第65話 東京駅、午前9時。
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「ひなー!ママもう出るから、出掛ける前にレオのことハウスしといてよー」
階段の下から、出勤前の母の声が飛んできた。
忙しい朝特有の、少し急いだ声。
二階の廊下の空気が、一瞬ぴんと張り詰める。
陽向は息を吸った。
胸の奥で、心臓がやけに大きく鳴っている。
ばれないように。
いつも通りに。
平常心、平常心。
「わかったー!行ってらっしゃーい!」
なるべく明るく。
なるべく普通に。
今にも裏返りそうな声を、喉の奥で必死に押さえ込みながら返事をした。
顔は見せない。
階段の上から、声だけ。
足音。
バッグの金具の音。
玄関のドアノブが回る音。
ガチャン。
玄関の扉が閉まる。
——その瞬間。
ダダダダダダッ!
陽向は階段を駆け降りた。
抑えていた時間が、一気に動き出す。
「レオ!おいで!ハウスだよー!」
リビングの床を、小さな爪の音が軽く走る。
振り返ったレオは、陽向の姿を見て一瞬しっぽを振る。
でも次の瞬間。
バッチリメイク。
外出用の服。
気合いの入った髪。
いつもより少し浮き立った空気。
その全部を察したみたいに。
プイッ。
あからさまに背中を向けて逃げ出した。
「あ、こら!レオ!」
ソファの周りをぐるっと回る。
テーブルの下をすり抜ける。
レオはわざと逃げ回る。
「もー時間ないんだからー!レオお願いー!」
数分の格闘の末——
「捕まえた!」
レオを抱き上げる。
小さな体はまだ少し暴れていたけれど、陽向の腕の中でレオは小さく鳴く。
「レオー、お利口さんにしててね」
優しく声を落とす。
「ママが夕方帰って来るまで、ハウスでごめんけど我慢してね」
頬をすり寄せて、ふわふわの毛に顔を埋める。
レオの匂い。
いつもの家の匂い。
そのまま、ちゅっと軽くキスをした。
ハウスに入れられたレオは、しょんぼりと耳を下げる。
しっぽも元気がない。
大きな瞳がうるうるして、鼻を鳴らす。
「キュン……キュン……」
その声に、胸がぎゅっとなる。
これは——
陽向の弱点。
「あー……」
後ろ髪を引かれる。
思わず小さく呟いた。
「誰かさんと同じだな」
視線が、少し遠くを見る。
頭に浮かぶのは、ニューヨークから画面越しで「陽向に会いたいよ〜」と毎日子犬顔をしていた彼。
二週間。
たった二週間なのに、すごく長かった。
会えなくて。
声だけで。
画面越しで。
でも今日は——
会える。
レオのしょんぼりした顔。
家の空気。
母の声がまだ残っている気がするこの朝。
それでも。
今から会いに行くのは、二週間ニューヨークの遠距離で会えなかった、その“誰かさん”。
陽向は少ししゃがみこんで、ハウスの中のレオと目線を合わせた。
「レオ」
小さく笑う。
「行ってくるね」
そう言って立ち上がると、玄関の鍵をそっと手に取った。
外には、夏の朝の光が待っている。
────────。
東京駅の丸の内口は、朝から人の波が絶えない。
スーツ姿の会社員。
キャリーケースを引く観光客。
修学旅行らしい学生の集団。
夏の光が赤レンガの駅舎に反射して、朝の空気はもうすでに少し熱を帯びていた。
その人混みの中で、俊輔は腕時計を確認する。
8:52
8分前。
早く来すぎたかもしれない。
でも落ち着かない。
誰にも言えない。
嘘の上に成り立つ、一泊の旅。
胸の奥が、ずっとざわついている。
頭では分かっている。
これは、正しいことじゃない。
それでも。
(絶対絶対バレない、秘密のデートにしようね)
陽向の声が、ふと頭の奥で蘇る。
思い出すだけで胸が高鳴り、思わず口元が緩んでしまう。
その時だった。
遠くの人混みの向こうから、見慣れたシルエットが現れる。
白いキャップ。
肩に大きなトラベルバッグ。
黒いパーカーを片腕だけ落として、軽い足取りで歩いてくる女の子。
俊輔は思わず息を止めた。
(……え)
近づくほど、はっきり見えてくる。
白い編み上げアップのトップス。
ダメージの入ったデニム。
腰のところから、ちらりと見えるピンクの紐。
(…………)
脳が、一瞬止まった。
大きな旅行バッグを抱えながら、少し得意そうな顔で近づいてくる。
「俊ちゃんっ!」
弾けるような声。
次の瞬間、眩しい笑顔がまっすぐこちらへ駆けてくる。
まるで——
今日を物凄く楽しみにしていたのが隠せないみたいな顔。
ぎゅうぅっ
「生藤崎俊輔ー!ロスしんどかったぁー!」
人目も憚らず、迷わず抱きついた陽向。
俊輔の胸に、一瞬でじわっと温かいものが込み上げる。
「会いたかったよ〜陽向〜」
俊輔の、嬉しい時の癖。
尻尾を振るように、陽向を抱きしめながら身体をゆら…ゆら…と左右に揺らす。
「時差ボケもう大丈夫?」
陽向が顔を上げる。
自然に、抱きしめ合っていた身体が少しだけ離れる。
顔を見る。
笑顔。
「昨日結構ガッツリ寝たから全然大丈…」
次の瞬間——
視線が、つい下に落ちる。
「…………」
俊輔の視線は、完全に止まってしまった。
白いトップスの中央は全部がスリット状になっている。
網のように交差して結ばれている紐に視線は誘導され、腹部から少し覗いている肌色が視界に飛び込む。
ピッタリと身体のラインに沿う布が胸の膨らみをはっきりと浮かび上がらせている。
視線はそのまま意思とは関係なくそのまま腰へと落ちていく。
浅いデニム。
そこから両サイドに出ている。
ピンクの紐リボン。
(…………)
一瞬で理解する。
理解した瞬間、脳がフリーズした。
「ごめん…ちょっと…」
小さく呟いた瞬間、俊輔の手は勝手に陽向のパーカーへと伸びていた。
ジッ——
勢いよく。
一番上まで。
ガーッ!!
