第59話 三人寄れば文殊の知恵
陽向は、朝五時に起きた。
まだ外は暗い。
窓の向こうの空は、夜の色を薄めたみたいにぼんやりしていて、街は静かで、世界だけが寝息を立てている。
陽向は布団を跳ね上げる。
身体は重い。
眠い。
足先が冷たい。
でも、それ以上に——“責任”という言葉が勝っていた。
誰かの善意に頼らず、自分で自分の責任を取りに行く、と決めた。
決めた以上、今日は「やる」以外の選択肢を持たない。
洗面所の鏡の前に立つ。
冷たい水で顔を洗う。
頬に叩きつける水の温度が、眠気と弱さを一緒に剥がしていくみたいだった。
ヘアセットも、メイクも、そこそこ。
いつもみたいに気合いを入れる余裕はない。
でも、ボロボロの顔で行くわけにもいかない。
“副会長”は、今日も副会長だ。
肩書きは、泣いたかどうかで外れてくれない。
六時十五分。
陽向は家を出た。
春の終わり、梅雨の入り口。
朝の空気はまだ少しひんやりしていて、吐く息が白くはならないのに、胸の奥が少し痛む。
駅までの道は、いつもよりずっと静かだった。
コンビニの前に置かれた幟が、弱い風でかすかに揺れる。
遠くで新聞配達のバイクの音がして、早朝の街だけが動き出している。
電車の窓に映る自分の顔を、陽向は見ないようにした。
見ると、また色んなことを思い出してしまう。
六時四十五分。
陽向は、誰もいない正門の前に立っていた。
校舎の影がまだ長い。
門の鉄の柵は冷たく、朝の光は届ききらずに青みを残している。
普段なら生徒が溢れるこの場所が、嘘みたいに静かで、校舎だけが巨大な生き物みたいに黙って立っていた。
……そして。
門は、閉まっていた。
「くっそ……空いてねーのかよ!」
声が、思ったよりも大きく響いた。
怒りというより、自分を鼓舞するための毒気だった。
誰もいないから、強がりもそのまま落ちる。
陽向は門の前で立ち尽くし、スマホの時計を見る。
まだ7時前。
待ってるこの時間を利用して、陽向はアプリを開き、指を動かす。
まずは朔也。
“生徒会の仕事で学校早く行くから今日先行くね”
送信。
続いて俊輔。
“諸事情で早く登校するから、今日は改札寄らないで学校直行してね”
送信。
文章は短く。
言い訳は書かない。
気遣いも、余計な感情も削った。
(よし。)
画面を閉じる。
それだけで、少しだけ背筋が伸びる気がした。
待っている間、陽向は門の鉄柵に視線を落とした。
冷たい金属の向こうに、いつものアプローチ広場。
いつもの校舎。
いつもの日常がある。
昨日のことが嘘みたいに、世界は平気な顔でそこにある。
自分だけが、置いていかれないように必死になっている。
そのとき。
「あれー早いねー。おはようございますー」
足音と一緒に、のんびりした声が近づいてきた。
顔を上げると、用務員のおじちゃんが鍵束を揺らしながら歩いてくる。
朝の静けさに似合う、ゆるい笑顔。
「おじちゃん遅いよー」
陽向は半分ふざけて言った。
「まだ7時だよ。部活の朝練?」
「ううん。生徒会の作業!」
用務員さんは「そっかそっか」と頷きながら、正門の鍵を開ける。
カチャリ。
金属の音が、やけに大きく聞こえた。
門がゆっくり開いて、朝の冷たい空気が校内へ流れ込む。
陽向は、その隙間から一歩、校内へ入る。
たった一歩なのに、昨日の自分から今日の自分へ、線を引き直した気がした。
「あ、おじちゃん!」
陽向は振り返り、焦るように言った。
「職員室あけてよ。生徒会室の鍵ちょうだい!」
声は明るく作った。
でも、その奥には、必死がちゃんと混ざっていた。
自分のために。
副会長として。
そして、これ以上誰にも迷惑を増やさないために。
生徒会室の扉を開けた瞬間、朝の空気がひやりと頬を撫でた。
まだ校舎は完全には目を覚ましていない。
蛍光灯の白さがやけに冷たく、窓から差し込む薄い光が机の端だけを淡く照らしている。
陽向は息を整え、すぐにPCの電源を入れた。
ブーン、と低い起動音が、静かな部屋に溶ける。
黒い画面に、ゆっくりと光が戻る。
メールフォルダを開く。
昨日自分が削除してしまった企画書データが、各クラス担任から再送されている。
そして──既にPDF化され、フォルダ分けされ、名前まで整えられて保存されているファイル。
