第60話 武士道精神。侍魂。
カレンダーが、7月に切り替わる。
紙の端が、指先でぱらりと鳴る度に、陽向と俊輔のカウントダウンは進んでいく。
季節が一段、深くなる。
湿った空気。
肌にまとわりつく熱。
夕立の匂いが、まだ来ていないはずの未来みたいに鼻の奥に残っている。
夏が始まった。
────────。
休日。
地域一番の繁華街は、昼を少し過ぎた頃から、やたらと音が増える。
駅前の大型ビジョンから流れる広告。
信号待ちの人波が、押し合うように動いて、白い日差しに焼けたアスファルトがじりじりと光り、蒼太はそれを”夏だな”と思う。
今日は、好きなブランドの新作スニーカーを買いに来た。
帰り道、蒼太は遅めの昼食を買おうと、ハンバーガーショップに立ち寄る。
冷房の風が、汗ばんだ首筋を一瞬だけ冷やして、皮膚がぞくりとする。
注文を済ませ、番号札を握りしめたまま、窓際の席に腰を下ろす。
紙袋が擦れる音。
トレーを置く乾いた音。
店内は、日常のざわめきで満ちていた。
──その中で。
「ギャーギャー」と笑い声だけが、やけにうるさく響く場所がある。
視線が、勝手にそっちへ吸い寄せられた。
数人の男女グループ。
ふざけたテンション。
椅子の背を乱暴に引く音。
そしてその中心にいる男の横顔に、蒼太の背骨が、ひゅっと冷える。
(……え…………?)
咲の彼氏──戒斗。
以前、高校の正門に迎えに来て、咲の腕を掴んでいたあの男。
戒斗は、隣に座る女の肩に腕を回していた。
距離が近い。
くっつくほどではない、でも“離す気がない”距離。
見た瞬間、胸の奥がざらつく。
それが嫌悪なのか予感なのか、蒼太はまだ言葉にできない。
次の瞬間。
「戒斗ー!今度一緒にストーリーテイルパーク行こうよー」
「やめとけよ。こいつ今3股してるよ?」
「3股!?わー最低だー!」
笑い声が上がる。
軽い。
冗談みたいに、悪意が転がる。
戒斗は、その真ん中で笑っていた。
恥じるでもなく、隠すでもなく。
「お前言うなよー!4股で良ければ俺と付き合う?」
「キャハハハ!ガチで普通にありえないわー!」
ありえないのは、冗談の方じゃない。
──蒼太の中で、何かが“切れた”音がした。
咲の顔が浮かぶ。
以前の昼休み。
(ごめんって言ってきて…それで色々話して………もうしないって約束した)
(咲、中身空っぽだから……つまんない女なのかも)
強がって笑って、でも目を逸らした瞬間の、ほんの小さな傷。
理解したくない答えが、胸の中で勝手に形になる。
熱が、喉から一気に込み上げる。
思考が追いつく前に、身体が立ち上がっていた。
歩く、というより、無意識に引き寄せられるみたいに足が動く。
床を踏むたび、心臓がうるさい。
そして──
ガッ。
蒼太の手が、戒斗の背中の首根っこを掴んでいた。
布越しに伝わる体温。
意外と軽い感触。
そのまま、椅子から持ち上げる。
戒斗の周りが、一瞬で静まった。
「なに?誰こいつ」
睨みつける戒斗の友達の視線が飛ぶ。
女の眉がつり上がる。
店内の空気が、ほんの少しだけ危ない方へ傾く。
戒斗は振り向いて、蒼太の顔を見た。
「あれ……お前、前に門のところで咲と一緒にいた友達じゃん」
飄々としている。
動揺もない。
面倒くさいとでも言いたげな目。
その瞬間、蒼太の内側で、怒りが温度を持って固まった。
「3股って……なんだよ……?」
自分の声が、自分のものじゃないみたいに低い。
拳に力が入る。
指先が震えるのがわかる。
戒斗は、蒼太の手をバッと振り払った。
乱暴なのに、どこか軽い仕草。
「なに?お前、咲のこと好きなの?」
馬鹿にするような笑み。
その笑みの“余裕”が、蒼太の中の理性を削っていく。
咲の気持ちも、嘘も、裏切りも、全部……笑って踏むんだ、この男は。
戒斗は、何事もないように続けた。
「今の話、咲には黙っててくんね?本命は……咲だからさ。な?」
一瞬、世界が無音になる。
“本命”。
その言葉が、軽すぎる。
大切にする人間の口からは出ない。
咲をあまりにも軽率に扱う、その態度が。
蒼太の視界が、赤く滲んだ。
(……ふざ…っけんな……っ!)