俊輔は、陽向のパーカーのジッパーを思い切り引き上げた。
しかし。
デニムの丈は長いものの、大きな切り込みがギリギリの位置まで大胆に太ももの上部を晒している。
普段制服のミニスカートでは見えない領域の肌が普通に露出している。
(………完全ダメなやつ!!!)
俊輔の心拍数は瞬間急上昇。
耳まで真っ赤に染まっていた。
普段の私服デートの時は、フェミニンな印象が強い彼女の服装。
フワフワしたデザインで、身体のラインもそこまで意識しない。
お洒落で可愛らしくて、そんな陽向の私服姿が堪らなく大好きな俊輔。
だけど──
今日の陽向は、いつもと系統が全く違う。
完全に予想外の、こんな変化球に想定している心臓は持ち合わせていなかった。
「なんで閉めるのーーー!!」
陽向は気合いを入れに入れたコーデを突然隠され、不満そうに頬を膨らませた。
「いや…だって………」
その先の言葉が、出て来ない。
咄嗟に行動してしまったが、自分の視線がどこを見てしまったのかを悟られたくはない。
「せっかく…俊ちゃんに見て貰いたくて……服全部買い揃えて…めっちゃ気合い入れて……」
陽向の肩が、わなわな震える。
「俊ちゃんのために…私服も…ルームウェアも…ランジェリーも…全部…可愛くして…」
陽向はいつものように、深く考えも無しにありのままの事実だけを言っている。
「ラ…ラン……っ!!??」
俊輔の呼吸が止まった。
(僕のため!!??)
こんなに大胆な服装で、夜のルームウェアに下着まで可愛く“準備”してきたと訴える彼女は
……………一体どういうつもりだ?
(陽向…なに考えてるの!?)
……夜が…………怖いんですけど…………。
「酷いよっ!駄目だった!?今日のコーデ失格ってこと!?全っっ然良くないし、俊ちゃんのタイプじゃないってこと!?」
旅のスタートダッシュから、陽向の天然過ぎる無自覚攻撃に、俊輔の脳はクラクラするほど朦朧としていた。
「ち、違うよっ!そうじゃなくて……」
俊輔は顔を赤くしながら視線を逸らし、手の甲で熱くなった頬と口元を隠した。
「………っ………良過ぎて………」
何とか言葉を縛り出す。
「…あまりにも…その…可愛いから……」
真っ赤になりながらも息を吸い、高鳴る胸を抑えてものすごく真剣な顔で言った。
「誰にも見せたくないってこと」
ポンッと陽向の顔から火が吹いた。
「え…っ本当っ!?」
「うん。陽向を見る男、全員に嫉妬しちゃう。」
陽向は照れ隠しのようにくるっと背中を向けて歩き出す。
バッグを揺らしながら、振り返って笑う。
「だから、私を可愛いって思うのは俊ちゃんだけだってば。」
「100%ない。世界中の男が可愛いって思う。」
俊輔はすぐに並んで、陽向と手を繋ぐ。
東京駅の朝は、もうすっかり夏の光に包まれている。
「伊豆に行ったら、パーカー脱いでもいい?」
「…う〜〜〜ん…………」
「私は俊ちゃんに、もっと可愛いって思って貰いたいの!」
「着てても充分過ぎるくらい可愛いよ?」
「えーーーー気合いのY2K…なんだっけ…なんとかストリートなんとかアウトドアMIXコーデを見て貰いたいの!」
「なんとかばっかりでそれじゃ全然わかんないよ」
俊輔の胸の奥で、何かが静かに騒ぎ始めていた。
そして二人の旅は——
今、始まった。
東京駅から一本で、片道二時間。
伊豆高原へ向かう特急電車の旅。
車内のシートは横並び。
大きな窓の向こうを、景色がゆっくり流れていく。
最初はビルばかりだった街並みが、いつの間にか低い住宅街へ変わり、やがて遠くに海が見え始める。
特別な遠出でもないのに、電車に揺られているだけで、胸がふわふわと浮き立つ。
夏の光が窓から差し込み、車内の静かな空気を、柔らかく照らしていた。
その時だった。
「あ、そうだ。」
俊輔が思い出したように、足元の鞄へ手を伸ばす。