(瀬戸副会長…ありがとうございます………)
陽向は深く息を吸い、スクールバッグを開けた。
企画書の束。
USB。
封筒。
昨日、何度も確認して閉じたチャックの感触が指先に蘇る。
それらを机に並べ、ゆっくりとPCに向き直る。
クリック一つ一つに、無意識に力が入る。
保存先を確認。
ファイル名を声に出しながら、画面を指差し、何度も読み上げる。
「1年2組……PDF……文化祭……最終版……1年2組、PDF、文化祭、最終版ね。よし、おけ。」
Enter。
カチ、と小さな音がして保存が完了する。
朝の静寂の中、マウスのクリック音だけが規則正しく響く。
それは昨日の焦燥とは違う、静かな集中だった。
少しずつ、少しずつ、整っていく。
そのとき。
ガラッ。
静まり返っていた生徒会室の空気が、扉の開く音でわずかに震えた。
朝の光が廊下から細く差し込み、床の上に淡い帯をつくる。
「あれー?星野さん!」
弾む声。
振り向くと、三年生書記の橘梨愛が立っていた。
片手にノートを抱え、肩で息を整えながらも、いつもの余裕の笑み。
「何してんの!?こんな朝早く…今日雪でも降るんじゃない?」
その軽口が、生徒会室の冷えた空気を少しだけ溶かす。
陽向は、ぎこちなく口角を上げた。
「企画書の提出期限が今日なんですけど…終わってなくて…ははは」
笑い声が、自分でもわかるくらい薄い。
「橘先輩こそ、早くにどうしたんですか?」
「共通テスト朝演習に参加してて…ノートのページ切れちゃったから、新品ノートが生徒会室にあると思って取りに来たの」
サラッと言うと橘梨愛は、自然な動作で陽向の画面を覗き込んだ。
「あーフォルダ分け?」
「と、PDF化です。」
マウスを握る指先に、無意識に力が入る。
「どこまでやった?」
「半分くらいですかね…」
時計を見る橘梨愛。
「はっ?7時40分過ぎてるよ。星野さん作業スピードゴミスキルなのにあと30分くらいでそれ終わる?」
軽く言っているようで、核心を刺す。
「……………」
陽向は、視線を画面に落としたまま、黙る。
言い返せない。
言い訳も出てこない。
橘梨愛はため息をつくと、迷いなく椅子を引いた。
陽向の隣に腰を下ろし、自分のPCを立ち上げる。
電源ボタンのカチリという音が、やけに頼もしく響く。
「どれ、終わってないやつのUSB。」
「え…橘先輩……朝演習は………」
「別にいい。定期的にやってるし。」
即答。
迷いなし。
「でも……」
「こっち?終わってないやつ」
橘梨愛は、陽向の手からUSBを奪うでもなく、自然に受け取る。
差し込む。
カチッ。
「……すいません…………」
その一言が、やけに重く落ちた。
橘梨愛の指は速い。
無駄がない。
フォルダを開き、ドラッグ、保存、Enter。
リズムが違う。
「なんでこんな朝早くに、1人でこんな事やってるの?」
画面を見たまま、淡々と。
「締切……間に合わなくて……」
声が小さい。
「そんなの瀬戸くんとか、それこそ放課後いつも一緒に居る藤崎会長にパッと手伝って貰えば一瞬で終わるくない?」
「……いや….そーゆう訳には………」
その言葉は、喉に引っかかる。
プライドというより、拒絶に近い。
「……………は?」
橘梨愛の手が、止まった。
マウスが、パッドの上で止まる。
「なに?散々今まで書記の時、橘せんぱーい!あざっす!とか言って当たり前のように9割私に仕事押し付けてきたくせに、今更なに言っちゃってんの?」
視線が、横から刺さる。
「…今まで……本当にすみませんでした………」
陽向は、椅子の上で小さくなる。
「てか……星野さん今日暗くない?」
「……………」
言葉が出ない。
橘梨愛は、再び画面へ向き直る。
キーボードを打つ音が、静かな部屋に規則正しく響く。
視線はPCのまま。
「………何かあった?」
その声は、ほんの少しだけ低い。
陽向は、しばらく黙ったまま画面を見つめていた。
カーソルが点滅している。
そして少し迷った後に、ぽつりと話し始める。
昨日瀬戸副会長に言われた事。
自分の不甲斐なさを自覚した事。
これから自分が成長して、変わっていかなければいけないと感じている事。
話している間、胸の奥がじわじわと痛む。