怒りが、沸点を振り切る。
止める間もなく、身体が先に決めた。
──ブチッ。
蒼太の拳が、戒斗の顔面に突き刺さった。
ガシャーンッッッ!!!!
テーブルが揺れて、紙コップが倒れ、氷が跳ねる。
誰かの悲鳴が遅れて響く。
「キャーーーー!!」
店内が一気に崩れる。
椅子が倒れる音。
怒号。
誰かが止めようと伸ばす手。
蒼太の鼓動だけが、やけに大きい。
「なに…っすんだてめー!!」
そのまま蒼太と戒斗、殴り合いの喧嘩へと発展した店内は騒然となる。
腕が止まらない。
殴っているというより、取り返しのつかないものを必死に押し戻そうとしているみたいだった。
そして──駆けつけた警察官が、二人を取り押さえる。
肩を押さえつけられて、床に膝が触れる。
冷たさが、ようやく現実を連れてくる。
息が荒い。
喉が痛い。
手のひらが熱い。
騒然とする店内の向こうで、戒斗が警察官へ喚き声を上げる。
人が集まる。
スマホを向ける気配。
蒼太は、そこでやっと気づく。
自分が今、どこにいるのか。
何をしてしまったのか。
終わりだ。
何もかも。
親からも。
学校からも。
友達からも。
咲からも──。
でも、胸の奥に残っているの、後悔より先に、たったひとつの感情だった。
咲が、こんなふうに軽く扱われていいわけがない。
それだけが、蒼太の中で燃え続けていた。
────────。
他校の生徒と暴力事件を起こした蒼太は、週明けの朝一番、職員室横の指導室に呼び出されていた。
小さな個室。
白い蛍光灯が天井から無機質に降り注ぎ、壁に貼られた校訓の文字だけがやけに目に刺さる。
自分、隣に保護者。
机を挟んで、担任、生活指導、学年主任。
向かい合う大人四人の視線が、じわりと圧になる。
蒼太は背筋を伸ばして座っていた。
拳は膝の上。
爪が掌に食い込んでいる。
「津堅……」
担任が、深く息を吐く。
「勉強も剣道も頑張ってて……普段の生活態度も良いお前が、こんな事を起こすなんて…何があったんだ?」
面談室の時計が、コチ、コチ、と規則正しく鳴る。
「……………。」
蒼太は視線を落としたまま、何も言わない。
あの日の光景が、一瞬だけ脳裏に蘇る。
笑い声。
あの軽い口調。
拳が、無意識に強く握られる。
「お前は、理由もなく人を殴るような奴じゃないよな?」
生活指導教員の低い声。
喉の奥が、ひりつく。
理由を、全部言えばいい。
少しは情状酌量もあるかもしれない。
でも——
「……いや……」
声が、少しだけ掠れた。
「むしゃくしゃしてて……横でうるさかったんで……カッとなってやっちゃいました。」
自分でも驚くほど、平坦な声だった。
「……はぁ〜……」
大人達の溜め息が、狭い部屋の空気をさらに重くする。
「そんな事で……勿体ないな。普段頑張ってるお前だからこそ……」
担任の言葉が、優しい分だけ痛い。
「………すみません。」
蒼太は、短く頭を下げる。
謝る相手は、教師なのか。
部活なのか。
それとも——咲なのか。
学年主任が、重たい口を開いた。
「心苦しいが、一週間の謹慎処分だ。次の剣道大会も……出場停止だ。」
その瞬間、胸の奥で何かが落ちる。
夏の剣道大会。
一年間で、一番重要で大きな大会。
ここ数ヶ月、その日のために朝も夜も竹刀を振ってきた。
指の皮が剥けても、足の裏が裂けても、黙って続けてきた。
「傷害、器物破損、営業妨害……しかも繁華街の大型チェーン店だ。警察沙汰でこの程度の処分なのは……普段のお前の行いと実績が良いからだ。」
