は本読み始めると没入しすぎるところがあるから、僕が勉強してる間だけにしてね。」
「もー自分の都合ばっかりなんだから」
「バーベキューしながら本読まれてたら寂しいしつまんないよ」
「そんなことしないよっ!」
二人の笑い声が、書斎に弾ける。
「これは?」
「それミステリー。海外のやつ」
「こっちは?」
「哲学系。陽向には難しいかも」
「はっ!?どゆ事?」
そんなやり取りをしながら、本棚の前でしばらく話し込んだ。
デートで行った書店でも。
学校の図書室でも。
伊豆高原の山奥でも。
二人の会話は、いつもと変わらない。
やがて陽向は一冊の本を手に取った。
「これにする。」
二人はリビングへ戻る。
ソファに並んで座る。
俊輔はパソコンを開き、エッセイの推敲を始める。
陽向は本を開き、静かに読み始めた。
冷房の風が、ひんやりと頬をなでる。
窓の外では、芝生が風に揺れている。
遠くで蝉が鳴いていた。
静かな空間に響く、カチカチ、と鳴る俊輔のタイピング音。
同じソファ。
同じ空間。
それぞれ違うことをしているのに、不思議と心地いい。
特別で、穏やかで。
静かな時間が、ゆっくりと流れていった。