声は震えないようにしているのに、指先が冷たい。
「ふーん………」
橘梨愛は、手を止めないまま息をついた。
「しかし瀬戸くんて………本当クソみたいにド真面目だよね。」
「はっ!?」
予想外すぎて、声が裏返る。
「だいたいさ!」
パチンッとEnterを強く打つ。
画面が切り替わる。
身体ごと陽向の方へ向き直る。
「あなたのミスやトラブルは今に始まった事じゃないわけ。私は去年散々、議事録の誤字脱字、資料の印刷ミス、他にもたくさん尻拭いしてきたわけよ。」
言葉は荒いが、目はまっすぐ。
「その度に“そんな細かいこと気にしないで下さいよー”とか“それ直すの明日でも良くないすか?”とか、書記の時は平気で言ってたくせに、副会長になった途端に言えなくなっちゃうわけ?」
陽向の喉が、ぎゅっと締まる。
「肩書き変わった瞬間に、人ってそんな簡単にバージョン切替えみたいにパッと変われるの?」
問いというより、突き放すような現実。
「男のくせに、たかが3ヶ月星野さんと一緒に仕事したくらいで根をあげちゃってさ。まー副会長は書記と違って仕事量も責任も違うからわからなくもないけどさ。」
吐き捨てるように言う。
そして、少しだけ目を細める。
「それにしたってよ。星野陽向だよ?このポンコツゴミスキルすっとこどっこいの星野陽向相手に“副会長の自覚”だとか“次期生徒会長として学校を背負う”とか、そんなの解いたところでって話しだよ。」
「なんか………ディスられてるのか…励まされてるのか…わかんないんですけど」
「……………。」
一瞬、静寂。
橘梨愛は、ゆっくりと画面へ向き直る。
「まーつまり、気にすんなって事。」
キーを打つ音が、柔らかく戻る。
「そんな事言われてへこむの、星野さんらしくないよ。」
その一言が、胸の奥にすとんと落ちる。
「締切なんて、あくまで作業終了目安なんだから。すいませーん!終わってないんで明日でもいいっすかー!って。平気でサラッと言っちゃうのが、星野陽向の良いところでしょ。」
「それ、悪いところじゃないですか?」
「普通の人はそんなの明るく言えないからね。人には出来ない事が出来ちゃうところが、良いところって事!」
視線をこちらへ向けた橘梨愛の笑顔が逆光で、朝の光が少しだけ強くなった。
生徒会室の空気が、ほんの少し、軽くなる。
その瞬間。
ガラッ。
静かな朝の生徒会室に、やや勢いのある扉の音が響いた。
橘梨愛と陽向が、ほぼ同時に振り向く。
そこに立っていたのは、副会長・瀬戸晴翔だった。
少しだけ肩で息をしている。
早足で来たのが分かる。
「…うわ……本当に来てた……って、あれ?橘さん?」
その第一声には、安堵と、驚きと、ほんの少しの拍子抜けが混ざっていた。
橘がにやりと笑う。
「噂をすれば、パワハラ副会長!」
「誰がパワハラですか!」
即反射。
そのやり取りに、張り詰めていた空気が一瞬だけ緩む。
瀬戸副晴翔は二人へ歩み寄る。
視線はまず机の上。
USB。
フォルダ。
そして陽向。
「言っときますけど、僕のパワハラじゃないですからね。星野さんが勝手に、自分で朝早く来てやるって一方的にLINE入れてきて……その後いくら連絡入れてもオールスルーでしたから。」
声は冷静。
でも、言葉の端が少しだけ速い。
横目で陽向を睨む。
「ははは…すみません…」
陽向は笑う。
でも、その笑いは昨日ほど空虚ではない。
視線を逸らさないで、ちゃんと受け止める。
「というか、なんで橘さんにやらせてるんですか!これは星野さんの仕事ですよ!」
一歩、踏み込む。
責任という言葉が、その背中に張り付いている。
「…あ…ごめんなさい!あと私やります!」
条件反射で立ち上がりかける陽向。
椅子がギィ、と鳴る。
その瞬間、橘梨愛が割って入った。
「いちいちうるさいな!誰がやったって同じでしょこんなもん。そんな細かい事でいちいち後輩を虐めんじゃないよ」
「い…虐めてなんかいません!僕は彼女の為を思って……橘さんもそーやって、藤崎会長みたいに彼女を甘やかさないで下さいよ。」
一瞬、言葉に力が入る。
その名前が出た瞬間、空気が少しだけ変わる。
そして橘梨愛は目を細める。
「そんな事言うけど、じゃあ瀬戸くんはこんな朝早くに、ここに何しに来たわけ?」