それは“温情”という名の、最後通告。
「……うす。」
喉が、やけに乾いている。
「うちの学校の剣道部としても津堅の大会不在は大きな痛手だ。だが今回は致し方ない……理解してくれ。」
「もうそこは……自分の責任なんで。仕方ないっす。」
言いながら、自分の声が遠い。
竹刀を握る感触が、急に恋しくなる。
畳の匂い。
打ち込む音。
全部、手の届かない場所に行った気がした。
「以上だ。謹慎中は外出禁止。課題を渡すから職員室に寄って、そのまま帰宅しろ。」
椅子を引く音が、やけに大きく響いた。
────────。
職員室で課題の束を受け取る。
紙の重さが、そのまま処分の重さみたいだった。
廊下を歩くと、教室から授業の声が漏れてくる。
チョークの音。
笑い声。
日常は、何もなかったみたいに続いている。
昇降口で、蒼太は黙って靴を履き替えた。
上履きを脱ぎ、スニーカーに足を入れる。
靴紐を結ぶ手が、少しだけ震えている。
そのとき。
「蒼太っ!!」
息を切らした声。
振り向く前に、わかる。
「咲……お前、授業中だろ。」
「帰るの?」
「あぁ……謹慎くらった。」
「謹慎!!??」
声が、震えている。
蒼太は、顔を上げない。
「うるせぇな。早く授業戻れよ。」
「戒斗が……」
咲の声が、急に細くなる。
「おととい蒼太と喧嘩して警察に行ったって……お前、津堅蒼太と出来てんのかって……言ってきて……」
言葉の最後が、揺れる。
蒼太の胸の奥が、強く締まる。
視線を向ければ、きっと泣きそうな顔をしている。
それがわかっているから、見ない。
「…………。」
沈黙が、二人の間に落ちる。
「……咲の…………せいだよね…………?」
その一言が、胸に突き刺さる。
「違ぇよ!!」
思わず、顔を上げる。
「じゃあどうして喧嘩したの!?」
咲の目が、真っ直ぐすぎる。
言えるわけない。
彼氏のあんな最低な言葉を、咲の耳に入れられるわけがない。
あの軽い笑い声を、咲の世界に持ち込みたくない。
「騒いでたのがうるさかったから殴っただけだよ!」
喉が焼ける。
「お前は一切関係ねぇから!!」
「蒼太っ!!」
その声を振り切るみたいに、蒼太は立ち上がる。
視線の先の正門には、来客用の玄関から出てきた母親が、現実のように自分を待ち構えている。
振り返らない。
“あんな男、もうやめろよ”
振り返ったら、全部壊れてしまいそうだから。
昇降口を抜け、門を出る。
夏の空気が、むっと肌にまとわりつく。
アスファルトの照り返しが、目に痛い。
拳が、まだ少し腫れている。
言えるわけない。
咲が傷つくのがわかっているから。
自分が全て背負えば、それでいい。
それで、咲が笑っていられるなら——
それくらい、どうってことない。
────────。
その日の昼休み。
チャイムが鳴り終わると、廊下のざわめきは勢いよく広がる。
購買や学食へ走る足音、教室から溢れる笑い声、窓の外では照り返す日差しが白く揺れている。
いつもと同じ昼休みのはずなのに。
その“いつも”の中に、ぽつりと異物みたいなニュースが落ちた。
「蒼太が謹慎!?まじかよ!!」
朔也の声が、廊下の天井に跳ね返る。
周囲の何人かが一瞬こちらを見る。
けれどすぐに、何事もなかったように会話へ戻っていく。
世界は、残酷なほど通常運転だった。