少し探す仕草をしてから、ひとつの紙袋を取り出して、陽向の方へ差し出した。
「はい。ニューヨークのお土産。」
「えーっ!ありがとうー!」
陽向はパッと顔を輝かせ、袋の中を覗き込む。
取り出したのは、光沢のある、深いブラウンの紙箱。
そこに、細い金色のリボンが静かに掛けられている。
派手なロゴも装飾もない。
けれど、それだけで分かる上品な雰囲気があった。
「チョコ?」
「うん。向こうで有名なお店なんだ。」
「へぇ〜、ニューヨークのチョコってだけでバチくそお洒落だねぇ〜」
陽向は嬉しそうに箱をくるくると回し、表や裏を何度も眺めている。
その様子を見て、俊輔は小さく笑った。
そして陽向は再び紙袋を開く。
「まだなんかあるね」
袋の底を覗き込んで、陽向はもうひとつの小袋を取り出す。
中に入っていたのは、さらに小さな箱だった。
その瞬間。
「…………っ」
“お菓子”じゃないとわかった瞬間、胸が、ドキッと鳴る。
「……なに?…開けていい?」
「いいよ」
俊輔の短い返事を聞いて、陽向はそっと箱を開けた。
ぱかり、と蓋が開く。
「……星……?」
中に収められていたのは、
細いシルバーのネックレスだった。
チェーンは華奢で、光を受けると、静かにきらりと輝く。
ペンダントトップは、小さな星がいくつも連なったモチーフで、その中央にはほんの小さな赤い石。
まるで夜空の星を、点と線でそっと結んだみたいな形だった。
大きな宝石があるわけでも、派手な飾りがあるわけでもない。
けれど、小さな星たちはひとつひとつが繊細に光を返し、控えめなのに、なぜか目を引く。
星の並びは、ゆるやかに弧を描いていて、本当に夜空の星座を、そのまま切り取ってきたみたいだった。
「やば……やば!なにこれ!!めっちゃ可愛いーっ!!」
思わず手に取る。
手のひらに乗せると、とても軽い。
けれどその小さな星の並びは、まるで夜空をひとすくいしたみたいに、静かにきらめいていた。
「雑貨屋さんで見つけたんだ。陽向、星好きでしょ?前に本の話、熱く語ってたから。」
「うんっ!めっちゃ好き。星は私の名前だからね。」
“星野”。
自分の苗字が、陽向は好きだった。
星の雑貨も。
星の本も。
小さい頃から、自然と惹かれていた。
(本の話……覚えててくれたんだ……)
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
「これ……星座?」
「そう。蠍座。」
「だよね!私だー!嬉しい!」
好きな人からの、人生で初めてのプレゼント。
しかも、お洒落で可愛くて、自分の好きなモチーフ。
(なんでチョイスがいちいちこんなセンスいいの……)
どこまで完璧な人なんだろう、と本気で思う。
「つけていい?」
「つけてあげるよ。」
陽向はネックレスを俊輔に渡すと、くるりと背を向けて髪をかき上げた。
その瞬間。
俊輔の手が、ほんの一瞬だけ止まる。
普段は隠れている、白いうなじ。
窓から差し込む光がそこに落ちて、妙に色っぽく見えた。
小さく咳払いをして、何でもないような顔を作る。
留め金をそっとつまみ、静かにネックレスを留めた。
「どう?可愛い?」
陽向が振り向き、無邪気な笑顔を向けてくる。
「可愛いよ。」
その笑顔につられて、俊輔も思わず笑ってしまった。
「俊ちゃんっ!ありがとう!」
陽向は勢いよく俊輔の腕に抱きつき、両腕を絡めて肩へ頭を預ける。
突然の距離に、俊輔は一瞬だけ目を瞬かせた。
けれどすぐに、そのままそっと陽向の髪へ頬を寄せる。
組んだままの腕の先。
重なった手のひら。
指が絡み、ぎゅっと恋人繋ぎになる。
窓の外では、青い海が一瞬だけきらめいて通り過ぎた。
二人はそのまま、伊豆高原に着くまでの時間をずっと寄り添いながら、途切れることのない会話を続けていた。