一拍。
「そ…それは………」
言葉が止まる。
理屈ならいくらでも並べられる。
でも本音は一つだ。
心配だった。
それを言うのは、悔しい。
「瀬戸くんだって、星野さんが心配で来たくせに」
橘の追撃。
「星野さんが、じゃなくて、企画書が心配で来たんですよ!」
即座に否定。
声が少しだけ大きくなる。
「そもそも朝早く来るかも当てにならないし、本当に来たのかどうか、確認しに来ただけです。」
正論。
理屈。
でも、目はちゃんと陽向を確認していた。
「へー。確認する為だけにわざわざ早起きして学校来たんだ?たいしたもんだね。」
「………ぐ…」
図星に近い。
瀬戸晴翔は視線を逸らし、鞄を机に置いた。
「手伝いに来たんでしょ?早くPC立ち上げて、それ、あと残りだからやりなよ。まぁもうすぐ終わるけどね。」
橘梨愛の言葉は雑だが、席を空ける気はない。
「まったく…….結局こうやって…みんなの手を煩わせて………なんでいつも尻拭いばっかり……」
ぶつぶつ言いながらも、瀬戸晴翔は鞄から自分のPCを取り出し、立ち上げる。
立ち上げ音が重なる。
三人分のキーボードの音が、生徒会室にリズムを作る。
カタカタカタ。
クリック。
Enter。
昨日の“焦りの音”とは違う。
今は、連携の音。
陽向は、二人の速さに少し遅れながらも、必死についていく。
気づけば、フォルダは整理され、PDFは揃い、チェックは完了していた。
時計を見る。
八時。
窓の外は、すっかり朝の色だ。
「ほらーこんな余裕で終わったじゃーん。」
橘梨愛が椅子にもたれる。
「みんなでやれば一瞬で終わる作業なんだから、それを星野さん1人に押し付けて、そーゆうのがパワハラなんだよ」
「パワハラじゃありません!」
瀬戸晴翔は即座に反論する。
「これは本来星野さんが1人で終わらせなきゃいけない仕事なんです!それは星野さんの、副会長としての責任ですから。」
その声は、怒りというより信念。
責任を軽くしたくない。
軽くしたら、彼女が苦労するのが分かっているから。
「こんなポンコツ副会長に責任を問うなよ。」
橘が鼻で笑う。
「藤崎会長は優秀で御前上等な副会長って、僕の事を言うならまだしも…彼女の事をそう言ってましたから!」
瀬戸晴翔の言葉が、少しだけ強くなる。
そこには、ほんのわずかな棘。
「ねぇ………もしかして嫉妬してる?」
橘梨愛がわざとらしく、陽向の耳元に囁く仕草で割と大きな声。
「…瀬戸くんって……もしかして藤崎会長の事……」
「え…っ!?そーだったんですか…なんかすいません…」
陽向が即座に乗る。
目がきらりと悪戯に光る。
「そんなわけないだろーーーーっ!!!!」
瀬戸晴翔の叫びが、朝の生徒会室に響く。
その瞬間、橘梨愛と陽向の爆笑が弾けた。
さっきまで張り詰めていた空気が、完全に砕ける。
笑い声は高く、明るく、昨日の涙を上書きするみたいに広がった。
そんな生徒会室扉の外──
俊輔は、廊下に立っていた。
中から聞こえる笑い声。
瀬戸晴翔の叫び。
橘梨愛の高い笑い。
陽向の、あの弾けるような明るい声。
(へぇー……)
昨日、瀬戸晴翔から届いた“締切に間に合わない”という連絡。
今朝、陽向から届いた“早く登校する”という短いLINE。
当然何らかのトラブルが起きた事を察していた。
そして陽向の力になるべく、LINEを読んですぐに家を出た。
でも今。
(……企画書………間に合ったんだ。)
俊輔の胸の奥で、静かにほどける。
陽向は、自分で来た。
自分で向き合った。
そして今、笑っている。
「先輩達のお陰で時間余ったからメイクしよーっ」
陽向はスクールバックからメイクポーチを取り出した。
「生徒会室でメイクすんな!」
橘梨愛の声が飛ぶ。
「副会長のくせに、堂々と当たり前のように校則違反しないで下さいっ!!」
「硬い事言うなよーみんなしてるって!そんなクソ校則、誰も守ってないから」
瀬戸晴翔の真面目な言葉に、陽向はビューラーでまつ毛を上げながらケロッと答える。
数字じゃない。
実務じゃない。
スキルじゃない。
絶望的な困難でも人を惹きつけ、状況を変えてしまう陽向の力。
俊輔は、穏やかに微笑み、静かに踵を返した。
朝の廊下に、彼の足音だけが小さく響いた。