咲は、持っていたペットボトルのキャップを無意識にくるくる回していた。
指先が落ち着かない。
「土曜日……西町のロビンソンバーガーで、たまたま戒斗と蒼太が鉢合わせたらしくて……どーゆうわけか喧嘩になったみたいで。2人ともそのまま警察に引っ張られたらしいんだよね」
言葉は軽い調子を保とうとしているのに、語尾がほんの少し揺れる。
陽向の目が丸くなる。
「警察!?えー!蒼太がなんで喧嘩なんか!?」
蒼太の顔が、三人の脳裏に同時に浮かぶ。
剣道部の絶対的エース。
基本、冷静。
真面目。
怒鳴るところなんて、ほとんど見たことがない。
咲は、視線を足元に落とした。
「戒斗は……いきなり突然殴ってきたって言ってて。蒼太は……騒がしかったから腹立って殴ったって……」
一瞬、沈黙が落ちる。
その理由が、あまりにも蒼太らしくない。
「いや、そりゃねーな」
朔也が即答する。
迷いがない。
「うん。蒼太に限ってそれはない!でも、それを言わないのが……蒼太らしいよねぇ〜」」
陽向も頷く。
二人とも、蒼太を知っている顔だった。
短気じゃない。
むしろ、飲み込むタイプ。
だからこそ。
咲が、かすかに笑う。
笑っているのに、目の奥は笑っていない。
ない。
「咲もそう思う。戒斗が……それで昨日咲に、“蒼太と出来てんだろ”って言ってきて……まじで意味不明すぎ」
言葉の最後が、少しだけ荒れる。
陽向の眉間に、きゅっと力が入る。
「自分は浮気ばっかしてるくせに、一丁前に嫉妬してくるわけ?」
夏の熱気より、別の温度が上がる。
咲は、小さく息を吐いた。
「そーゆう奴なんだよ戒斗は……嫉妬男で……束縛男だし……」
言いながら、自分で自分を納得させようとしているみたいだった。
「あの2人、前に正門で軽く揉めてるし。だからそれで多分……戒斗が蒼太を煽ったんだよ………咲のせいで……蒼太に本当申し訳ない……」
その一言が、空気を重くする。
自分を責める癖。
咲は、怒られるより先に自分を責める。
陽向は、即座に否定した。
「いや、そーと決まったわけじゃないじゃんっ!」
声が少し大きくなる。
「実際のところわかんないんだし!だとしても咲のせいじゃないっしょ!」
陽向の目は真っ直ぐだった。
原因探しじゃなくて、今の咲の心を守ろうとする目。
咲の視線が、ゆっくり上がる。
「……陽向……」
その声には、ほんの少し救われた響きが混ざる。
けれど、まだ完全には消えていない。
罪悪感は、簡単には引かない。
朔也が、腕を組んだまま天井を見上げる。
「にしても、あの真面目男が殴るか?蒼太、ワンチャン咲の事好きだったりしてなっ!」
場の空気を、強引に軽くする一撃。
「え!咲も蒼太好き♡」
「陽向も蒼太好き♡」
「……お前ら馬鹿だろ」
陽向も間髪入れずに乗っかり、朔也が呆れたようにため息をつく。
三人の声が重なる。
さっきまで重かった空気が、ひとまず笑いに押し出される。
「お前、生徒会長の彼氏使ってなんとかしろよ!」
「こんなの保護者と学校間の問題だから生徒会は噛めないよっ!つーか俊ちゃんを手駒みたいに言うなーーー!!」
朔也に浴びせる陽向の叫び。
でもその声は、どこか柔らかい。
廊下の向こうで、チャイムが鳴る。
夏の光が窓から差し込む。
問題は何も解決していない。
蒼太は謹慎中。
戒斗は何を考えているのかわからない。
それでも。
三人の間には、まだ笑える余地がある。
それだけが、今は救いだった。




